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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』地獄ノ一(1/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

 地獄ノ一:年が明け白里翁を訪ねた楠原は、
      『ヨブ記』の講釈を聞く。
      順調に進むかに思われたその年の、
      二月十一日は新憲法公布の日であった。

イントロダクション  序説
罰ノ一  罰ノニ  罰ノ三  罰ノ四  罰ノ五
罰ノ六  罰ノ七  罰ノ八  罰ノ九
地獄ノ一  地獄ノ二  地獄ノ三  地獄ノ四

(文字数:約3000文字)


地獄ノ一 闇に入る


 毎晩親父のために敷き延べられた、やたらに広くふかふかの寝床で、親父の隣に寝かせられてもいたが、オレの場合は、周りの連中が想像を巡らしニヤつきながらしゃべり合っているような事柄に、ただの一度も遭わなかった。
 そもそもがそのつもりで引き取った子供を、期待を掛けて大切に育てていながら、事故で亡くした長男の名前で呼びはしない。まぁ、まともな感覚の持ち主であれば。
「絶望、というヤツか。これは」
 一日を終え布団の内で、ようやくしゃべり出したオレに、親父はまずクックッと笑ってくる。
「随分と小難しい言葉、頭に納め入れたじゃねぇか」
 一日中をオレが、家にいる連中や家に出入りする連中に紛れて、何も分からないフリをして、しれっと全てを聞き覚えている事を、親父は知っている。
「親父がオレの父親だとしてもおかしくない」
 親父の側に寝返りを打つと、親父の側からもオレを向いて、布団に肘をついた手のひらで、頭を支えている。
「親父だけじゃない。この家にいる連中の誰が父親でも、こことは何の関係も無い他所の人間でも、ちっともおかしくはない」
 布団に両手をついてオレは、一旦は横たえていた身を起こして、
「オレもその中には入っている、と思いながら言うんだが」
 オレ自身、と言うよりはオレの身を借りて、誰かが親父の間近に顔を寄せさせて言わせているような心持ちで、オレは口にした。
「お前たちは一体、何なんだ」
 腹を立てているような気もするし、憐れんでいるような気もする。自分でも、口にしていながら妙な心持ちだ。
「阿呆だと言い捨て切れもしない。何せ、オレも入っている。だがその上で阿呆でしかないのかもしれない。分からない」
 睨めつけるようなギロリとした目でオレを見上げながら、オレが何かしゃべっている間は、何も話してこないんだなと思った。「うるさい」だの、「黙れ」だの、鼻で笑ってみせるだので、すぐに口を封じてくるものと踏んでいたが。
「オメェを拾ったのはやっぱ間違いじゃなかったな」
 ふ、と笑みを浮かべてから起き上がり、枕元の煙草盆を近寄せて煙管の用意を始める。
「普通は年食って人生も仕舞い辺りになってから、ようやく思い当たるか、一生掛かったってその辺は、何にも考えねぇ気にもしねぇまま通り過ぎちまうような話だ。まぁだとおにもなっちゃいねぇガキが、もうたどり着いてやがる」
「みんな、地獄を見てはいないからな」
 そうオレが言い終えた時、親父の手元で煙管に火が入った。オレは寝床の元の位置に這い戻って、横たわった身の上に、布団を掛け直す。
「すぐそこの、近くにいつもあるってのに、自分たちで作り上げた分すら、目に映っていない。自分たちには縁が無い場所だと、思い込んでいたいんだな」
 食えもせず腹がふくれもしない、煙草の香りが届いてくる。
「やはり阿呆か。いや」
 ふ、と先ほどの親父みたいな笑みが浮かんできた。
「愚か者だな」
「もう寝ろ。サダカズ。おやすみ」
 あいさつ、と呼べる言葉を交わし合った事など、オレにはそれまでに無かったものだから、その文言が何なのか、わざわざ口にしたところでそれが何になるものか、しばらくは気に留めずにいたのだが、
 オレが同じ文言を言い返すまでを、待たれている、と勘付いてからは、意味なども分からないなりに口にした。
「おやすみ」
 目を閉じたオレの頭に、親父の分厚い手のひらが乗ってきて、わずかな合間を動かしたり軽くポンポンと叩いたりしてくる。
 なるほど。こうして人は愚かになっていくようだと、オレは寝入りながら思っていた。

 松の内を過ぎてから、ただの一人で目立たないように訪ねて来た楠原に、白里翁は機嫌が良さそうな目を細めていた。楠原は知らなかった事だが他の学生どもは、年が明けたその日から我先にと、大挙して新年の挨拶を述べに来たものだから。
 白里翁と学生たちとの関わり合い自体が、密事であるにも関わらず、単純に、礼節や普通らしさといったもので大概の連中は、自らの行いを決めてしまう。
 挨拶を述べた後楠原は、文机に置いてある黒い革表紙の本を、手に取らせて欲しいと頼んだ。文机に対しあぐら座りになった膝の上で、しばらくの間ページを繰り続けていたが、やがて首を斜めに傾け、本を閉じる。
「すみません。お返しします」
 笑みを浮かべながら返すと、白里翁も同様にして受け取った。
「前から、気になっていた文章があったんですけど、どの章の、どういった場面かまでは分からなくて……」
「どのような内容ですか」
 問われて楠原は思い返す風に目を逸らす。
「欲情しながら女を見た奴は、それだけで罪人だとか何とか……」
 ああ、と白里翁はまず苦笑した。
「『マタイ伝』ですね」
 ふた重の目が二、三回、瞬きした。
「すごい……。そんなにすぐ、分かるものなんですね……」
「それはまだ簡単です。イエスが人々を呼び集め、山上で最初に行った説法だ。なるべく多くの者に興味を抱かせようと思えば、まずは誰しもに思い当たる話をする」
 頷いて少しばかり、ためらっていたものの言い出した。
「もう一つ……、あるんですけど、いいですか……?」
「どうぞ」
 もちろんそのつもりで白里翁は開きかけの本を構えている。
 楠原は、姿勢を正して座り直し、目を伏せて、深く息を吸い直してから、暗唱を始めた。
「『姦淫を為す者は、夕闇を待ち構え、
  誰の目も我を見る事は無からん、と言いにき』」
 部屋の内にはその他に白里翁が繰るページの音だけが響いている。
「『そしてその顔に覆う物を当てる。
  夜になり、家を穿つ。
  彼は昼間は籠り居て、暁を知らず。
  げに彼にとりて暁は、死の陰のごとくなり。
  これ』……」
 そこで一旦言葉を切り、詰まった息を、解きほぐすように押し出した。
「……『死の陰の恐ろしきを知ればなり』」
「ええ。はい。分かりました」
 そこでちょうど見出した風に、白里翁は楠原に向け微笑んで見せた。
「『ヨブ記』です。父と子の、対立の物語だ」
 黒眼の大きな目を楠原は最大限に見張る。
「すみません……。今、なんて……」
「何も、驚く事ではありません。父と子、に関する物語は、この書物の内に数多い。しかし『ヨブ記』はその中でも、対立の構図が際立っている」
「どういった、話なんですか……?」
 白里翁はゆっくりと本を閉じ、その重みを意識させるように、文机の元の位置へと置き戻してから顔を上げた。
「今ここで、私から語り聞かせても構いませんが、後ほど御自身でも読み通し、貴方なりの見解を得てもらわなければ困ります。よろしいですか?」
 最後の訊ねる文言にだけ、人の良さそうな笑みを浮かべる。
「はい。必ず、そうします。ですからその……、お願いします」
「よろしい」
 笑みを深めながら白里翁は文机に扇を打った。


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