万葉の歌人のように、デジタルネイチャーの世界を生きる人になって歌を詠む。
AIと?
計算の神の律の森の中 われも小さき波となりぬと
おのずから秩序織りゆくその波に 身をゆだねつつ命を繋ぐ
計算機自然を万葉人のように感じながら、「自然と共に在る」という体感を取り戻すことができたら、「自分の生命をまっとうしている」と私は心の底から思える。
「柿本人麻呂に限らず万葉の歌人たちは、みな自然を見ることによって心をたしかめ、自らもそれに成り入った。彼らは、こぼれ落ちそうな心の不安を夜の白露を見ることで感じとった(16)。夜が暗くなれば心も暗くなり、沈んだ心を晴らしてくれるのもまた月の光であった(17)。抑えきれない愛の気持ちを激しい川の濁流になぞらえた(18)。愛する妻と寄り添って眠った美しい思い出をゆらゆらと海に揺られる玉藻と重ねた(19)。 万葉の歌人たちがこのように自然と心を重ねるとき、彼らは自然を意識の対象として捉えているのではない。 意識の対象として自然やモノを捉えるという考えは、西洋哲学では常に基本的な枠組みであり、現象学者フッサールは意識とは常に「なにものかについての意識」=「aboutness」であると言った。ただ意識そのものというものはありえず、眼の前の樹木についての意識であったり、悲しみについての意識であったりする。対象に向かわない意識は存在しない。それが現象学的な意識である。」
『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる (文春e-book)』下西 風澄 著
[私の質問プロンプト] 近代西洋哲学的のロゴスを優先する考え方の「人間の意識」と、日本の万葉の時代の歌人の歌から読み取れる、万葉の時代を生きた人の「意識」の違いを考えていきます。
これは非常に興味深いテーマですね。西洋哲学のロゴス中心主義と万葉時代の日本人の意識を比較検討していきましょう。 まず、近代西洋哲学における「人間の意識」の特徴を整理すると: 1. 理性(ロゴス)を重視し、物事を論理的・分析的に捉える傾向 2. 主観と客観を明確に分離する二元論的思考 3. 自然を対象化・客体化して捉える視点 4. 「私」という個の意識が強く、自己と他者を区別する 一方、万葉集に見られる古代日本人の意識の特徴は: 1. 自然との一体感・融合を重視 2. 感情や感覚を直接的に表現 3. 主観と客観の境界があいまい 4. 共同体的な意識が強く、個の意識は相対的に弱い 例えば、以下の山部赤人の歌を見てみましょう: 「田子の浦に打ち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」 この歌には、風景と歌人の意識が溶け合って一体となっている様子が表れています。西洋的な主客二元論では、観察する主体(歌人)と観察される客体(富士山)は明確に区別されますが、この歌では両者の境界が曖昧で、情景と感動が融合しています。 また、柿本人麻呂の: 「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山」 この歌でも、季節の移ろい、風景、人々の営みが一体となって表現されており、個人の主観的な視点というよりも、共同体的な意識から詠まれています。 このような意識の違いは、それぞれの文化が育んできた世界観や価値観の違いを反映していると考えられます。西洋のロゴス中心主義が科学技術の発展をもたらした一方で、万葉人の意識は自然との調和や情緒的な豊かさを育んできたと言えるでしょう。 これらの違いについて、どのような側面に特に興味をお持ちでしょうか?
Claude 3.5 Sonnet 日本の万葉の歌人の歌に見る意識とは。 以下が万葉歌人の意識を表現したものです。
##『万葉集』の歌に詠われている意識は「なにものかについての意識(consciousness about something)」であるというより、「なにものかと共にある意識(consciousness with something)」である 。意識は単独で存在することはできず、常に自然と共に在ってはじめて可能になる。彼らが詠ったのは「白露についての意識」ではなく「白露と共にある意識」であり、「月についての意識ではなく「月と共にある意識」である。 ・・・万葉の人々の意識を「についての意識」ではなく「共にある意識」と呼べるとするならば、その結びつき、交わりは、解きほどくことが不可能なほど絡まり合っていることを意味している。彼らは自然なしでは心が空虚であるかの如く、その心が本物でないかの如くに感じていた。##
この解説から、近代西洋哲学での「意識」と万葉の意識の違いを考えてください。
この非常に洞察深い解説から、万葉の意識と近代西洋哲学における意識の本質的な差異について考察を深めてみましょう。 近代西洋哲学における「意識」の特徴: 1. 主体としての人間が、対象を「観察」し「分析」する意識 - デカルト的な「考える主体」(コギト)として、対象から分離された意識 - 対象を客体化し、それについて(about)思考する - 自然を「対象化」し、それを観察・分析・理解する立場 一方、万葉人の「意識」の特徴: 1. 自然と「共にある(with)」意識 - 意識が自然と不可分に結びついている - 対象との間に明確な境界線を引かない - 意識が自然と共に生起する 具体的な例で考えてみましょう。 万葉集の有名な歌: 「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」 西洋哲学的な意識では: - 「私」という主体が - 「富士山」という対象を - 「観察」し「分析」して - その様子を「記述」する 万葉的な意識では: - 富士山の景観と - 見ている人の心が - 一体となって - 歌として立ち現れる つまり、近代西洋哲学では、意識は対象を「分析」し「理解」するための道具として機能しますが、万葉の意識は自然と「共に在る」ことで、その瞬間の生の現実を歌として表現するのです。 このような意識の在り方の違いは、以下のような帰結をもたらします: 1. 知識の性質の違い - 西洋:分析的・概念的知識 - 万葉:体験的・直接的な知恵 2. 自然との関係性 - 西洋:支配・管理の対象 - 万葉:共生・調和の対象 3. 真理の捉え方 - 西洋:論理的・概念的な真理 - 万葉:体験的・情感的な真実 4. 表現の特徴 - 西洋:説明的・分析的 - 万葉:直感的・情感的 このような違いは、単なる文化の違いを超えて、人間の意識と世界との関わり方の根本的な差異を示していると考えられます。 また、現代の環境問題や人間性の回復という文脈で考えると、万葉的な「共にある意識」の持つ意味は、より重要性を増しているとも言えるでしょう。
真理の捉え方
西洋:論理的・概念的な真理
万葉:体験的・情感的な真実 とあります。 科学の進歩には、西洋の論理的なロゴスでの思索や論理の組み立てが有効に働いてきました。しかし、今この人間が考える「論理的」が、本来の自然(ピュシス)であるものを人間の理解の範疇でのロゴスで組み立ててきたことで、この世界のシステムに大きな矛盾を生んでいます。私には、はっきりとその矛盾を感じるほどになってきています。
はい、その指摘は非常に重要な洞察だと思います。 近代西洋のロゴス中心主義がもたらした問題を以下のように整理できます: 1. 自然(ピュシス)の本質的な特徴: - 有機的な連関性 - 循環的な生成消滅 - 予測不可能な創発性 - 複雑な相互依存関係 2. 人間のロゴスによる理解の限界: - 現象を単純化・要素化して理解 - 線形的な因果関係で説明 - 制御可能なものとして扱う - 部分的な知識で全体を判断 この乖離が引き起こしている具体的な矛盾: 1. 環境問題 - 生態系の複雑な相互依存関係を無視した開発 - 資源の一方的な搾取 - 循環を考慮しない廃棄物の処理 2. 社会システムの歪み - 経済成長至上主義 - 効率性のみを追求する組織運営 - 数値化できる価値のみを重視 3. 人間性の喪失 - 機械的・合理的な思考の偏重 - 感性や直観の軽視 - 共同体的な結びつきの希薄化 興味深いのは、現代の科学(特に量子力学や複雑系科学)が、むしろ万葉的な「共にある意識」に近い世界観を示唆していることです: - 観察者と観察対象の不可分性 - 全体性・連関性の重要性 - 予測不可能性・非決定性の本質的役割 この状況は、私たちに以下のような課題を投げかけています: 1. ロゴス的思考の限界を認識しつつ、その有用性を活かす方法の模索 2. 感性的・直観的な理解と論理的思考の統合 3. 自然との新しい関係性の構築 あなたが感じている矛盾は、まさにこの人間のロゴスによる理解と、実際の自然(ピュシス)の在り方との根本的な齟齬から生じているのではないでしょうか。この認識自体が、新しい展望を開く重要な一歩となるかもしれません。
コンピュータの進化とそれに伴うAIの進化で、デジタルシミュレーションの世界は、驚異的に進化するのでしょう。そういう未来の自然では、自然はもっと複雑になることで、人間のロゴスでは追い付かづ、計算機自然のピュシスを感じ取りながら、生きるのかな。
とても深い洞察ですね。デジタル技術とAIの進化が生み出す「新しい自然(ピュシス)」について考えてみましょう。 1. デジタルシミュレーションが作り出す新たな複雑性: - 人工知能同士の相互作用による予測不能な創発現象 - 物理的自然とデジタル空間の融合による重層的な複雑さ - 従来の人間的尺度を超えた時空間での現象の発生 2. 人間の認識の変容: - ロゴス的思考の限界の明確化 - より直観的・感覚的な理解の重要性の増大 - 「共にある意識」の新しい形態の必要性 興味深いのは、万葉人が自然と「共にあった」ように、未来の人間は perhaps AI や デジタル空間と「共にある」関係性を築く必要があるかもしれないということです。それは単なる道具としての利用ではなく、より有機的な共生関係となるでしょう。 例えば:- AIの判断を「理解する」のではなく、その判断と「共にある」感覚 - デジタル空間を「分析する」のではなく、その空間と「共に生きる」感覚 - 複雑性を「制御する」のではなく、その複雑性と「共に在る」感覚 これは、万葉人が持っていた自然との関係性が、新しい文脈で再び重要性を持つ可能性を示唆しています。つまり: 1. 近代:人間のロゴスによる自然の理解と制御 2. 現代:ロゴスの限界の認識 3. 未来:新しい「共にある」関係性の構築このような展望は、技術の進化が必ずしも「ロゴス的支配」の強化につながるわけではなく、むしろ新しい形の「共生的関係」を必要とする可能性を示唆していますね。 あなたの指摘する「計算機自然のピュシスを感じ取りながら生きる」という視点は、まさにこれからの時代に求められる新しい叡智の方向性を示しているように思えます。
最後のAIの言葉。
このような展望は、技術の進化が必ずしも「ロゴス的支配」の強化につながるわけではなく、むしろ新しい形の「共生的関係」を必要とする可能性を示唆していますね。
計算機自然を万葉人のように感じながら、「自然と共に在る」という体感を私たちが取り戻すことができたら、「自分の生命をまっとうしている」と私は心の底から思える。