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時間セーブデータ理論 七緒栞菜
流れる時間の概念がほんとうにわかったのは大学1年生の秋だった気がする。
それまで、私の時間はセーブデータを開いてプレイするゲームのように流れていた。
「時間セーブデータ理論」と呼ぶことにしよう。
小さいころから通ってきた学校は、授業を受ける場所。今日はこの部分まで終わったというのが明確にわかって、次の日はその部分の続きから授業が始まる。そんな場所だった。そんな場所に大学入学まで12年間通ってきた。習い事で行っていた空手とピアノは週に数回通っていたが、学校と同じように前回練習した部分から次の稽古・レッスンは始まった。幼いころの時間の流れ方って、当たり前にこういう時間の流れ方をしてはいないだろうか?終わったところから続きが始まる時間の流れ方を。
学校や習い事のときだけでなく、家にいるときも「時間セーブデータ理論」は存在していた。この時間になったらこんな時間が流れることが予想される、といった感じでこのあとの過ごし方の筋書きが見えて、その通りにことが進んでセーブするために寝る感じ。母親の時間、父親の時間、兄の時間がそれぞれ流れていることはわかっているはずなのだが、あくまでも当時は「私」を中心にした時間の捉え方になっていた。母は、学校から帰ってきたら家にいて話を聞いてくれる存在として帰宅時には家にいる人。父は、19:30頃には帰宅してビールをひとかん開け食後にはテレビを見ながら焼酎を飲む人。兄は、夜遅くに帰ってきて「おかあ、ご飯は?」と言って大きなプラスチックコップをキッチンから持ってきて麦茶をがばがば飲む人。そういう三人が毎日同じように同じ時間に私の目の前に現れる。そんな風に思っていた。
大学生になってアルバイトを始めた。スポーツショップの店員。部活動も行っていたため、バイトに入るのは週2~3ほど。そうすると、当たり前なのだがスポーツショップに私がいない日が週4~5日ほどある。そうすると、あらびっくり!スポーツショップに「私のいない」時間が流れているのである。(当たり前)セーブされずに流れる時間。私の知らない間に移り変わる時間。
バイトに3日行かないだけで、新しくお客様用のアプリの内容が更新されていたり、新商品が販売されてバスケットボールシューズの配置が変わっていたり、店内のディスプレイや什器の配置ががらりと変わったりしていた。私がいない間に!(当たり前)
自分が見ている世界や時間が圧倒的に限定的であることと、他者が見ている世界や時間が他者の分だけあるという当たり前の事実に、突然、実感をもって気づいた瞬間だった。すごく怖くなった。
私が学校でセーブした授業のあと、その時に教えてくれていた先生には、先生だけの時間が流れていたはずだ。それはその次の授業を作っていた時間かもしれないし、娯楽のために映画を見ていた時間かもしれないし、おいしいご飯を食べていた時間かもしれない。先生の目の前に私がいない時間は確実に存在していた。(当たり前)空手の先生にも、ピアノの先生にも、母にも、父にも、兄にも。(当たり前)
「時間セーブデータ理論」、私だけでしょうか?
小さいころ、こんなにも自分のことしか見えていない日々を過ごしていたのは。