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kaikazayama
悲観的であることに悲観的にならない 七緒栞菜
悲観的であることに悲観的にならない。
これが今の私にとって最も重要なのかもしれない。
新たに物事を始めようとしている。簡潔にいえば、来年度を目標に店舗を構えたい。「本屋×アトリエ×学び場」を。
物件、コンセプト、ビジョン、事業内容、オペレーション…。考えるべきことは、思い浮かべようとすれば頭がパンクするほどあり、それらをひとつずつ精緻に検討しようとすると、考えうる最低の状態を思い浮かべてしまう。無論、やりたいからやろうとしている。実現したいから実現させようとしている。ただ、その上で、極度にびびりな私は最悪のケースみたいなものをすぐに頭の中に膨大に広げようとしてしまう。
きっとそれは、その場所をなんとしてでもなくしたくない(まだありもしなのだけれど…!)だけであって、悲観的になっているわけではない。むしろ、意思をもった悲観的態度であるともいえる。
一方で、私に足りないのは考え得る最高の状態を思い浮かべる楽観的態度だ。悲観的態度と楽観的態度は同時には両立しえないのかもしれないが、意識して双方を行ったり来たりすることは可能であろう。
だが、悲観的であることが、すなわち私であることも忘れてはならない。悲観的でない私になろうとすることは、私が私をひねりつぶす行為だ。
キリスト教に関する本の中に、「耐え難い傷や痛みから人生の使命は立ち上がってくる」という話があった。人生の使命というと大げさかもしれないが、自分自身の耐え難い傷からこれからの事業を構想していることは確かだ。
自分自身の傷や痛みを見つめ続け、なんとしてでも、ちっぽけでも、いい場所を作りたい。