
ZAIAKUKAN #未来のためにできること
その新しい季節の入口に絆(ほだ)されて、つい、服を買ってしまう。
私は流行り物ではなく、比較的ベーシックなものを好み、また長年、体型の変化も特段ないため、本来であれば、去年の物をそのまま着れば済む話であり、加えて、無精で面倒くさがりな性分でもあるから、それに越したことはないはずである。
しかし、絆されてしまう。
新たな1軍レギュラーが加われば、以前の物は2軍、3軍へ、この場合は部屋着、あるいは職場の作業着などである。
そこに適さないものは、ネットのフリーマーケット、これは金銭トレード、または独立リーグへ移籍みたいな感じだろうか。
しかし、その労力、あるいは費用対効果に見合わなければ、廃棄、クビとなる。
それらは、かつては輝きを放ち、あれだけの"ときめき"を覚えていた存在だが、1度失った感情は、そうは取り戻せない。
久々に引っ張り出して着てみて、「あっ、まだ案外イケる」といったパターンも稀にあるが、その稀に期待して、溜め込む容量は無い。
処分の際には毎度、"罪悪感"を覚える。
そう、その"罪悪感"が大切と感じる。
それさえあれば、幾らでも捨てて良い免罪符とはならないが、重要な感情であり、または、最後の砦のようにも思える。
こう記していると、これって"MOTTAINAI"ではないかと、それの亜種、二番煎じのように思えてきたが、別物であるとして、続ける。
どの道、服の誘惑は、この先も長きに渡り付きまとうだろうから、必要悪、かどうかはわからないが、無駄は確実に出る。
とは言え、オシャレ命でもファッショニスタでもない、一中年男性の"それ"であるから、たかが知れている。
その時期の流行を都度取り入れる、特に若者の消費は、その比ではないだろう。
自身を振り返れば容易に想像できる。
しかし、その"罪悪感"は多少なりとも、抑止となり得るように思う。
他の、例えば"食"に関してもそうで、残す、捨てる際に、結果、捨てるとしても、躊躇する気持ちを持ち続ける。
周りで、そういう場面に出会した際には、軽く嫌われそうだが、「もったいない」と、ちょっと声に出して言ってしまえる心持ちでありたい。
結局"MOTTAINAI"になってしまった。
みんなの元気を少しずつ集めて大きくなるのが、ドラゴンボールの"元気玉"であるが、みんなの"ZAIAKUKAN"で少しずつ減らせれば、その"逆元気玉"のようなものは幾らか、小さくなるような気がする。