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そろそろ悲しいだけの人生を終わらせないか?(其の一)

ナキゴト年表


昭和○○年 ナキゴト家の長女及び第二子として生まれる。

予定日より2週間後、それでも往生際悪く中々出てこなかったらしく、吸引機械で引っ張り出したらしい。おかげさまで後頭部が尖ってる。


○○+4年 幼稚園入園。初日からギャン泣きしてた記憶しかない。

怖くて悲しくて辛い場所でしかなかった。バス通園だったけど、あらゆる乗り物に酔う私はほぼ毎日ゲロってた。ついでにお漏らしも酷かったので周囲はドン引き。汚物扱い。先生も度々の着替えの手間にイラついて、ある日とうとうブチギレてどつかれた。しまいにはしばらく停学ならぬ停園処分をくらう。

家でもおねしょするたびに、フラフラするまで父親にボコられてたから先生の背中しばき一回だけなの、むしろ優しいなーと感じた。


○○+6年 小学校入学。 幼稚園の延長線上でひたすらいじめのターゲットにされる。

上履き隠し、机や教科書に落書き、椅子に画鋲等の王道の洗礼は一通り受ける。高学年になると敵も知恵がついて、一見友達のフリをした高度な技で地獄に落とされる。

おバカなワタシはいじめられたことを親に隠せず、ありのままを報告してたんだけど、「馬鹿にされてるワタシ」に対して腹を立てた父親にはボコられて、母親からは「嫌われ者」と笑われた。

兄のにも長年サンドバッグ代わりにされてたけど兄が中学生になったタイミングで終わったような気がする。


○○+12年  中学校入学。

制服のおかげで周囲から浮いた風に見えなくなったのと、今までのいじめっ子とクラスが離れたお陰でそれなりに友達が出来た。しかし運動神経は相変わらず悪く、一部の体育会系及びヤンキー気質の子たちをイラつかせ、総攻撃に遭う。今思うと理不尽極まりない。


○○+15年 某美術系高校を友人と一緒に受験。

彼女は不合格で地元の私立高校へ進んだ為、単身自宅から片道90分かけて通うが、入ってから理想と現実のギャップに苦しむ。

小中学校の頃は何度か絵画コンクールなんかで賞取ったり、美術の成績も良かったので自分は歳のがあるんだと大勘違いして、うっかりこんな所に来てしまった。

教師から「何を考えてここに来た?」と問われるほど自分は超ド級低レベルだった。

しかもこの頃やっと初潮。身長165センチなのに。

母親から「早く生理が来るのは、いやらしい事ばかり考えてるから」みたいな意味不明の教えを受けていた。


○○+18年  案の定就活にも失敗。就職も決まらず母の紹介で知り合いの経営する喫茶店でアルバイトする事に。

当時ヤンキー文化最盛期。

そんな雰囲気満載の店で、陰キャでアニオタのワタシはただひたすら浮きまくり。

ヤンキーのいじめはどストレートで、陰湿さが無いのが救いだった。


○○+20年  幾度かアルバイトを転々とし、ある時教習所で友達になった女の子から紹介された会社で正社員として雇って頂く。

百貨店内の店舗勤務だったけれど、ここでも自分が世間からズレまくっていると思い知る。気の合う友達も出来たけど百貨店直営の女子社員グループからは見事にハブられる。

そんな時、他の売り場の出入り業者の男からアプローチされ、付き合う。最初の夫である。


○○+24年 最初の結婚。まさかの他県に嫁ぎ夫の両親及び祖母と同居。

親戚の集まりやご近所の訪問も多く多忙。

長女出産後義祖母が寝たきりになり自宅介護が3年間続く。


○○+30年 義祖母が亡くなり、パートに出る事ができるようになった矢先、夫の転勤が決まり横浜に引っ越し。絵に描いたような幼稚園ママのマウンティングワールドに。

長女のアトピーが悪化(もしくはステロイド断ちのためにリバウンド)

数少ない一人っ子家庭で新参者の我が家は毎日託児所+幼稚園ママのティーサロンへと変貌。


○○+33年 2年続けて稽留流産の後、長女と6歳違いの次女誕生。

この子は生まれて間も無くアトピー発症。食物アレルギーも酷く粉ミルクが飲めない上に、母乳も出難いダブルパンチ、一日中泣きっぱなし。ベビーカーに乗せてる間だけ眠るので夜中でも街中を押して歩いた。自分の睡眠1〜2時間ノイローゼ寸前。そんな時に夫は大阪に単身赴任(不倫の始まり)


○○+34年 長女の友達関係が拗れてボスママの恨みを買って、周囲から総スカンの針の筵。

ストレスで母乳が出なくなる。

逃げるように大阪へ引っ越し。夫からは思いっきり拒まれた(何せ不倫中だから)


○○+35年 ようやく家族揃って生活出来ると思ったさなか、夫は逃げるかのように東京に単身赴任。

帰宅手当(交通費)も支給されているのにほとんど帰ってこない(実は帰ってきてた。家とは違う場所に)帰ってきても不機嫌で会話が無い。子供にも構わない。生活費がまともに頂けないこともしばしば。この頃からキャッシングの支払い請求書が届く。

○○+38年    いよいよキャッシングの返済が家計を圧迫してきた。 

夫に問い正しても一人暮らしの生活費や交際費が嵩むとしか答えない。

何か面倒な事に巻き込まれてるのでは?と心配になった。不倫や浮気は疑ったいなかった。

ある日携帯電話を置いて出かけたので、悪いと思いつつメールをチェックすると、「いかにも」な女性とのやりとりがあった。

○○+39年 私の前では不倫は認めたが、周囲には私の精神病と被害妄想が離婚原因だと主張し、離婚調停になった。

養育費の額で折り合いがつかず半年経った頃、私の乳癌が見つかり手術入院することに。さすがに相手もびびって調停は成立。

養育費支払いの条件として子供との面会権を主張しなかった父親は初めてだと調停委員さんが呆れていた「本当に、別れられて良かったですね」と。

離婚成立の翌日入院。癌はごく初期だったがリンパ節への転移が見られたので、温存せずに全摘した。この頃から長女が壊れ始める。

○○+40年 離婚、度々の引っ越し、長女の不登校とネット依存、手術後の後遺症、再発防止の薬物治療の副作用‥体調も悪く、再就職もままならず不安に押しつぶされそうな日々。

実家の親は、帰って来いとも力になるとも言ってはくれないが、再婚はおすすめしてくる。

ふと出来心で某有名婚活サイトに登録してしまった。その時は結婚したいというより相談相手が欲しかった。するとどうでしょう。こんな無職の病み上がりのおばさんでも即座にお申し込みが数件。

やがてその中でも特に誠実そうな人としばらくの間メールや電話でやりとりし、そのうち実際に会って、子供たちもすぐに懐いて、実家の親も先方の親も大賛成で、あれよあれよと言う間に婚約に至る。

○○+41年 再婚

2番目の夫となる彼は9歳年下。少々女性的というか、結婚に夢見がちな人で、私は特に望んでいなかった結婚式も自分の考えたプランで理想通りにして‥でも、本当に夢で終わった。

招待客の前で「絶対絶対、大切な彼女たちを幸せにします!全力で守って行きます!」(拍手)

後の「守る守る詐欺」である。

そもそも家も家具も、なんなら彼の出勤用スーツと靴も全部私が用意したところに彼が来ただけ。結婚式の支払いも私。婚約指環もカード払いだったので請求は家に届く。

そう。彼はまさかの無一文だった。有名車メーカー勤務で実家暮らし。服装も素朴でギャンブルもしない。「これからは安心して。ナキちゃんは働かなくていいよ。」と言ってたのに。

なんで?と尋ねたら

「金が目当てで結婚したの?」と逆ギレされた。どっちのセリフなのか。

まぁこれからは彼の毎月のサラリーで暮らすのだから私がきちんと管理すれば良いと思っていた矢先、彼は新婚3日目にして会社に行かなくなってしまった。

なんと因果としか言えないが、彼もまた重度のアトピー持ち。結婚による環境の変化と、これまた理想と現実のギャップによるストレスで、抑えてた症状が一気に吹き出して‥全身ドロドロ。

病院に行ってステロイド点滴でもすれば症状が治るのは分かってる。でもそれは一時的なもので解決策にはならない。

娘2人のアトピーと、長年戦い続けたワタシのところに彼を遣わしたのは、神の御心なのか?治してあげろという事なのか?と、いつもの悪い癖で謎の使命感に燃え、それからは黙々とひたすら介護の日々。

浸出液でベタベタの服を一日数回着替えさせ、

何度も新しいお湯に浸からせてタオルとシーツを洗って、干して、食事も無農薬の玄米と野菜を取り寄せて、三食栄養バランスの取れた完璧な献立にして‥

彼は身体が大きくて、食事量も多くて正直、世話の大変さは娘たちの比ではなかった。

加えて一日中布団の中でインターネット。

スマホのない当時、彼の携帯電話プランではパケット放題じゃなかったから携帯料金が六万円超えていた。2回目の給料明細は、会社で買った車のローン引かれてマイナスになっていた。彼と結婚したので母子家庭手当も入らない。私の治療費も月五万円以上の支払いが。どんどん貯金がなくなる。

なのに私が働きに出るのは嫌だと言う。癌の治療を止めたら?とか信じられない事を言われた。

そして彼の思考は日に日にネガティブになり

誰かに笑われてるとか妄想に取り憑かれ

しまいには私が留守の間行った皮膚科でこう言われたと。

「俺がこうなったのは、アトピーのせいじゃないって!ストレスのせいだって!今の生活が悪いってさ!」

何それ‥

「じゃあ、それならここから出て行くしか治せないよね?」

新婚3ヶ月目彼は実家に戻った。

4ヶ月目離婚成立。子供たちは無反応。

結婚前は優しくしてくれたけど

結婚してからほとんど絡まなかった。

彼は夢見てた。そして失望したと言った。

結婚式の直後から子供たちから「パパ」と呼んでもらえると信じてたのだ。

でも私はそれを子供たちにけっして強制はしたくなかったのだ。

二度目の結婚で失ったものは

多分時間とお金だけ。

得たものは

誰かに幸せにしてもらおうという依存心を捨てろという教訓。1人で生きれない者同士は所詮、2人でも生きれないんだ。

めっちゃ長いので一旦ここで切ります。



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