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市ヶ谷の高䑓の偶居

 私の今の偶居は、市ヶ谷の高䑓にある。一つの谷を隔て士官學校と向き合つてゐる。其の谷は昔は千住の小塚原のやうに、罪人の梟首をした跡だといふ。 今は日本一と言はれる秀英舎の印刷工場が一杯に埋つてゐる。午前七時十五分に用意の汽笛が尻長がに二度鳴る。同七時三十分に就業の笛が一度鳴る。それから晝の三十分間の休憩以外、一日ザツ/\ゴスリ/\工場の音がしてゐる。大抵毎日午後六時前後で終業になるやうだが、盆とか暮とかいふと、連夜夜業をやるので、巻き添へに季節氣分を味はせられる。

河東碧梧桐著『二重生活』改造社 初版

これは碧梧桐による随筆で、当時住んでいた仮住まいの家について語っています。

この文章は大正12年6月10日に書かれたもの。このときの碧梧桐の近況は、大正9年末からスタートした欧州旅行を大正11年の1月に終え、この年の4月に引っ越して「市ヶ谷の高䑓の寓居」に入っています。

この家の住所は「牛込区市谷加賀町一ノ九」で、佐藤肋骨※という人の邸宅の敷地内にある貸家を借りていました。
※碧梧桐や虚子とは子規存命の頃から交流がある俳人

さてこの記事は、碧梧桐の「市ヶ谷の高䑓の偶居」を探し訪ねてみようという内容ですが、既に場所はわかっていました。
こちらのブログで紹介されていたのです!(碧梧桐のことや著作についてわかりやすく紐解いていく記事がオススメのブログです。是非あわせてご覧ください!)

この記事は2020年9月1日のもので、「この大日本印刷本社ですが、建物の高層化による空きスペースの緑地化工事が行われている最中で、この週末(8/29)見てきたところ、遊歩道付きの緑地へと着々と整備が進んでいました。」とあります。

それから4年経たないくらいの今、流石に整備工事は終わっているだろうと、訪れてみました!

アクセス

最寄りの市ヶ谷駅からの道筋も書いてみます。

市ヶ谷駅から歩きます。

市ヶ谷橋を渡ります。

突き当りを右に曲がります。

マクドナルドとファミリーマートの間の道に入ります。

坂だ!なるほど、行先が高台ですね。左内坂というそうです。
そこそこの傾斜をえっちらおっちら進みます。

この道筋の電柱に、「市谷の杜 本と活字館」と矢印付きの看板があるので、これに沿って進みます。地図がなくても進めます。

道に沿って右に曲がったり、信号の交差点もそのまま真っ直ぐ進み、「市谷の杜 本と活字館」に到着。

ここからは写真。「市谷の杜 本と活字館」
右の道をそのまままっすぐ進み、
突き当たりを左に曲がって、
すぐのところ、公園の方に入って、
市谷の杜に入って
ちょっと進んだ……
この辺!?

多分この辺です。

市ヶ谷の高䑓の偶居

このたび市ヶ谷周辺を歩いて眺めながら、「DNPのビルが大量にある……」ということに気付きます。

DNP!Dai Nippon Printing!大日本印刷!

最初に引用した「今は日本一と言はれる秀英舎の印刷工場」の秀英舎は、大日本印刷の旧名(合併前の片方の名前)です。

碧梧桐の隅居の敷地は「市谷の杜」の一部ですが、これも大日本印刷の管理です。
随筆にあるように、大正の頃は印刷の音が日中鳴りっぱなしでかなりうるさかったようですが、現在はとっても閑静でした。
裏の学校の野球部の声だけが響きます。

碧梧桐隅居推定地から南を向くと、DNPの高いビル

「士官學校」については、このあたりに広い敷地を使った陸軍士官学校があったんですね。この辺りの土地は、江戸時代では尾張藩の上屋敷、現在は防衛相だそうです。ほほ〜

この隅居で、碧梧桐は関東大震災に遭っています。
ここで、と、なんとなく空を見上げながら、この場所をあとにしました。(先程紹介したブログで、碧梧桐が震災時のことを書き残した随筆を紹介しているので、ご覧ください!)


おまけ

あとにしたあと、先ほど通りかかった「市谷の杜 本と活字館」に行ってみます。
ここのスタッフさん、本とか印刷のこととかが大好きなんだろうな!と色々説明を受けてて感じました。解説が手厚く、こういうのが好きな人にとってはたまらない空間です。
スタッフさんが「秀英舎」ピンバッチを付けていました。

大日本印刷市谷工場の象徴、「時計台」を復元した、本作りの文化施設。本作りの一連の流れを学べたり、特に「活版印刷」についての説明が手厚い
活版印刷体験ができました。
企画展 “印刷”について学べました

おわり(い)


碧梧桐の家の跡を尋ねてみようのコーナー、第一弾はコチラ↓


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