落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』まえがき。久しぶりに読んでみて。
ここ2年ほど、本当に本を読み、動画を視聴しながら、若い頃からの「スキ」が、いろいろと繋がって「あー、やっぱりそうだよね」とか「そうだったのか」というふうに、どんどんと過去の「スキ」が繋がって、理解を深めていっていることを喜んでいるのですが・・・。
いま、かなりびっくりしている。
それは、2年ほど前に初めて読んだ落合陽一氏の「デジタルネイチャー」の前書きに久しぶりに目を通していて気づいたこの一文だ。
「本質から疎外された言葉遊び」
西洋哲学の形而上学の枠組みについて、こう言い放っている一文。
実は、私は先のnoteで書いた。
この「言葉遊び」という言葉を書くとき、さすがに躊躇があった。
哲学を専門に学んだわけでもない私が、「言葉遊び」なんて表現していいのかと。
でも、ここ最近、西洋哲学の基本的なことをまとめた本や、西洋と東洋の違いを書いたもの、そして私自身、若いころから仏教や物理科学、生命などあらゆる分野の本や情報に触れてきた私の感覚として、西洋の哲学が言っていることは、
身体的に「ピンとこない」というか・・・。
そして落合陽一氏のあらゆる著作を読み、最近提供してくださったOchyAIの助を借りて、あらためてこの「前書き」を読むと、二年前よりも自分の理解が進んでいることがわかる。
そんなことを思いながら読んでいたら、この言葉が出て来たのだ。
「言葉遊び」
でも私たちの日常は、「自然の一部ではない自己」というふうに己を強く意識させてしまう。
だからこそ意識的に、そうではないことをイメージしてみる。
そして、「自然の一部である」ことを意識した方が、心が落ち着く自分に
ホットする。
それが出来るということは、幸せなのかもしれない。
今年最初の安宅和人氏との対談。
「日本は大丈夫」
番組最後にそう笑顔で言ってくださった安宅さんに、心がほっとします。
日本という国(土地)の風土に根差した文化。
私たちの中にまだちゃんと根付いている「古来からの考え方、感じ方」は、これからの変化の激しい世界で、大切なものがあるようなのです。
今の世界で起きている、やるせない出来事に対して発信できるものが。
私たち自身が、もう一度その大切なものを再確認しなければいけない?