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龍の描き方「三停九似」

タイトル画像:伝・陳容筆『五龍図巻』(部分)、中国、南宋時代・13世紀、紙本墨画淡彩、1巻、縦45.2×横299.5cm、東京国立博物館蔵、重要文化財、出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

カレンダーを数えたら、今年はもうあと55日しかないとわかり、言葉もない。

来年は辰年だそうだ。龍、竜。十二生肖せいしょう中唯一動物園にいない生き物。十二生肖としては他の動物と同列で、別格の扱いは受けないようだが、超常的な力を持つものといわれ、古来畏敬の対象であった。

この龍の話がしたい。
ずっと気になっていながら、長いあいだ放置するうち忘れてしまっていた問題などもある。

さて今、龍といえば、その外見はほぼ一様だが、古代の辞書などを見ると、外見も性質も知能も実にさまざまな龍たちのことを伝えている。それが今よく見られるような容姿に図像が固定化されていったのは、いつ頃のことで、何が背景にあったのか。

中国では龍の姿に関する「三停九似さんていきゅうじ」という説が、遅くとも11世紀には一般化していたようで、我々が今よく見る龍は、この説が元にある印象が強い。
もっとも、7世紀末から8世紀初頭、白鳳時代の築造と推定されている高松塚古墳に四神しじんの一つ「青龍せいりゅう」の壁画があり、それも「三停九似」を思わせる容姿を持つから、三停九似のような描き方は、もっと古くから行われていて日本にも伝来していたものと想像する。

「三停九似」とは、龍の体は三つの部分に分けることができ(停は複数部分に分けた一つのこと)、角や目、うろこなど九つの要素は、それぞれよく知られた動物のものに似ている、というふうに定式化したもの。語られ、描かれた龍を研究し、帰納的に導き出した「龍の描き方」といえる。したがって、それに則したからといって本物の龍の姿に近いものが描ける保証はない。思い切ったような定式化であるが、人々を相当納得させるところがあったのだろう。結果としては、龍の姿として定着した。そう細かい規定でもないため応用もしやすく、画題として需要が増す中、「龍の描き方」の基本として便利で優れていたのかもしれない。

「三停九似」の説は、内容の少しずつ異なるものが複数伝わっているが、有名なのが、南宋(1127~1279)の進士で地方官僚、学者だった羅願(1136~1184)が著した辞書『爾雅翼じがよく』の「釈魚」に書かれている内容である。

王符称、世俗画龍之状、馬首蛇尾。又有三停九似之説、謂自首至膊、膊至腰、腰至尾、皆相停也、九似者角似鹿、頭似駝、眼似鬼、項似蛇、腹似蜃、鱗似魚、爪似鷹、掌似虎、耳似牛

(『乾隆御覧本四庫全書薈要』)

後漢末期の王符(2世紀)によれば、世間一般に龍の絵は「頭部が馬で尾部が蛇」である。また、三停九似の説というものがあり、それは(A)頭から襟首まで、(B)襟首から腹まで、(C)腹から尾の3部分を「三停」とし、「九似」は(1)角は鹿に似、(2)頭はらくだに似、(3)眼は鬼に似、(4)うなじは蛇に似、(5)腹はしんに似、(6)鱗は魚に似、(7)爪は鷹に似、(8)掌は虎に似、(9)耳は牛に似る、ということである。

「世俗画龍之状、馬首蛇尾」は王符の言とされるが、王符がこのことを記した書物は伝来しないらしい。ちなみに王符より少し世代が上の王充(27~1世紀末)が『論衡』の「龍虚篇」で「世俗画龍之象馬首虵尾」(虵は蛇)と書いている。

三停九似の説は羅願以前からあったようで、明(1368~1644)の唐寅とういん(1470~1523)という文人が編纂した『六如居士画譜りくじょこじがふ』(六如は唐寅の号)巻3に、南唐(937~975)と宋(960~1127)で活動した董羽とうう(生没年不詳)という画家が著した『画龍集議』が収められており、そこにこう書かれている。

古今図画者、固難推其形貌其状、乃分三停九似而已。自首至項、自項至腹、自腹至尾、三停也。九似者、頭似牛、嘴似驢、眼似蝦、角似鹿、耳似象、鱗似魚、鬚似人、腹似蛇、足似鳳、是名為九似也

(『嘯園叢書』)

古今の画家は、もとより龍の容姿外形を推定しがたく、すなわち三停九似に分けた。てっぺんからうなじまで、うなじから腹まで、腹からしっぽまでが三停で、九似は、牛に似る頭、ロバに似る口、エビに似る目、鹿に似る角、ゾウに似る耳、魚に似る鱗、人間に似るひげ、蛇に似る腹、鳳凰ほうおう(伝説の鳥)に似る足である、とのことだろう。

これが三停九似の現存最古の記述らしい。董羽は、五代十国の一つ南唐の画院がいん待詔たいしょう、つまり高い位にあった宮廷お抱えの職業画家である。南唐が開宝8年(975)に宋に降って滅びると、宋の画院に勤めて芸学げいがくという職位(待詔の下)にあったようだ。龍水、水魚の達人だったという。

また、同じ『六如居士画譜』の巻1には、北宋(960~1127)の美術学者、郭若虚かくじゃくきょ(生没年不詳)の『制作楷模』が収められており、こう書かれている。

龍須析出三停(自首至膊、膊至腰、腰至尾)、分成九似(角似鹿、頭似駞、眼似蝦、鬚似蛇、腹似蜃、鱗似魚、爪似鷹、掌似虎、耳似牛)

(『嘯園叢書』)

龍はすべからく三停(首から肩・腕のあたりまでと、そこから腰までと腰から尾まで)およびに九似(鹿に似る角、ラクダに似る頭、エビに似る目、蛇に似るひげ、蜃に似る腹、魚に似る鱗、鷹に似る爪、虎に似る掌、牛に似る耳)に分けられるべき、ということだろう。

次に明の医師・本草学者の李時珍りじちん(1518~1593)『本草綱目ほんぞうこうもく』(1569)。原文は次のとおりで、羅願『爾雅翼』を引いているが、江戸時代の医師・寺島良安りょうあん(1645~?)の『和漢三才図会わかんさんさいずえ』(1712)の「龍」の項ではこれが引用され、また、南方熊楠みなかたくまぐす(1867~1941)も『十二支考』「田原藤太たわらのとうた竜宮入りの話」において、これを九似の説明として引いている。

爾雅翼云龍者鱗蟲之長王符言其形有九似頭似駝角似鹿眼似鬼耳似丑項似蛇腹似蜃鱗似鯉爪似鷹掌似虎

(『欽定四庫全書』)

書き下すと、「『爾雅翼』に云ふ、龍は鱗蟲の長なり。王符言はく、其の形に九似有り。頭は駝に似、角は鹿に似、眼は鬼に似、耳は丑に似、項は蛇に似、腹は蜃に似、鱗は鯉に似、爪は鷹に似、掌は虎に似る」となるだろうか。

南方氏はこう引用している。

かくまで尊ばれた支那の竜はどんな物かというに、『本草綱目』の記載が、いと要を得たようだから引こう。いわく、〈竜形九似あり、頭駝に似る、角鹿に似る、眼鬼に似る、耳牛に似る、項蛇に似る、腹蜃に似る(蜃は蛇に似て大きく、角ありて竜状のごとく紅鬣、腰以下鱗ことごとく逆生す)、鱗鯉に似る、爪鷹に似る、掌虎に似るなり〈以下略〉〉

『十二支考』「田原藤太竜宮入りの話」岩波文庫

寺島氏の『和漢三才図会』は次のとおり記す。

本艸綱目云龍形有九似頭似駝角似鹿眼似鬼耳似牛項似蛇腹似蜃鱗似鯉爪似鷹掌似虎也

『和漢三才図会』巻五、内藤書屋、1890年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1876655/1/68
寺島良安編『和漢三才図会』巻五、内藤書屋、1890年
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/1876655)

書き下すと、「本草項目に云ふ、龍の形に九似有り、頭駝に似、角は鹿に似、眼は鬼に似、耳は牛に似、項は蛇に似、腹は蜃に似、鱗は鯉に似、爪は鷹に似、掌は虎に似る也」となるだろうか。

李時珍は羅願を引くが、違うところがある。「鱗似魚」が「鱗似鯉」となっている。李時珍を引く寺島氏も南方氏も「鱗似鯉」となっている。
この理由はわからないが、鯉と龍は深いつながりがある。黄河の龍門を越えた鯉は龍になるという「登龍門」の伝説だ。
文献では、『太平広記』(978年)巻466の「龍門」のところに漢の辛氏撰『三秦記さんしんき』(現存せず)を出所として記載がある。曰く、「龍門山在河東界禹鑿山断門」。つまり、龍門は今の山西省で伝説的な王の禹が治水のため山をうがち門を断って生まれたものだとのこと。そして「毎暮春之際有黄鯉魚逆流而上得者便化為龍」、すなわち、毎年春の終わり頃、流れに逆らって黄鯉が竜門を上り、登れた鯉が竜になる、ということだ。また、登ることができる鯉は年に72匹だけで、「初登竜門即有雲雨随之」(初めて龍門を登れば即ち雲雨有りこれにしたがう)とも書かれている。
さて、ここまでに挙げた三停九似を整理すると、次のようになる。

王符(後漢末期):馬首蛇尾
王充(後漢末期):馬首蛇尾

〇三停
董羽(南唐・宋):自首至項、自項至腹、自腹至尾
郭若虚(宋):自首至膊、膊至腰、腰至尾
羅願(南宋):自首至膊、膊至腰、腰至尾

〇九似(順番は出典どおり)
董羽(南唐・宋):頭似牛、嘴似驢、眼似蝦、角似鹿、耳似象、鱗似魚、鬚似人、腹似蛇、足似鳳
郭若虚(宋):角似鹿、頭似駞、眼似蝦、鬚似蛇、腹似蜃、鱗似魚、爪似鷹、掌似虎、耳似牛
羅願(南宋):角似鹿、頭似駝、眼似鬼、項似蛇、腹似蜃、鱗似魚、爪似鷹、掌似虎、耳似牛
李時珍(明):頭似駝、角似鹿、眼似鬼、耳似牛、項似蛇、腹似蜃、鱗似鯉、爪似鷹、掌似虎

羅願と郭若虚が近い。挙げる順番も似ている。ただ、眼が鬼とエビで違い、羅願にはうなじがある一方、郭若虚にはひげがある。

それはさておき、やはり見慣れたあの龍に近いのは、羅願の三停九似だろう。しかし、二点、腑に落ちないところがある。

まず、「しん」とは何か。これは二説あり、蜃気楼を発生させる伝説のあるオオハマグリとも、やはり蜃気楼を起こす龍に似たみずちという生き物ともいわれる。

李時珍は『本草綱目』巻45「車螯しゃごう」に、「車螯俗訛為昌娥、蜃与蛟蜃之蜃、同名異物」(車螯は俗になまって昌娥しょうがなり。蜃と蛟蜃の蜃は、同名異物なり)と記している。車螯はシャコガイ科の二枚貝で、シャゴウとかシャゴウガイと呼ばれるものらしく、清の章穆しょうぼく(1743~1813)の医学書『調疾飲食辯』(1813)の「車螯」では「俗訛為昌蛾、又名蜃」とある。車螯は昌蛾という別称があり、またの名を蜃という、ということである。

しかし、貝の蜃と蛟の蜃は別の生き物であることはわかったが、羅願がどちらのことを言っているのかは推定できない。

『和漢三才図会』は「蜃及蛟之属状亦似蛇而大有角如龍状」、つまり、蜃はすなわち蛟に属し、形また蛇に似、しかして大角有りてかたち龍の如しと、ハマグリ説ではなく蛟説を取っている。では蛟とは何か、ということになる。しかし、蛟がどのような生き物であるかを載せている文献はいくつかあるが、結局は蛟も未確認動物であるから、羅願の「蜃」が何であるかは推定できない。

「眼似鬼」にも違和感を覚える。他の動物に比べ、「鬼」は異質だ。李時珍も「眼似鬼」と記し、『和漢三才図会』も「眼似鬼」としているが、この「鬼」は「兔」の書き間違えではないかと見る向きもある。白い兔のあの赤い目である。

第一、中国では「鬼」は昔から死者の霊を意味した。今もそれは基本的には変わらず、現代の普通話辞書も、guǐを「迷信的人所説的人死後的霊魂」(『現代漢語詞典』第7版)としている。
後漢の許慎きょしん(生没年不詳)が著した中国最古の部首別字書『説文解字せつもんかいじ』(100年頃)には「人所帰為鬼」(人の帰する所を鬼と為す)とある。鄭玄じょうげん(127~200)注『礼記らいき』の「祭法」には「人死曰鬼」(人死するをば鬼と曰ふ)とある。『礼記』「祭義」には「衆生必死、死必帰土、此之謂鬼」、つまり「衆生は必ず死し、死すれば必ず土に帰す、これを鬼と謂う」とある。『論語』「泰伯」には、中国最古の王朝・夏の創始者・禹が「菲飲食而致孝乎鬼神」とあり、これは(自分の)飲食をうすくして孝を鬼神に致しということで、この「鬼神」は禹の父の霊、つまり先祖の霊だ。
「鬼」は死者の霊魂を意味すると考えるのがまずは妥当で、したがって龍が「眼似鬼」であるというのは、何か奇妙なのである。

しかし当の中国人、しかもすさまじい知識人が、三停九似を述べる非常に大事なところで、「兔」を「鬼」と書き間違えて気づかないものだろうか。やはり、そのような誤記を犯したとは考えづらい。すると、羅願の記したこの「鬼」とは何なのかということになるが、それには仏教の経典の中で「鬼」とも訳された「死者の霊魂ではない」さまざまな「鬼」が参考になるのかもしれない。

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