いい歳こいて「ニューシネマパラダイス」を未だに観られないでいる
間違いのない名作だということは、かねてより、とうの昔から知っているし、実際にそうだろうとも思っているが、40過ぎて、未だに観られないでいる。
ちなみに物理的にではなく心情的なことだ。
とは言っても、これに関する何らかのトラウマを抱えているとか、そんな深い話ではない。
感動するとか泣けるとか心に響くとか、そんなことを聞き過ぎて、もはや観るのが恐い領域に入ってしまっているのだ。
また、思わぬ感動や泣きは仕方ないし良いのだが、それとわかっているのにわざわざ拾いに行くのが、ちとしんどい。
もっとも、ただの、そんな類いの作品ではないことはわかっている。
なんなら、例えば、おじいさんと男の子が自転車に乗る、あのよく見かけるシーンなどが、エンニオ・モリコーネの曲をバックに、テレビでちょこっと流されるだけでもう、泣けてしまう。
いや、もうあの音楽だけで大概、泣いてしまう。
孫の卒業式であれをみんなで合奏なんかされたら、ちよっとしたお年寄りならショック死してしまう程の威力があると思う。力道山時代のプロレス以来の。
この映画の概要が頭にあるからか、あるいはその背景がなくとも泣けてしまうような、いわば"オバケ音楽"なのか。
もう私はとっくに、すっかり、この映画を知ってしまっている。
映画館のおじいさんと少年が仲良くて、でも火事が起きたりして、そして男の子が成長する。
だいぶ"かいつまんだ"が、実際はもっと、ほとんど知っている。
ニューシネマパラダイス耳年増だ。おニャン子クラブ以来の。
成長とか老い、あるいは時間の経過って、非常に泣ける要素に思う。
私の好きな映画で、同じくイタリアの「輝ける青春」という作品がある。
これは1960年代〜2000年頃までの、実際のイタリアや世界の史実に沿いながら、ある一家の、特にその内の二人の兄弟の青年期〜中年期を中心に描いた物語で、トータル6時間超の大長尺だ。
途中、スリリングな展開や、悲しい場面もあるのだが、割りと淡々と進んでいく印象で、それもあってか、その6時間が嘘のようにあっという間に過ぎて行く。
最後は感動するようなシーンだが、それに加えて、それぞれの成長、あるいは老いといった、全体の流れをふんだんに、全部引っくるめたようなものが一気に押し寄せた感覚を覚え、思わず涙した。
これがこうしてこうなったから、とかではなく、漠然とした感じで。
ところで、家のレコーダーには、いつかのBSで放映していたニューシネマパラダイスを録画したものが、"さらピン"の状態で残っている。
「いつかこの映画を観たらきっと泣いてしまう」だろう。
何のことを言っているかわからないかもしれないが、ちなみにそのドラマも、もはやタイトルに泣ける要素がふんだんに盛り込まれており、観られない。
あと、「花束みたいな恋をした」も、もう泣ける。お腹いっぱい。
気持ち悪いことを言うが、恋を経験したことがない状態であれば、さほど気にせずに観られたと思う。
もっとも、そもそも他人事ですらなく創作なのだから、それこそ話半分で観ればいいのだが、そうはいかない。
案外、感受性が豊かなのか。
あるいはただ涙もろいだけで、それが歳を増して、さらに強くなっただけか。
時に、ちびまる子ちゃんで泣けてしまう程である。
だから今は同じくさくらももこの作品「コジコジ」が私には適当だ。
メルヘンの国が舞台で、コジコジは性別も、あらゆる概念のない、ただ「コジコジ」であるという極めて能天気な存在で、そこで描かれる恋路と言ったら、やかん君のペロちゃんへ向けたものか、ハレハレ君とジョニー、でもそれで言うと正月君とひな子さんだけ少しリアル。
ちなみに、なぜか雪だるまのコロ助だけは女性のことを「オンナ」と呼ぶ。
安心して見ていられる。
でも、コジコジは夜に高台で1人佇んだり、いつも三日月の上で寝ているから、本当は"みなしご"なのかと勘繰ったり、そもそも"コジコジ"ってそういう意味なのかとか。
これは涙を拾いに行っている状態。
私はどうなったら「ニューシネマパラダイス」を観るのだろうか。
頭に拳銃を突き付けられて「観ろ!」と言われたら、それは観る。
「観たら3千円あげる。」と言われても観る。
千円でも観る。
ひどく簡単な話になってしまった。