大谷翔平は凄い
大谷翔平はつまらない。ただ真っ当に凄い。徹底的なベタ。葛藤が見えない。ただ大谷翔平として野球をして順当に大谷翔平を体現している。大谷翔平からはなにも学ぶべきことがない。なにも教訓を引き出せない。大谷翔平以外、大谷翔平からはなにも得られない。大谷翔平のポテンシャルとパワーとテクニックを素直に表現した結果、大谷翔平はただの凄さをすごい水準で示し続けている。
大谷翔平には画期性がない。ある分野において抜きん出るには、少なからず、その分野で「普通」とされているコードからのズレが必要なので、その点において画期性が出てしまうものだが、大谷翔平にはそれがない。パワーとスピードと確率が求められるメジャーリーグで、その求められる規範から一ミリもずれず、その規範において抜きん出た結果を出すという意味で、ただ真っ当に凄いということの純度が極まっている。画期性なしで突き抜けるという高階の画期性を実現している。
投打で活躍する大谷翔平。それは野球の最もオールドなあり方であり、それは分業が当たり前になった現代野球においては画期性を帯びるが、やはり野球にとっては何も新しさがない。新しさなしで、従来の価値観における最上級を叩き出すことで卓越を示すという点で、大谷翔平は誰にもできないことをやっていて、めちゃくちゃすごくて、めちゃくちゃつまらない。生きるヒントがない。
野球はゲームスポーツであり、身体を鍛え上げその限界を更新していくような記録競技ではない。だからオリンピック的ではない。腹が出ててもホームランを打てればいい。野球は非-アスリートのゲームだ。そしてだからこそ大衆化した。かつて、テレビ画面には「アスリート未満」の、観客自身の延長としての野球選手がいた。
腹の出た体で三冠王を取る落合博満は、市井の男性の分身だった。超越的ではない、自分と地続きの存在の躍動。それが大衆スポーツとしての野球だった。
それを変えたのはイチローだろう。イチローは「アスリート」として野球をやった。身体を研ぎ澄ますプロフェッショナリズムを前面に出し、カリスマ然として、アスリートとしてプレーする選手像を野球界にもたらした。
イチローは誰の分身にもならなかった。観客にとってイチローは圧倒的に「他なるもの」として、その独創性を体現していた。
会社帰りにちょっと寄ったというような気だるさで、「締まらない体」で、ヨッとホームランを打つ落合には粋があった。その姿こそが「プロ野球」だった。
しかし実際には、落合は手とバットがくっつくくらいバットを振っていたのであり、テレビを見ている自分の延長、分身かのような超越性のなさは幻想だった。だがその「大衆性の幻想」が、野球の大衆化を支えたはずだ。
大谷翔平に自分を投影できる人はいない。大谷翔平は誰にとっても圧倒的な他者だ。大谷翔平もまた、誰の分身でもない。その意味ではイチローと軌を一にする。しかし、イチローにはユーモアとアイロニーがあった。長打至上主義のメジャーリーグを嘲笑うように、内野安打を駆使したインフィールドの野球像を示した。最も守備力の低い選手にあてがわれるライトのポジションを外野の華にした。イチローは毎年苦しんでいた。葛藤の中で、ヒットを積み重ねていた。イチローの言葉には啓発性が宿った。イチローを冠する自己啓発本が数多出版された。イチローは相対的に小さく細い体で、アメリカのスケールの野球の抜け道を行き、唯一無二のスタイルとキャリアを築いた。
大谷翔平にはその必要がなかった。持ち前のデカい体と力と速度で、アメリカの求めるスケールに対応し、求めに最大限に応える形で、その独創性のなさの純度の高さで独創性を発揮している。
大谷翔平は身も蓋もない。凄さに味がない。栄養がない。励ましがない。透明に凄い。
大谷翔平は引き裂かれてもいる。野球における「時間」の問題において。投手の球がどんどん高速化し、キャッチャーに到達する時間を限りなくゼロに近づける「無時間」に向かっている現代野球において、「フライボール革命」よろしく、打者は球をかちあげて滞空時間の引き伸ばしに向かっている。投手は時間の極限の最小化を目指し、打者は時間の遅延に向かっている。一六〇キロの球を投げ五〇本のホームランを打つ大谷翔平は、時間に関する現代野球のその矛盾をひとりで抱えている。
球場で、ホームラン性の当たりを目で追う。その宙吊りの「時間」には、インプットとアウトプットのあわいに耽溺する、野球の芸術としての経験が詰まっている。束の間のサスペンスが、あの時間にある。大谷翔平は、その野球の芸術性を体現しながら殺そうとしている。フライをかち上げながら豪速球を投げている。大谷翔平は時間の番人であり殺し屋である。
大谷翔平は、ただまっすぐに矛盾している。アイロニーもユーモアもねじれもなく、表現が直交している。透明な矛盾。ストレートな両義。無味なアンビバレント。
大谷翔平は、凄くてつまらなくて本質的で、だからすごくおもしろい。