自分は変わらないまま2022年もおわってしまう
2022年はいろいろな事が勢揃いだった気がする。
北京五輪がいろいろ言われながらも開催されると、2月にはウクライナとロシアで戦争が始まった。
石原慎太郎さんが亡くなったり、藤子不二雄Aさんが亡くなったり、上島竜兵さんも亡くなった。アントニオ猪木さんも亡くなり、水木一郎さんも亡くなった。
安倍元総理の暗殺もあれば、知床観光船の悲惨な事故もあった。
円安の進行で32年ぶり1ドル150円近くに到達した。株で言えば東証一部といった名前から、プライムという呼び方に変わった。
サッカーのW杯は初めての中東で初めて冬に行われる大会になったし、コロナの経済的な制約はなくなり始めた。
みなさんにとって2022年はどんな年になっただろうか。
じゃあ2021年がどんな年だったのかと言われると、あんまり思い出せなかったりもする。
自分の人生にとって特別な年というわけじゃないが、ベルリンの壁が崩壊したり、何か大事件が起こると、自分の人生のように心に刻まれたりもする。
なんとなくだけど、いいともが終わったり、めちゃイケが終わったり、そういうタイミングが何か自分の人生に刻まれていたりする。
多くの人にとって刻まれているのは新しい会社に入社した年だったり、転職した年かもしれない。
自分の年表を作っていくように、それに合わせて自分の記憶が刻まれていたりする。その一方で、全然どうでもいい記憶も残っていたりする。
歳を重ねるにつれて謎の焦りも出てくる。自分に何が出来るのかとか、理想の人生を手に入れられるのかとか、自分の能力で生きていけるのかとか、過去の後悔に引っ張られていたり、謎の不安があったりする。
理想としては一年一年、一日一日、進歩していたいと思う。ただその一方で、自分の生活が平和で続いて欲しいとも思う。
自分が変わらないことに焦る。成長していないことに焦る。ただ、今の生活が維持されることを望んでいる自分もいる。結局将来がどうなるのか不安な自分もいる。
このまま変わらず楽に生きていきたい自分のせいで、自分の生活が苦しいなら、そのまま消えてしまいたくなることもある。
1年早いねーというのがもはやテンプレになっている年の瀬ではあるが、自分としてはそこまで早いと思わなくなってきた。それは自分が毎日一定の不安にさらされていて、ルーティンの仕事ではなくいろいろ考える時間があるからだと思う。
普通に雇用されて週5で働いている時の時間の速さは異常だと思う。それに焦りを感じていた。
だから時間の流れを遅くしたくて、そこから逃げ出した経緯もある。結局逃げ出したら何かメリットがあるわけでもなく、密度が薄くなって、人生の厚みがなくなりスカスカになっただけのような気もする。
ずっと同じ会社でコツコツやっていると、その仕事の実力は身につくんだろうが、逆に言えば他の身につく能力を捨てているとも言える。機会損失というやつである。
人間の社会というのは、基本的に若いうちのほうがチャンスがたくさんある。だからこそ若いうちは失敗しても良いみたいなことを言う。
それももしかしたら過去の話になるかもしれない。人生100年時代。必ずしも定年60歳で仕事を辞める訳では無いし、60前にリタイアする人もいる。
結局、いろいろな人生がある中で、年金制度であったり、教育システムが固定化されているのは残念に思う。
デンマークだといつでも誰でも教育の機会が開かれており、それが税金で運営されているらしい。それで、失業してもそこで技術を習得して自分の好きな仕事に就けるらしい。
日本にも職業訓練校的なものがあるのは知ってる。だが、それを積極的に活用しようという雰囲気ではない気がする。
人間の人生には必ず死がある。どうせ死ぬのになぜ頑張って生きなければいけないんだろうか。という問いから逃れられない。誰でも人生を幸せに生きたいものである。辛い思いをしなくていいならせずに生きたい。若い頃の苦労は買ってでもしろ。という言葉がある。だが、それで取り返しのつかない事になる人もいる。
ずっとそんなことを考えていると、やはり助けてくれる本があるもので、精神科医の名越先生が「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という本を書いてくれていた。
こういう問いに答えてくれる先生は、やはり素晴らしい。
そして、なぜか年末セールでキンドルだと300円台で買えたので、思わず買ってしまった。実際内容としては、仏教になぞったアドバイスになってたが、十分に満足できる内容だった。
2022年が終わるのに不安がある。2022年だけじゃない。自分の人生が満足の行くものになるのか、価値があるものなのか、そんなことを考えても、ウクライナの人に比べたら自分の人生はなんと恵まれているだろうかと思う。
たまたま深夜にテレ東で「パラサイト半地下の家族」が放送されていて、その中で「警備員を募集したら大卒500人から募集が来る時代」というセリフがあった。
そういう時代に自分のやりたいことを模索するというのは贅沢な話なんだろうか。辛いことを経験したくないとはいえ、そんなにすぐに死にたいわけでもない。
無心で強制的に金を稼ぐために自分たちは生まれてきたんだろうか。むしろ金を稼がない人間は社会から排除されるような、そんな社会になっていることも知らされずにこの世に勝手に生み落とされている。
昔から日本は、こんな社会全体を覆うような息苦しさはあったんだろうか。2022年も悲しいニュースはたくさんあった。ハッピーなニュースもたくさんあったはずなのに、悲しいニュースに覆い隠されてしまう。
自分の人生も楽しいことより、どんどん悲しいニュースに飲み込まれていく気がする。人生が楽しいと胸を張って言える時間より、悲しく辛い時間が上回った気がする。
人生の楽しさを追い求めているにもかかわらず、なぜこうも苦しい結末を迎えるんだろうか。自分で選んだメニューがどれも満足のいかない味付けのような、そんな虚しさがある。
初めから期待外れだとわかっていればいいが、もしかしたら楽しいかもしれないと思いながら、自分の人生を進めていったのに、結果として面白くないと、心が折れそうになる。
月にわけわからん仕事で300万稼ぐ人もいれば、必死に残業しながら19万を稼ぐ人もいる。どんな仕事を選ぶかは、その人次第ではある。じゃあお金がすべてなのかというと、そういうわけでもない。どうにか二者の報酬を160万で平均化できないんだろうか。
そうすれば、社会で飢える人が減りながら、社会から必要とされる仕事も満足に持続可能になる。2022年は増税が目立ったので、さらに酷い格差が生まれるかもしれない。
残念な言い方ではあるが、コロナによって高齢者が例年より多く亡くなっただろう。だが、そんなことはお構いなしに社会保険料が下がるわけでもなければ、増税に継ぐ増税になる。
結果として自分の人生には多くの邪魔が生まれる。だが、そんなことを言っているだけでは、自分の人生は自分で切り開けない。嫌なことでも我慢するか、全く影響がないどこかへ飛び立つか答えは決まっているし、それを選べる選択肢も持ち合わせている。
あとは勇気だけでどうにでもなる。どうにもならない結果になるかもしれない。だが、どうにかしていくしかない。
年収400万の人がどんどん増えていく社会は幸せなんだろうか。
人が一人生きていくには400万あれば困らない。だが、家を東京に買って子どもを育てるには十分とは言えない。
私立がどうとか、タワマンがどうとか、そんなことを言い始めたら1000万あっても足りるかどうか微妙になってくる。
結局は上を見れば見るほど、際限がなくなってくる。上ばかりに釣られていると、足をすくわれて落っこちてしまう。
私の個人的な意見だが、どうしようもなくなったら親にも友達にでも助けを求めるべきだと思う。だが、そういう考え方はもう少数派だろう。みっともない人間を助けるという文化は日本にはあまりない。
投資詐欺で借金1000万背負った彼女がいる状況で、自分が年収400万だとしたら、彼女の借金を肩代わりできるくらいまで助けてあげるだろうか。
これは人によると思う。どれだけ愛しているかというのが最終的な決め手になる気がするのに、日本ではおそらく金を優先して愛の無い決断をする人が多いように思う。
困っている人に手を差し伸べると、プライドを傷つけてしまうかもしれないから見て見ぬふりをするし、臭いものには蓋をするのが日本の礼儀になりつつある。
結局それが生きづらい正体なんだろうか。そんな閉塞感をぶち壊すかのように、1年に2~3回くらいとんでもない猟奇的な殺人犯が登場する。
来年もおそらくとんでもない犯罪者が登場すると思う。金持ちになる必要もないし、必死に働く必要もないはずなのに、それが許されない。先進国であるはずの日本がそれを許さずに、必死に働く貧しい人が増えていく。満足に充実感のある仕事で最低限の生活が維持されるなら、誰でもそんな猟奇的にはならないはずである。
投資詐欺は自分は引っかからないと思っている人が基本的には引っかかる。その理論で言えば、自分は絶対人殺しなんかしないし、犯罪もしない。と思っている人はもしかしたらそのような素質があるんだろうか。
もし、貧乏になって、行き詰まって、どうしようもなくなったら、自分が猟奇的になってしまうかもしれないと予想できているのなら、その未来を避けることが出来る。
それが見えてないとしたら、自分は自惚れているのかもしれない。
夢はいつまでも追いかけたい。だが詰まるところ、夢と呼べるものではなく、ただ嫌なことをやりたくないと逃げているだけなのかもしれない。
それでたまたま人生が好転する人もいる。だが、そんな人の例を自分が真似しても、自分はその人じゃないのだから、ただ自分が自惚れて失敗して冷や飯を食うだけになる。
そして人生の時間がどんどん削られていく。なんかの試験に合格しようと言っていたら、気づいたら何年も経ってしまっていた。自分の名前が変わらないように、試験に合格しようと勉強しているスタンスも変わらずずっと合格できずに続いてしまう。
生きていれば死があるように、2022年があれば2023年がある。
西暦で1年を区切る必要なんか、別に好きに生きていれば必要ない。だが、過去の人類は日、月、年と区切った。それは自分のような人間を駆逐するためかもしれない。
死が存在しない人間なんか生きていない。日、月、年の時間間隔がない人間は死んでいるのも同然かもしれない。
2023年も自分は自分を甘やかすのか、それとも何かをキッカケに人は変われるのか、自分を自分で試しては、面倒になり諦めている感もある。
どうせうまくいかないなら、金の無駄だしやらないほうがマシと考えて、そのまま時間だけが流れて、時間の感覚を失い死んでいく。
2023年は人として生きてるのか死んでるのか、自分自身に問いかけながら生きていきたい。