「デジタルネイチャー」を生き延びるためのヒントがある?「マタギ」を生活の一部としている若者たち。その地で生きるための規範とは、どのように生まれるもの?
「命の危険を伴う自然と向き合って生きる」という行為。
今も残るマタギ文化に「憧れ?」・・・、いやなんか違う、「生きているという実感?」・・・、私には言葉で上手く表現できないけれど、この地域に生きるための「生活に根付いた日常」としての「マタギ」魅せられた若者たち。
秋田県の阿仁に、偶然集まった同い年の若者は、その地域で自然と向き合い、自然から「授かる」ことで生きるというマタギの文化に「この地で生きる」ということの「かけがえのなさ」のようなものを感じているのだろうと、お話を聴きながら思いました。
若い人たちが、「山の神」というその地の神様を、そこに生きるための文化や規範を守るためには必要で、「大切なことだ」と、考えるより前に阿仁でその地を体感することでそういうことを自然に受け入れて話されていることに感動しました。
日本にはまだこういう場所があって、日本の自然は「放置」すれば住めなくなるほどに、短期間で人間には厳しい「自然」に戻るという気候。
「山の神は女性 だから女性のマタギはいない(神様が「やきもちを焼く」から)」と、唯一女性で狩猟免許を取って、絵を描きながら地域のマタギの活動をしている彼女は、「狩猟で熊と対峙するということは命の危険がある。そういう場所で余計なことを考えてはいけない。マタギはグループで行う。女性が入ることで統率がとれないから、女性を排除していたのではないか。(昔は、生活のためのマタギだったので、狩猟のためにはそれが「最適解」だったから)今でも男性しか認められていないマタギ。山に入るときにくぐる鳥居は、男性しかくぐれない。なので彼女は鳥居をくぐったことはないと言う。でもそれはその地域で、今までその必要があり続いてきたこと。彼女はその鳥居に遠くから「お辞儀」させてもらうだけが丁度いい距離感かなと言った。
この話を聞いて、本当に地域の歴史・文化に育まれている規範など、その地で生活することに深く結びついている行為に対して、他所の人間が自分の文化の文脈で、相手の文化の文脈を否定することほど「やってはいけないこと」というのを、改めて実感しました。
彼女もこの先この地でのマタギというものが変化すれば、女性のマタギも生まれるのではないかと。それはその地に住んでいる人たちが決めることであるはず。
たとえ自分から見て、「大変な文化だなぁ」と思ったとしても、やはりその地に住む、生きるということと結びついていることを忘れてはいけないのだと。
動画の最後は落合さんが「デジタルネイチャーとマタギ」について語られています。
「デジタルネイチャー」について、落合さん提供のChatGPTのBot「ochyaiNote」と会話したものです。
以下に一部引用。