映画「ロッキー」への失礼な先入観を反省、そして恥じる
つい10年ほど前、30歳を過ぎた頃にようやく、初めて「ロッキー」という映画を観た。
主演・脚本シルベスター・スタローンの、言わずと知れた不朽の名作、ボクシングの、あのロッキーである。
でも、それまでの見ていなかった時期も、知った気でいた。
丸太とかタイヤ担いで過酷なトレーニング、そして生卵飲んだりして、最後にリング上で「エイドリア〜ン!」と叫ぶやつ、とのイメージだけで、長い年月を推移してきた。あとテーマソング。
ポンドのステーキ、デッカい飲み物、ポテト、ケチャップ、マスタード、ウィアーザワールド、デーブ・スペクター、早見優、西田ひかる、そして、シルベスター・スタローンおよび、ロッキー。
ざっくりとした自身の「ザ・アメリカ」の枠に、その偏ったイメージのままに長らく収めて放置していた。
でも、似たような感覚の人は少なくはないと思う。内訳は別として。
現在の改訂版だとその枠に、なかやまきんに君とYuji Ayabeが加わる。
そして、実際のロッキーであるが、まず、70年代の雰囲気、空気感がカッコイイ。
76年の公開だが、勝手に、何となく80年代アメリカの原色の眩しい大味でデッカい映画とのイメージがあったため、初っぱなで早くも、その先入観は覆された。
さらに、スタローン演じる「ロッキー・バルボア」の"なり"がカッコイイ。
ボクサーとしてはすっかり落ちぶれ、借金取りの仕事で生計を立てるような暮らしぶりから話しは始まるのだが、革のジャケットなんか羽織り、斜めにハットを被った、そのアウトローなチンピラスタイルが洒落ている。
イタリア系移民という設定から来る、伊達男感もある。
てっきり、ほぼほぼランニングにトレパンだと思っていた。
そして、かの「エイドリア〜ン!」でお馴染み、恋人のエイドリアンも、私の思い描いていた奔放なアメリカ人女性とは真反対の、極めて内向的な、いわゆるイケてないタイプだったのが意外。
当初は粗暴な印象を受けるロッキーに戸惑うエイドリアンだったが、その実、繊細で優しい性格に次第に心を開いて行く。
また、そのエイドリアンの兄ポーリーは元々、ロッキーの親友であり、その友情も描かれている。
そして、彼の落ちぶれように一度は愛想を尽くした、かつてのトレーナーのミッキーだったが、今一度、彼の再起を願い、また自身の思いを込めてロッキーに賭けんとする。
それらの人間模様を経たロッキーは一念発起し、過酷なトレーニング、大一番、大団円となる。
なんなら、その一念発起までの方が長く、そして重要。
ボクシングはそれらを描く上での、あるいは物語を締めるためのひとつの手段に過ぎず、必ずしもこの競技である必要はなかったのかもしれない、などと勝手なそれっぽいことを言いたくなるが、しかし他に代替できるものは思い付かず、試合はもちろん、それに臨むまでの減量を含めたトレーニングの過酷さ、メンタルの管理などを鑑みても、やはり漏れなく揺るぎなく、ボクシングだろう。
無駄な考察だった。
そして、そんなトレーニングや試合の場面にも当然、強く引き込まれるが、それはビル・コンティの手掛ける音楽による力も大きく、特にメイナード・ファーガソンの奏でる、ハイピッチのトランペットによる、あのテーマ曲で盛り上がらないわけがない。
私はちなみに、そのメイナード・ファーガソンのバンドに属していた、その流れを汲むような日本を代表するハイピッチのトランペッター、俗に言うハイノートヒッターの「エリック・ミヤシロ」のファンであり、これは余談だ。
観る以前は、ボクシングの試合およびトレーニングが見どころで、それがハイライトシーンなのだと思っていた。
しかし実際には、言ってしまえばハッキリとした見どころなんてものは無く、いろんな要素が幾重にも重なった繊細なヒューマンドラマであり、でもそれは、ボクシングもまた、"とにかくぶん殴って勝つ"といった単純なものではなく、身体的なことに加えてメンタルが非常に大切で、繊細な競技であることとリンクするような気がする。
「この作品自体がボクシングだ」とまで言ってしまいたい気分だが、それの経験も知識もないため、この言葉のパンチに今ひとつ体重を乗せ切ることができない。
腰を入れて振り切った途端、強烈なカウンターを喰らいそう。
無駄なボクシング例え。
そして、「エイドリア〜ン」の叫びの意味合いも理解でき、感じ方も全然違うものとなった。
とにかく、私においてのロッキーは、「百聞は一見にしかず」みたいなことだろうか。
それとは逆に、寸分違わぬ"百聞"したまんまの映画もあるが、期待通りということで、それもまた良し。