「豆腐屋」の諦念

神奈川近代文学館で小津安二郎展。

生活の活写とナンセンスユーモア。さくらももこ展以来頭に残っている両者の結びつきが小津にもある。

集合写真に写る小津は、どれも隅っこで猫背だった。背中を丸めて覗き込むように正面を見ている。代名詞のローアングルは、小津の視線そのものなのだと思った。

小さな日記帳に書かれた小さい文字。小さすぎると思ったが、別の人物の日記も同じように小さくて、この時代は一般的に豆のような字で記録を残すものだったのだろうか。単眼鏡で覗き込んでいる人が何人もいた。

兵役で休職期間があったが、体の不調を訴えては軍事演習を休み、国策映画の制作にあたっては、映写機の点検と称して海外映画を観る日々を送ったそう。方便は大事。

親交のある子役からの手紙の現物には、書き出しに「お国のために出兵できておめでとうございます」、締めに「私の父の分までお国の役に立ってください ばんさい」というような言葉。こういう精神性や言葉遣いが生き生きと意味を持っていたことがわかるものを見ると改めて面食らう。

『東京物語』は英訳されるとそのど直球さというか、衒いなく正面突破するタイトルがより際立つ。TOKYOのSTORYはすごい。大文字で中心を打ち出す気概は大事だと思った。

湘南の茅ヶ崎館という旅館でよく仲間と脚本を書いていたらしい。温泉、酒、朝寝、昼寝、句会、みたいな流れの中で脚本を練り上げていた。享楽的だが、社交や他の文化的活動との連関の中で初めて組み上がってくる仕事というのがおそらくあり、執筆を可能にする土壌を耕すという意味で、小津にとって欠かせない一連だったのだろう。生活の全体性の中で仕事を成り立たせるということについて自分も考えたい。

展示では、「豆腐屋に洋食は作れない」という「餅は餅屋」的な趣旨の小津の発言を再三取り上げていた。日本映画には日本映画でしか撮れないものがあり、アメリカ映画のようなものはどうしても撮れないのであり、しかしだからこそ日本映画は世界に通用するのだという信念を小津は強く持っていたようだ。さくらももこ展で、さくらももこが自分の性質を「仕方ない」と書いていたのを思い出す。自分はどうしようもなく自分であり、その自分がこうであることは「仕方ない」ことだ、という諦念。自分に少女漫画は描けないと悟り、エッセイ漫画へと舵を切ったさくらももこ。

できることをやるしかないし、やればいい。小津も、こういう「前向きな諦念」を持って創作をした人なのだと思う。

理想を設定し現在の自分を否定して変えようともがく自己啓発的なあり方ではなく、石のように硬く動かない自分の自分でしかない部分を徹底して認め、そこから展開される創造の可能性をとことん追求する「諦め」が自分独特の道を切り開くことに繋がるのだろうと思う。

いいなと思ったら応援しよう!