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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ八(1/4)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

 罰ノ八:「白里翁」との初顔合わせで「月形禎一」の話が出る。
     弥富からはフラれ、静葉には足抜けを持ちかける。
     春駒の収監を知らせにきた田添とは口論になるが、
     下宿部屋だった事もあり止められた。

イントロダクション
序説  罰ノ一  罰ノニ  罰ノ三  罰ノ四  罰ノ五
罰ノ六  罰ノ七  罰ノ八

(文字数:約4000文字)


罰ノ八 他所に見る


 今この場で初めて顔を合わせたはずの、白里はくりおう、ーー実際に目の当たりにすると短く刈った総白髪に、顔にも手にも深いシワが数多く刻まれた、痩せ型の老人で、「様」を付けるよりは「翁」がいかにも相応しく思われたーー、に楠原は、どこから来たものか分からないほどのなつかしさと、ほっと心持ちがゆるみ両肩が、ゆったりと下りてくる感覚を覚えた。
 来客側に向けた文机を隔てて、座椅子に座っているので、背の高さまでは分からないけれど見た目じゃなくてこの人、強いし重たいし。
「まずはお名前を、お聞かせ願えますかな」
「と……、楠原です。楠原、大喜」
 思わず本名だと常日頃思っている名前を、口にしそうになったほどに。
「楠原さん」
 繰り返しながら白里翁は、ごく僅かに笑みを強める。役者たちに割り当てられた役名を、ただ読み上げている印象だ。無論白里翁自身が、本名ではない。
「それでは貴方御自身と、お相手の方について、お話し下さい」
 自分よりも相当目上の男性から、貴方、と呼んでもらえる事に、敬語で話される事にも楠原は、当然慣れていなかったが、この場ではまず別のところが気になった。
「相手、とか呼べるほどの、間柄じゃあ……」
「なるたけ詳しく」
 身振りなどは何も加えられていないのに、制せられた、感じがした。
「しかし、この先必要と思われる分を。私達の存在が、貴方の側で利便となれるか否かは、貴方からもたらされる情報の、正確さにかかっています」
 穏やかそうな笑顔だけれどもその言葉選びには、日頃言葉に気を使っている者であればあるほど伝わってくる、真剣味があった。よく聞かされる、耳に馴染んだ心地の良い、言い回しじゃない。
 珍しく、緊張を表に出したままで楠原は語り出し、語っている間は白里翁は、頷く程度で何事も口を挟まなかった。それで徐々に緊張が、ほぐれてはきたものの、「なるたけ詳しく、しかし必要な分」を峻別する事は難しかった。
 しかし話しているうちに峻別の必要までは無い事も分かってくる。自分が今、この場でどう考え、何を選び取って話していくか、その全体の流れをただ聞かれている。
 聞いているだけで人の信頼を得る事が出来るものなのか、と敬服しそうになったがしかし、身近で似たような感覚に、ちょくちょく触れているような気もしていた。そちらは身近過ぎて、一つ一つを強くは意識してこなかっただけで。
「……今、言えるのはそんな感じです。その……、それで全部、です」
「はい」
 と目は楠原に据えたまま、頷きはせずに言ってくる。
「良いでしょう。私達の方で、お力添えできると思いますよ」
「本当ですか?」
「ただし、意志確認は御自身で十全に、お願いします」
 選ばれた語句の一つ一つを、聞き分け受け入れただけの間を空けて、楠原は答えた。
「はい。分かっています」
 この時代の老人には珍しく、髭を生やしていない白里翁の口元に、思わず深めた笑みが見て取れた。
「貴方に私の話をしてくれた彼にも、『その土地』を教えるよう、伝えておきましょう」
 穏やかに細めていた目を見合わせて、わずかな間だけ見開いてくる。
「もっとも貴方は既に御存知と思いますが」
 すぐにまた、細められたのだが楠原の方で、息を詰めるには充分だった。
「教えられて初めて知ったかのように、振る舞ってあげて下さい」
「その……、どうして……」
「これまで訪ねに来た他のどなたとも、話の流れが異なります」
 穏やかそうな口調だけれども楠原側の戸惑いは、口に出させる前に覆いかぶせてくる。
「私達の、目的ともことごとく、合致している。先に場所を知りその上で、関係する者を探し出したのだと、考える方が自然です」
 何ら驚くべき事ではないかのように、処そうとしてくれている、事が楠原には気付けてしまう。
「場所そのものは隠されてもいませんから、偶然入り込んだ者が、とりわけ注意深い性質であれば、裏側に、気を留めることは有り得ます」
 密偵である事は、気取られても構わない。今や官立のみならず、私学もそれぞれに抱えている。何せ国が真っ先に抱え込んだ。ただどの立場に所属しているかを、悟られる事は困る。田嶋屋から足抜けした花魁、花里が、身を寄せに行った場所である事は、突き止めても口には出さなかったけれど、
月形組つきがたぐみの跡地ですよね」
 他で最も気に掛かっている単語を口にした途端、白里翁の表情には明らかな、作ったものではない驚きが現れた。
「そちらの方面から来られた方は初めてです……」
 何を気にされているかは分かっていたので、「いえ」とまずは打ち消した。
「何も、関係者とかじゃないんです。ただ気になって事件を、追いかけていただけで……」
「私達も、売りに出されていた土地をちょうど手頃だったもので、買い取ったまでです。おかげで古くから知る大抵の者は、まず近寄って来ませんから」
 江戸の頃から港湾で、荷役や船の乗組員を取り仕切っていた、月形組の前当主は、自身の親族や血縁ではない養子に跡目を継がせた直後、屋敷内で凄惨極まる形で亡くなった。
 その描写に詳細さ加減は新聞によってまちまちだが、よほどの恨みを抱いた者の犯行、と見られている。
「容疑者、ってなってますけどその、行方不明、になってる今の当主」
月形つきがた禎一さだかずですね」
「ソイツが犯人とは、どうも思えないなって……」
「同感です。状況証拠ばかりがあまりにも、揃い過ぎている」
「ですよね。彼が犯人なら都合の良い奴が、よっぽどたくさんいるとしか」
「国家です。おかげで月形組の権益は、全てが速やかに国の所有となった」
 断言されて楠原は口をつぐんだ。そこを速やかに断言されるとは、想定していなかった。
「現当主はおそらく国の保護下に置かれて安全でしょう」
 黒眼の大きな目を、二、三回瞬かせて楠原は、首を傾げる。
「そこを気にされているように感じましたが、違いますか?」
「いえ……。そことは、ちょっと……」
「おや」
 そもそもが屈強な男どもで構成され、お世辞にも、柄が良いとは言えない集団ではあったが、近代的な港が整備され西洋式の機械船が導入される以前は、彼らが日々の積み荷を守り巨額の資産を動かしていたのだ。余計な深みにまで立ち入らなければ、庶民に対しては客分に対する当然の、礼節を尽くした。
「安全、と言い切れるかどうか……、例えば違う名に、身分を与えられて、まるで別人みたいに過ごせていたとしても……、昔馴染みの構成員たちからは、ソイツ、ものすっごく恨まれていますよね」
「無論、でしょうけれど本人が決めた事であれば、それで納得づくだと思いますよ」
 白里翁の側で話を切り上げ、距離を空けてきた以上は、楠原もそこから先に進めるわけにいかない。国家側に付いた者として、現当主はもしかすると、快くは思われていないかもしれない。
 うつむいて目線を落とした先に、文机の傍ら、向かい合う白里翁の右肘辺りに置かれた書物が目に入った。
 黒い表紙で分厚くて、表紙の中央に、斜め前からの目線ではかすかにだが金色こんじきが見える。その瞬間に、
「どうか、しましたか?」
 と白里翁から尋ねられてしまうほど、息を詰め顔色を変えてしまった。
「いえ。別に……」
 答えあぐねている間に翁の方では視線をたどり、その先に見た物に「ああ」と笑みを深めてくる。
「どうか、お気になさらず。これは、ただ私一人の信仰ですので」
 本の表紙に手を置き金色が隠れてくれたのは、むしろ楠原への配慮であるようだった。
「貴方にも他のどなたにも、強要するつもりはありません」
 それと同時に目を開けて「自らは手放すつもりが無い」事も伝えてくる。
「恐ろしい事は分かります。本来私達には、長く馴染みが無かったものだ。列強と肩を並べようと、無理に性急に取り入れようとして、不快な思いをされる機会も、若い方々には多くあったでしょう」
「それでも白里、様はその……」
 胸の内で呼んでいた「翁」は、口元で「様」に変えざるを得ない。
「信仰、されてるんですよね」
「それはね。こうした物でも無ければ。『誰かを助けたい』だなんて本来私達には、恥ずかしくてとても口に出来ない事なんですよ」
 まさしくそうした文句を口にしたばかりだったので、楠原は思わず茶色っぽいふわふわの、頭を掻いた。
「そうですね……。どの口がほざくんだって、自分でも……」
「あ。違いますよ、君。それはね。あちらの人々の考え方」
 君、の一語で掴まれた腕を、白里翁の陣営に引きずり込まれた感じがした。
「本来私達には、あちらの人々が言うような、『罪』の概念がありません」
 いつの間にか「私達」の中に組み込まれてしまってもいる。そうと気付いた時にはもう遅い。自分からは跳ね付け難い快さがある。
「従って『罰』も無ければ『不幸』も無い。似通ったものはありますがね。こちらの側から手を差し伸べて、『助ける』ものでは有り得ない。そこに優劣を感じない、わけですから」
 もやもやと、胸の内に頭の中に巣喰い続けていた違和感を、言葉に変えて断じられただけだ。身振りなどは何も加えられておらず、実際に行動するのは自分も含めた、表向きは学生達。
 危険な人物だとは思ったが、危険性に気付いた楠原に、見所を感じ今後取り立てるつもりでいる事が、楠原には伝わってしまう。


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