見出し画像

私は梅仕事を知らない

私は三十年生きてきて、
初めて梅の実を手に取った。

梅の入った袋を開けると、ほんのりと甘くていい香りがした。梅はすでに山吹色に熟していて、ジャムになるのはまだかまだかとソワソワしているよう。

昔、実家近くのお家にたくさん梅の実がなっていたけれど、収穫されることはなく、ポロンポロンと道路に落ち、小鳥や虫の餌となっていた。

そんな梅とは無縁の私が梅のジャムを作ろうと思ったきっかけは一冊の本だった。

早川ユミさんの『くらしがしごと 土着のフォークロア』。この中に「千円で梅干しを買うか、梅の苗木を買うか」の目次がありそこには、

梅仕事で忙しくなったとしても、消費をするくらしではなく、つくるくらしをしたいということで、迷わず苗を買ったことや、その苗木が今ではとってもとりきれないくらいの梅が実ることが綴られていた。

これを読んだ私は、日々鬱々としているこの気持ちの正体が少しわかったような気がした。

自分で手を動かさなくてもお金を払えば手に入る世の中になって、消費するペースが速くなっている。

それは身の回りのものだけではなく、私たちの「生きる」ことの根本に関わる知恵や術にまで行き渡っている。一度失った生きる術を取り戻すことはかなり難しいだろう。

そんな世の中に対して疑問を感じながらも押し流されるように過ごしている私自身に、一番嫌気が差していたのかもしれない。



ところで私は梅のことを何も知らないので、苗を買う前に今年はまず梅仕事というものをしてみよう!と決めて、比較的失敗の少ない(であろう)ジャムを作ることにした。

その後スーパーや八百屋に寄る度に梅はないかとキョロキョロしていて、六月の終わりにようやく見つけた。

収穫時期がすでに過ぎていて、もしかして今年は出会えないのでは..と心配になりながらようやく見つけたのは、青森県産のすでに山吹色に熟した一キログラムの梅だった。

大切に持ち帰り、家に着いて改めて梅を見ると、初めて買う、それも一キログラムという私にとっては大きな食材が家にあることに落ち着かない。

知らないから落ち着かないのだと思い、梅の本を買ったりネットで調べたり、必要なものを揃えて心を落ち着かせ、次の仕事が休みの日に梅仕事を決行することにした。


梅仕事の日、
ドキドキしながら梅のみなさんとご対面。

袋を開封するとなんだか桃みたいな甘くていい香りがした。その香りにうっとりしながら、ふくよかな輪郭をなぞっていると、梅に産毛が生えていることに気がつく。

大切に収穫されて、私の家までたどり着いた梅たち。一つ一つに命があって、こんな黄金色に輝いている。

その時急に涙が込み上げてきた。
私の記憶にある梅は、木に実っている青い梅か、アスファルトに落ちて腐った梅だったから。


梅を綺麗に水で洗い、35度の焼酎で消毒をしたあと、梅のヘタを竹串で取る作業に入った。

梅のヘタに軽く竹串の先端を刺すとポロッとヘタが取れるのだ。最初はこれで合っているのか分からず、強く竹串を刺すと、竹串の方が折れてしまった。

私の家では梅仕事をする人がいなかったから、
ああ、家族から教わる人は羨ましいなと思いながら、梅仕事の本に載っているヘタをとった後の写真と睨めっこをして力加減を覚えていく。

なにせ本には
「竹串でヘタをとる」
の一文で終わっているのだから..。

きっと当たり前のことなのだろう。
私は梅仕事を知らない。
梅の木も、梅の色がどう変化するのかも、梅の果肉の味も私は知らないのだ。

ヘタを取り終え綺麗に器に入れると、梅たちは一層輝いているように見えた。

こんなに綺麗な黄金色の梅を私は知らなかった。
一つ一つ間違いなく生きている。
人間の赤ちゃんと同じように産毛をつけて。

私が子供を望んでいたならば、きっともっと愛おしく感じて、まだ見ぬ自分の赤ちゃんを想像したりしただろうか。

梅仕事をしていると、いやでも思い知らされることに気がついた。

黄色く熟した実に生えている産毛。
桃のようないい香り。
ふくよかな形。
ヘタを取り除いた後に見える小さなおへそ。

梅はきちんと毎年実をつけ、命を繋いでいるのだ。
私は繋げないのだろうか。
先祖代々繋がれた命のバトンは私で終わってしまうのか。


そんなことを考えながら梅を鍋で煮る。
実が柔らかくなった後菜箸で種をとる。

こんなに小さな命の中に、こんなに大きな種が埋まっている。お腹の下あたりがきゅっと締め付けられながらも、ジャム作りに集中する。

砂糖を入れて焦げないように木ベラで混ぜながら、だんだんとべっこう色になっていくのを見た。

ふと時計を見ると、二時間近く経とうとしていた。


煮沸消毒をした瓶いっぱいにジャムを詰めて、
窓から差す光に瓶を透かして見る。
14時の光が瓶の中を照らす。
とてもきれいだった。

瓶に入り切らなかったジャムは、大きなスプーンで味わうことにした。

ジャムは甘くて酸っぱくて、果肉がごろっと入っていて、外で買ってくるジャムよりもずっとずっと美味しかった。

梅はいろいろなことを教えてくれた。
実際に手を動かして知った、自分の嗅覚、触覚、味覚..。

私は頭で考え過ぎていたのかも知れない。
大切なことはいつもシンプルで当たり前のことだったりする。そしていつも目の前にある。

散らかり放題のキッチンを前に、べっこう色に輝く瓶を手にした私は、達成感と誰かとこのおいしさを分かち合いたい気持ちでいっぱいになった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?