きたのこうへい
具体的な出来事とそれについて考えたこと
大谷翔平はつまらない。ただ真っ当に凄い。徹底的なベタ。葛藤が見えない。ただ大谷翔平として野球をして順当に大谷翔平を体現している。大谷翔平からはなにも学ぶべきことがない。なにも教訓を引き出せない。大谷翔平以外、大谷翔平からはなにも得られない。大谷翔平のポテンシャルとパワーとテクニックを素直に表現した結果、大谷翔平はただの凄さをすごい水準で示し続けている。 大谷翔平には画期性がない。ある分野において抜きん出るには、少なからず、その分野で「普通」とされているコードからのズレが必要
コインランドリーに洗濯物を取りに行った。信号を渡ってランドリーの前に来たところで、前を歩いていた小学校低学年くらいの女の子が小銭をバラバラと落とした。俺は百円玉を一枚拾った。直接、彼女の手に渡そうと思ったが、彼女がビニール袋に小銭を入れながら拾い続けているので、俺もそこに入れた。「すみません」とたどたどしく申し訳なさそうな声で言われた。整然とはしていないアスファルトの凸凹に、まだ小銭があるような気もした。けどなんとなく、完全に足を止めて一緒に拾うということができず、それ以上は
習作を書くときに考えていたことシリーズ。2作目の「光」について。 まず、この書き出しについて。「告白」で何かを書くという課題が発表された直後くらいに、職場でこのセリフのようなやり取りがあった。言葉尻はもちろん違うが、絵の具と対比して照明は重ねるほど白くなるというやり取りは一緒。新人の子に教える先輩の言葉を聞いていた。これがすごくいいモチーフだから小説のネタになるなとその時は思って、とりあえず少し書いてみることにした。 それで、告白の「白」は白だから、照明の白の話をしてもい
ドトール。注文をする女性。一度会計を済ませたが、ポイントカードを出し忘れたとかで、やり直しを求めている。カード決済なのでサインが必要になるなど、店員はややめんどくさそうだが女性は引き下がらない。手にはヴィトンのバッグがあった。 ドトールの地下階に席をとり、階段を上がってレジに向かう途中で、コーヒーを持ち階段を降りる老人とすれ違う。何か声をかけてもらっていたが、下を向いていたので気づくのが遅れ、割と普通の速度ですれ違うことになり、結果として老人は少しコーヒーをソーサーにこぼし
オードリーのオールナイトニッポン15周年記念の東京ドームライブに行った。 訳ありスタンド席ということで、どんな席なのかと思っていたら、エキサイティングシートのいちばん外野よりの席で、映画館のような椅子で足元もゆったりしており、アリーナ席とされるグラウンドの席もすぐそこで、なかなかいい席を引き当てたようだった。 開演前、フェンスにかけていたアウターを「演出の都合上」という理由で撤去するよう注意され、こんなファールゾーンのへりで演出もクソもないだろと思っていたら、オープニング
星野源と若林正恭の対談番組である、Netflix『LIGHT HOUSE』を観た。 オードリー若林は、体育会的な競争意識を生きていたのだと思う。それは他者と自分を比べるという苦しみ、自分の作品を自分の作品と比べるという苦しみを生んでいる。南海キャンディーズの山ちゃんが嫉妬をまだ燃料にしているという話もそうで、他者と同じトラックを走る中で他者を妬み、それをモチベーションにするというのは体育会的な発想だ。その意味で、山ちゃんは一貫して体育会的に突っ走れている人ということになる。
飽きるというのは、一種の自己防衛なのだと思う。それによって、のめり込みすぎるときに起こる自己破壊を防ぐ。自分はその反応が出やすいので、危ないゾーンに行く手前ですぐ引き返すように飽きる。 自分が学問に魅了されながらもその実践から逃げがちでもあるのは——つまり日々サボりがちであるのは——物事の本質への志向が自分を危うくするという本能的な恐れがブレーキをかけているからだと感じる。本質的なことの探求には、いまの「普通さ」を部分的にも壊す必要が出てくる。それを直感しているがために、そ
これからの創作の布石とするため、習作を書くときに何をどのように意図していたかをできる限り記録しておこうと思う。ということで、まずは1作目の「オートファジー」について。 ✳︎ まず、「告白」か「運命」というタイトルで何かを書けという課題が出たときに、「告白」の方が書きにくそうだなと思い、それならば修行のためにそれを書こうと、「告白」を選んだ。 それで、何を書こうかと考えていたときに、頭の中にずっと引っかかっていたことが思い出された。それは、親戚の集まりで母が言った一言であ
ことばの学校演習科課題:「告白」 「絵の具は色を混ぜると黒くなるけど、照明は色を重ねるほど白くなるんだよ」 それは正確には色っちゅうか明暗の話なんだけどね、とTさんは付け加えた。太陽が眩しくて白く見えるのと一緒、タバコ行ってくるね、帰ってくるまでに自分なりの紫を作ってみて、とTさんは居酒屋で料理を片っぱしから注文するみたいに言って、人工樹脂製のサンダルに足をかけながら、やはり居酒屋のトイレに入るみたいに換気扇のある厨房に消えていった。厨房で喫煙はご法度だと初出勤のとき店
ことばの学校演習科課題:「告白」 ごめんなさい。この前ゆうちゃんの家に遊びに行ったとき、うちから2時間って言ったけど、本当は1時間45分でした。ごめんなさい。 ゆうちゃんが時間を大事に考えてる人だということはわかっているつもりでした。けど、あのときはとっさに2時間と言ってしまいました。ぴったり1時間45分かというと確信がないのですが、1時間50分でないことはたしかです。 時間は世界そのものです。だからこれは世界そのものについての話だと思っています。人は一人ひとりがそれ
学問には「突き詰めたい真理」みたいな大目的があると思われているようで、「それは結局何がゴールなんですか」という質問をされることが最近立て続けにあり、知見それ自体を面白がるという学問の自己目的性についてもっと話した方がいいのかなと感じる。 相手のやっていることに対して「目的はなんですか」と訊くのは、至極真っ当な感覚ではある。そして学問には特にそういう目的志向性が想定されているらしい。とはいえ、なにか具体的なトピックについて話したときに、その面白さではなく目的に反応される時点で
サーファーの友人に誘われて、茅ヶ崎で行われた「横乗日本映画祭」に行った。サーフィン、スケボー、スノボーといった、板を使って体を横向きに移動するアクティビティを題材にした映像の祭典。 映画館には、「横乗り」に親しむ人たちが集まっているようで、「横」にも「乗り」にも縁遠いのは俺くらいだったと思う。唯一の横乗りは電車くらいだと、友人と笑って話した。 映画は3本上映され、そのどれもが「横乗り」の速度と技芸を存分に表現していた。どの作品でも登場人物が内面的なことを語る場面などは一つ
福井県立恐竜博物館に行くことになった。それにあたって、恐竜がなぜ人を惹きつけるかということを考えてみた。それは結果的に「生と死のナンセンス」について考えることになった。 ✳︎ 恐竜が一般的にロマンを持たれるのは、まずそれが太古の存在だということがあるだろう。そしてそれが今は存在し得ないスケールの生物だということ。それは宇宙の遥か遠くに巨大な星があることのロマンと通ずる。時間的、空間的な距離と巨大性。 遠くてデカイ。そのことのロマン。 恐竜の巨大な化石を生で見ることは、
羊文学は人と世界の、あるいは人と人の距離を歌おうとしている。どこか冷めている、その世界への眼差し方に特徴がある。 今回のツアーのタイトル “if i were an angel,”は、羊文学が天使のようだとよく形容されることを踏まえたものであるとライブ中に説明していた。 天使とはもちろん神話的な空想上の存在であり、非人間であり、われわれが生きる世界の外部からやってくるアクターである。 羊文学は、この世界の「外から」、この世界について歌っている。それはこの世界と距離をとっ
床屋で髪を切ってもらった。あまり形を変えるつもりがなかったので、速さが売りのチェーンの床屋で済ませることにした。1センチくらい短くしてもらい、量も減らしてもらった。 担当の理容師は自分より年下の男で、愛想がいいという感じではない。作業が始まると、その手つきからゆったりとした印象を受ける。客が入店したときに発する「いらっしゃいませ」もどこか間延びした口調で、回転率が重要であるだろう店のスタイルにはそぐわないマイペースさを発揮しているように見えた。 よく見ると、左耳にはピアス
『ちひろさん』を観た。孤独な人しか出てこない映画だった。みんながそれぞれの孤独を生きている。そういう人たちが、最も孤独である主人公のちひろを媒介にして一時を共有する。 ところで、孤独とはなんだろうか。以降の記述は、その問いに関する話になる。 ✳︎ ちひろは、誰にも心を開いていないがゆえに誰にでも開かれた存在になっている。ちひろは徹底的に他者を拒み、自己を閉ざし、秘密を持っている。それは作品の鑑賞者に対してさえも、である。背中の傷の詳細も、風俗の世界に足を踏み入れた動機も