第18夜 典座グルマン
物事は押し付け合わずに気がついた人がやればいいんです。それで大半のことは片付くはずですわ。それはあなたの担当、お宅の敷地前のゴミ、私に関係ないトラブル、直面した人が速やかに対応すれば解決するものも、押し付け合っているうちに事がこじれていくんです。自分がやるべき事じゃないと思うと、任されてもいやいやなんとなくこなすだけになっちまうんです。
この僧坊でも仏の教えを追求することが第一ですから、食事の用意ってのは回ってくる義務・担当くらいの意識しかもてない修行僧が多いんでしょうねぇ。でも修行ってのは坐禅だけではないんですよ。あたしのやっている食事係は典座(てんぞ)と言って、気持ち次第では立派に修行の場と成り得るんですが、まだまだ未熟な修行僧はそれに気づかないんですねぇ。
あたしゃ毎日粥を煮ます。食べる人のことを考えながらね。でも、考えるのは硬さや水分の量だけじゃないんです。食べる人の体の中にどんな具合に届くかってのを考えるんです。例えば心が萎んじまってるやつは食い物に執着を失ってるから、なるべく冷めないうちに食べてもらえるようそいつんところに粥が届く順番を謀るんですわ。胃袋があったまると脳に血が通うでしょ、それでちょっとは気が引き締まるはずなんですわ。もちろんあたしも萎むことはありますわ。でもね、あたしゃ他の雲水より孤独を感じないんだあ。米や菜っ葉と毎日対話してるわけですから。手に取ると話しかけてくるんですよ、そいつらが。私はこうして毎日たくさん土から栄養や水をもらってこんなにふっくら育ち、萎む前に摘み取ってもらいました。しっかり味わってくださいってねぇ。
一切衆生悉有仏性。地上のすべての生き物には仏の心が備わってるんです。そりゃそうでしょ、何だって元をただせば素粒子から成り立っているわけですから、すべて同じ宇宙の摂理の一部なんです。あ、こりゃ私の解釈ですがね。たまたま地球上でそれぞれの形を成していっとき居合わせてるんです、奇遇ですよねぇ。それだからなるべくこいつの持ってる味を引き出そうって、茄子なんかでしたら塩で揉んで余計な水を抜いてやるんですわ。そうすりゃあこいつの持ち味が凝縮した浅漬けになるんです。そりゃ美味いですよぉ。翌日は気分を変えて油で揚げる。そうすると水分も抜けるが代わりに油が入り込んでとろみが出る。旬には同じ野菜がどんどん成るわけだから、そうやっていろいろな表情に出会えるよう手変え品替えするんです。中には手のかかる奴もいて、たとえばこんにゃく芋なんてそのままだと食えたもんじゃないが、アク抜きをしてやればあの状態になる。それに味噌や出汁醤油なんかを纏わせると、みんなの大好物になる。菜っ葉は今は食べやすいように人の手で改良されたものが店に並びますがね、元来もっと個性が強いものだからそれこそアクもあるんです。野生植物の中には鳥に食べさせて種を運ばせて糞として生息範囲を広げたりするものがあるんですがね、そういったものは鳥に好まれる色や味をしているし、地下茎で伸びるものたちは引っこ抜かれないよう強烈な味を纏って香辛料になるくらい刺激的な味のものが多い。逆に食べるほうのあたしたちも口にしたときに舌が判別して、辛い、苦い、酸っぱい、渋いってのは要注意だから、生のままだと腹を下すものなんかは加熱したり、アクを抜いたりして体が受け付ける状態にして口に入れるわけです。そして、より美味しくいただくために調味料を使うんです。少なくとも塩があればそれを叶えてくれる。出汁があればさらに変化を与えてくれる。
そうやって口から入れるときはいろんな味を施すわけですが、あたしはそれよりも食べ物が入っていった胃の中での状態に思いを巡らせるんです。食べるってのはそういうことだと悟ったんです。美味しいってのは脳が働いたことであって、体そのものが求めていることではないんです。空腹ってのはアラートで、それは”胃を埋めろ”っていう警告ではなくて、こっちの体と食物双方の融合を促すため、つまり体を維持するための欲求であって、さらに本当に体が必要としている物は胃が決めるから体に不要なものは消化されず不完全な状態で上下から排されるんです。そう意識すると、刺激物、ドカ食い、絶食、不規則摂取なんてのは遠ざけたくなっちまいますよ。最高の食事、それは胃が喜ぶ行いのことなんです。
ああ、話し過ぎちまいましたね。宿坊の方々にはしっかり精進料理をご用意しますからね。夕食は旬の野菜をいくつかお出ししますが、朝はあたしたちと同じ粥です。どうか胃で感じてみてくださいませ。