考えることは無駄なこと
俺は最近、いろいろと「考える」ことが、無駄に思えてきた。
自分は数ヶ月ほど前、酷く「自らの生き方」に悩んだ。
高校2年生である身、この頃急速に進路の決定や今後を決めて行かなければならない中、
「自分は何がしたいんだろう」と悩んだのである。
この悩みは、俺にしか解決できない。
なぜなら、俺の将来は俺が決めるものなのだから。
そう言った中で自然と、自分自身にしろ 他人に関してにしろ、
人々の生き方について考えるようになった。
そしてそれについて考えることが楽しいと感じたのである。
俺は文理選択では理系だったが、こうした理由から大学では文系学部へ行こうと考えた。
しかしこの後 自分が一つ大きな過ちを犯したことに気がついたのは、ここ数日前のことだ。
俺はそういうことを考えるのを、「大学に進学してから」やるべきだったのだ。
しかしなぜか、まだ高校生だというのに、
時間の大半をそういうことを考えるのに費やしてしまった。
別にそれによって自らの学習時間が削られたことは何の問題でもない。
問題なのは、いま、その結論が早々と出てしまったということである。
大学でじっくり考えてみようと思っていた内容を今考えてしまった結果、
今 なんとなくの結論が出てしまったのだ。
まずはその「結論」がどういうものなのかについて書かせていただきたい。
俺が自身の進路を悩んだのには理由がある。
今までなんでも成り行きに任せるままに生きてきたから、
「生活のプランニング」をあまりしてこなかったのだ。
「生活のプランニング」は拡張すれば「人生のプランニング」であり
気分で行動していた人が突然「今後の人生を、今、決めなさい」と言われた衝撃は
おそらく常人には計り知れないものだろう。
まぁそこはなんとなくの感覚で理解していただけるとありがたい。
しかし、自分は「どうしよう…」と悩んでいる時間に、妙な「楽しさ」を感じていた。
なら、俺は将来「考える」ことをしていけば幸せになれるんじゃないか⁉︎
俺は毎日のように、いろいろ考えた。
その「考え」は次第に個人個人に関するものから地域・社会に関するものになり、
ついには「国際情勢」だとか「思想」について興味を持つようになった。
また、俺は元々室内楽部に所属していたが、
その部活の人たちとはとことん考えが合わなかったし、結局俺が退部するに至った。
もっと話題を拡げてみれば、世界は今も争いが絶えないし
コンゴやウクライナ、パレスチナなどでは尊い人の命が失われるのが日常となっている。
人々は、一緒にはなれないんじゃないか。
わかりあうなんて、無理じゃないのか。
そうした中で、俺が感銘を受けたものがあった。
一つは、今年の紅白歌合戦にもあった
星野源さんの「ばらばら」という曲。
みんなは一つにはなれない。
だけど、それでも行こう。
それぞれの考えかたが、それぞれ先へ向かっていくような構図が
俺の頭の中では思い浮かんだ。
もうひとつ俺が感銘を受けたのは、フルシチョフ氏の思想だ。
みなさんはフルシチョフ氏を知っているだろうか。
彼はソビエト社会主義共和国連邦の歴代の長のうちのひとりであり、
それまでスターリンが崇められてきた完全社会主義な国家だったが
そんな中 他国との「協調」ということを始めたのは彼だ。
彼のこの風潮は当時のソ連の小説にちなんで「雪どけ」と呼ばれ、
人類最大の危機とも言える「キューバ危機」を乗り越えてゆくことになる。
俺はこういったものからヒントを得た。
そして、なんとなくの結論が浮かんだ。
「それぞれの人々が、他人に干渉することもなく他人に干渉されることもなく
自分自身を生きていくことで、私たちは幸せに暮らしていける。
それだけでなく、誰もがそんな生き方をすれば
この世界からは戦争だってなくなるんじゃないか。」
俺は、「相互不可侵の美学」を学んだ。
俺は、この考え方こそが世界で最高且つ最幸なものへと導くのだと信じた。
俺は、この生き方を素晴らしいと、純粋に感じたのである。
「相互不可侵の美学」を極める上で、幾つか嫌いになったものがあった。
ひとつは音楽の合奏。
指揮者ひとりの概念のもとで皆が統制されるという状況が、自分には苦しいと感じた。
それから、最近周りの高校生の中で流行っている「恋愛」とかいうものも、だ。恋愛が嫌いになったと言うのは、単に俺が高校で3回ほど失恋したというのとは関係がない。
俺は恋愛という概念自体に、相互不可侵の美学を完膚なきまでに破綻させるのを感じた。
理由は細かく言わなくともわかるだろうが、
例えばカノジョのために〇〇を買ってあげる、だとか
例えばカレシのために身売り何かをしてあげる、だとか
そう言う概念が、本気で嫌いになった。
無論、俺はそんな合奏だとか恋愛だとかを好むヤツらを否定はしない。
否定してしまったら「相互不可侵の美学」を打ち壊すことになってしまうからだ。
ただ、今の俺は進んでやる気にはなれない。
さて、そんな「相互不可侵の美学」だったが、
つい最近、その絶大なる弱点を見つけてしまったのだ。
それは、相互不可侵ゆえに起こる、「相互不扶助」である。
言い換えれば、その極限は
人間は団体行動をしているせいで問題が生じているというだけであり、
人間同士の繋がりを全て無くしてしまえば全ての問題が解決するということだ。
しかし言うまでもないが、それは不可能以外の何者でもない。
つまりは「相互不可侵の美学」には、
人間としての形を止めるためには限界があるというわけである。
俺が自由気ままに行動を始め、それを諌める人ないしは存在が無いとすれば
その先には「低次元な幸せ」しかない。
人々が幸せを感じるとすれば、それに必要なのは
「他人に関わらない心」というよりは「他人を許容する心」なのだ。
他人を許容するというのは、言い換えれば社会に馴染むことである。
社会に馴染むためには、例えば
こういう「思想」だとか「個人の考え」といったものが邪魔になってくる。
ここからはあくまでも俺の話であるが、
つまり、社会に馴染む すなわち幸せを手に入れるためには、
自身の趣味である「考えること」を捨てなければならない。
自分自身の幸せを犠牲にすることによって、社会が幸せになるのである。
(世の中には自身の考え方を極めながらも且つ他人と協調できるすごい人がいるらしいが、俺には難しい。)
すると、ある面白い発見がある。
「幸せ」は「保存される」のではないか。
例えば物理の世界なら、高い位置にあったものが下へ動き出すと
その位置エネルギーが運動エネルギーに変換される。(バネだってそうだ)
それと同じように、幸せというのも
「個人のもの」であったり「社会のもの」であったりと、変換されるのではないか?
俺の中での幸せは、
時に「社会のため」になり、時に「俺の中での趣味」となるのではないか?
そうした状況で、俺は「自分が社会に馴染むこと」を選んだ。
俺の幸せは、社会のために捧げることとなったのだ。
そうなると、俺の「思想」というものは邪魔な存在になる。
俺は思想を捨てることとなった。
俺は、冒頭にも述べた「自分自身の悩み」の解決の糸口は
わざわざ大学に行って熟考することにあるのではなく
普段の生活において、「他人と仲良くやっていく」という
人としてごく当たり前のことにあると気がついた。
悩みが解決されたのだから、この上なくすっきりする。
しかし、その「悩み」を解決することを目的として文系学部に行こうとしたものの
それが解決されてしまった今、その学部へ行く意図を見失いつつある。
俺には新たに「自分の進路について」という悩みが訪れたのだ。
ただ、もうこれ以上考えても実質無意味だろう。
たまには、悩み込むのではなく適当に流されていくことが必要だと感じた。
自分自身の思想が強すぎても良くないのだ、と気がついたのである。
自身の思想を深めるのなら、成り行きに任せて
他人と同じように勉強でもしていればいいんじゃね?と、もう1人の自分がささやく。
しかし俺は、今から勉強するにしてもかなり行き詰まっているし
第一勉強自体あまり好きではない。
あぁ、もう考えるのはやめにしよう。
考えれば考えるほど、幸せになら無くなってきた。
俺は最近、いろいろと「考える」ことが、無駄に思えてきた。