ショートショート この場所
夕方。さおりさんが店に来ていた。先輩だ。喫茶店の。
相変わらず派手な化粧で髪縦にまいちゃって。店の中でひとりだけ昭和の時代が流れていて、お客さんにちらちら見られていておかしかった。立ち去りがてらカウンター越しに「あんたがんばるのよ」って言ってくださった。
男前。ちょっと笑ってしまった。
最後のお客さんが帰って、入り口の看板を片付ける。妻のやっていた仕事だ。もう慣れた。泣くことはない。多分。薬指の銅の指輪を少しみつめた。
机を拭いて、掃除して、すっかり片付けてからケトルを火にかける。
自分のために、一杯だけ珈琲を淹れる。
ここを始めてから、仕事のことを考えずに珈琲を飲むことがなくなった。自家焙煎なんてやってるもんだから、よその店に行っても、子供と一緒にお菓子なんか食べていても。珈琲と名のつくものを口にすると、すぐ仕事のことを考えてしまう。
「眉間に皺がよってる」
元気だった頃の妻によく人差し指でつつかれた。
「好きで始めたくせに。ばかだね」
ぽこぽことお湯の沸く音。キッチンスケールで豆をはかる。商品じゃないから、きっちりしなくてもいいのだけれど、多分、職業病だ。あおの世で妻がみたらきっと笑うだろう。13グラム。ミルで潰して、ペーパーフィルターに折り目をつける。
ガスの火をとめる。布ごしにケトルの持ち手をつかむ。湯をサーバーへ。メガネが湯気で少し曇る。
フィルターをドリッパーに放り込む頃には、淹れること意外何も考えなくなっている。やっぱり職業病かもしれない。ペーパーフィルターを濡らす最初の一滴。引いた豆を入れた時の粉の飛び具合。とんとん。フィルターの端を外側から少し叩いて粉を平にする。今週のブレンドはけっこういい焙煎だと思う。
少し深呼吸して、粉に湯を落とし始める。
店を始めたばかりの頃は、カウンター越しに抽出作業をのぞくお客さんが気になったかが、もう平気だ。緊張してると、お湯を落とす場所がずれてします。ふうう、疲れたというように、粉の真ん中が膨れてくる。自分も一緒に膨れてくるような気分になる。そそぎ口をひきあげると、はああ、もうだめだ…とふくらみが凹んでいいくので、また足していく。頑張れ、もう少し。
娘の声が聞こえる。学校から帰ってきたらしい。「おかえり」と、奥に向かって答える。
湯が落ち切る前にドリッパーをはずす。洗い立てのシンクに黒い筋ができる。また磨き直さなくちゃ。妻とは違って、いまだに僕は容量が悪い。
白い陶器に黒い液体。空はまだ赤い。
店に入ってくる夕日をみながら僕は珈琲を飲む。妻はもうここにはいない。珈琲を口につけると、昔と同じ味がする。この場所に、彼女がいた頃と変わらない味。
「おとうさーん」と声がする。
「はーい」
返事はするけど、もう少し。飲み終わるまでまってもらう。娘もちゃんと知っている。
もうひとくち飲んで、少しうつむく。夕日に顔上げる。知っている。本当は少し、違う味。
「恐れを知らぬ波乗りねこ」
for Steering the Craft
introduction
エッセイ ガラスの浮き球
1−①ー1 名古屋の化け猫
1−①ー2 この場所