イル・ポスティーノ
1994年の映画『イル・ポスティーノ』の4Kデジタル・リマスター版を鑑賞。
心の深いところで感じ入った作品ほど、観終わったあとは無心に近いというか、頭が真っ白になる。言葉になる前のいろんな感情が混沌としていて、「さてどこから手をつけたものか」となっているから、思考(言葉)がすぐに自分に話しかけてこない。
この映画も、そういう映画だった。
少し経ってやっと言葉が巡りはじめたので、書き留めておきたい。
マリオの「作品」のように、詩とは自然であり、命であり、天文学的な確率で偶然が折り重なって生まれたものである。
そして、その詩を成すどの言葉も、また詩そのものも、「それ以外の何ものでもありえないもの」だ。
マリオは郵便配達員だった。彼は手紙に丁寧に認められた言葉を運ぶ一方で、共産主義に傾倒し、その思想を民衆に知らしめんとする演説家になった。彼は詩を作ったし、イデオロギーも作った。
詩を成していたものが、一方では政治思想をつくる。
詩を運ぶ人がいれば、政治思想を運ぶ人もいる。
言葉はどんな力も持っている。
誰しも、それを使う権利がある。
言葉は何ものにもなれるのだ。
できれば私は「詩」を作りたい。