されど労働はつづく
まだXがTwitterだったころ。フォローしていた人が「5年勤めた会社を退職した!明日からしばらく休む」と呟いていて、それがすごく羨ましかった。そのとき、私は働いていて毎日、地獄だと思いながらそれでも辞める勇気がなく仕方なく職場に縋りついていた。いつか、私も自由になりたいそう思いながらPCのキーボードを叩いていたことを覚えている。
あれから地獄だと思っていた職場を辞め、半年間無職をした。自由を得て幸せだと思っていたのに残ったのは不安だった。適応障害で辞めたのにじっとしていられなくて働かなきゃ、働かなきゃ、と焦りから転職活動をした。羽を伸ばすための無職が、仕事探しに追われる羽目になるとは思わなかった。
それから次の仕事を見つけ、一年働いた。部署が潰れ、私は居場所がなかった。異動した先ではなぜかお局に目をつけられ、もうここにはいられない、そう思ったとき、また適応障害になった。そして今はまた、無職だ。
また自由になってしまった。自由なのに、あまりパッとしないのはそれほどお金がないからだ。私が金持ちならきっとそれは開放感に溢れていたのだろうと思う。今はまた、薬を飲みながら狭いワンルームで本を読んだり勉強したり大人しく過ごしている。転職活動はまだしていない。前回の無職の時より貯金も少ないのに焦りがないのはいいことなのか、悪いことなのか、よくわからない。どこだったら長く働けるのだろう。何度か転職してようやく自分の向き不向きがわかってきたけれど、100%理想が叶う職場などない。みんな妥協してそれでも生きるために働いている。
Twitterのいつかの言葉を思い出す。今はちょっと休憩。期限付きの自由。働いても地獄で働かなくても地獄で、ままならない。金持ちでもなんでもない私は私を生かすためにいつかは働かないといけない。
FIREとか、宝くじとか、そういうのでない限り労働とは生きてる限り切っては切り離せなくて、だから働くことは生活の一部なのだと思う。労働に全てを握られたくはないから、今はちょっとだけ反抗期みたいなものだ。金が尽きる前に終わってくれたらいいけれど。
労働と適切な距離感で働けたらきっと生きるのもそんなに怖くないと思える気がする。理想論だとわかっている。
ままならなくても、生活はつづく。労働もつづく。