コロナ禍の最中に、小児歯科で母は泣いた
息子の歯医者さんへの付き添いは、常に気負わねばならなかった私がほんのちょっとだけ人に甘えられる、大切な時間だった。
闘病の末に奇跡的に授かった息子は、ドライヤーや掃除機の音を怖がって逃げまわり、手が汚れるのを嫌がってつかみ食べはせず、初めてのおもちゃは眉根を寄せて警戒心を露わにし、遠巻きに眺めるような神経質なところのある子どもだった。
歯医者に連れて行くのを想像するだけで、どんな事件が起きてしまうのかと私は戦々恐々だった。しかし、二歳を少し過ぎて、遅まきながら生えそろった上下二本ずつの無垢な歯を見るたび、何も与えてやれない非力な親だからこそ、せめてこのぐらいは守ってやらねばという思いが募った。
かねてからお世話になるのならここにしたい、と密かに思いを寄せていた小児歯科のWEBページをひらき、予約ページを確認する。
予約は二か月先まで埋まっており、全く空きがなかった。
うん、そうだろう。
私とてぜひともこちらにお世話になりたいと思うのだから、他の親御さんたちも等しくそうだろうよ──。
過敏で怖がりな子どもの歯医者さんデビューという一大イベントの難儀さを「予約いっぱいなので仕方ない」に偽装し、私はそっとスマホを閉じた。後ろめたさがあり、心は晴れなかった。
時を同じくして認可保育園への入園が決まり、二週間後には早くも慣らし保育に入ることになった。慌ただしく入園準備を進め、入園前の健康診断を受けた際にふと歯科検診のことが頭をよぎる。
いただいた園の献立表には、マフィンやらメロンパンやら今まで家で食べさせたことのないような魅惑の甘味が並んでいる。
「手作りおやつが多くて、子どもたちに人気なんですよ」といういかにもやさしげな笑顔の主任の先生の言葉も浮かんだ。
思うぞんぶん園での食事やおやつを楽しんでもらいたい。
やはり、本格的な園生活の前にフッ素を塗ってもらわねば──。
ダメもとで件の予約ページを開く。
なんと、翌日にぽんと一枠だけ空きがあった。
これはもう天啓だと思った。私は無心でフォームに手早く必要事項を入力し、画面を閉じた。当日のことを思うと処刑を待つ罪人のような気持ちだったが、意外にも心は晴れやかだった。
予約日当日。
今日これから出かけるところ、そこで何をするのかなどを話し、見通しをもたせると彼は神妙な面持ちで聞いていた。
できることはやった。
えーいままよ!
明るく清潔な院内では、笑顔の素敵な女性が受付で迎えてくれた。
息子は院内に入るなり強ばった顔して辺りを見回す。右手には黄色のフリース地のひざかけ、左手には精巧な消防車のミニカー。緊張感や不安の強い彼はご多分にもれず「ライナスの毛布」である。
擦りガラスの診察室のドアが開いて、キャッチ―な動物プリントのエプロンをした歯科衛生士さんがニコニコの笑顔で訪れ、彼の前にしゃがみ込んだ。
「かっこいいね! 車好き?」
何が起こるのかとびくびくしていた彼は、思いがけない一言に鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、それから、小さく頷いた。
「お姉さんにちょっと見せて」
分かってくれる、と確信を得た彼は得意顔で左手に持っていた消防車を突き出した。すると歯科衛生士さんが大げさなくらいに歓声をあげて喜んでくれる。
「あっちのお部屋のなかに、かっこいい電車も車もあるんだよ。一緒に見にかない?」
そう誘われた息子は満面の笑みで頷き、躊躇なく擦りガラスの向こうの未知の世界へと入っていく。
ぽい、と手にしていた黄色の安心毛布を手放して。
この間、わずか数分の出来事だった。
私はこだわりなく投げ出された毛布を慌ててリュックにしまいこみ、後を追った。
診察室のなかは子どもの気を引く仕掛けがあちこちにされており、歯科衛生士さんたちはもちろん、先生も優しげで穏やかで、作業を急がず子どもの気持ちに寄り添って関わってくださる。いたく感激した。
こうしてあれほど恐れた気難しい子どもの歯医者さんデビューは、プロフェッショナルたちによってスマートに導かれ、私は何もがんばる必要がなく無事に終えられた。
帰りしなにお礼を申し上げると、先生が微笑んでこう言ってくださった。
「お母さんは普段十分すぎるぐらいがんばっているんですから、ここは私たちに任せてくださいね」
不覚にも泣いた。
闘病を経て妊娠し、ひどいつわりを乗り越えてようやく安定期に入ったと思ったら同時にコロナ禍に叩き落され、厳戒ムードのなか大学病院で出産した。そのうえ、わたしたちはフリーランス・自営夫婦で私は収入の要だった。法人契約が多かった繊細な夫は相次ぐ仕事の喪失にだいぶ参っていたし、相当なメンタルタフネスの私も、見たことがない速さで減っていく預金通帳の残高と、経験したことのない難しい判断と選択の連続にさすがに疲弊していた。
コロナ禍の最中では、歯科医院も大変なご苦労があったことだろうと思う。それなのに、親にまで寄り添ってくださるなんて。
あれから息子と私は、だいたい三カ月ごとの検診に、定期的なフッ素塗布、はみがき指導に通っている。奥歯が揃ったころにはシーラントもしてもらった。おかげさまで今日に至るまで一本の虫歯もない。
先生や歯科衛生士さんとすっかり信頼関係の築けた彼は、今や臆することなく診察に入っていき、ひとりでころんとベッドに横になり、頭上のモニターで繰り広げられる古いアニメをじっと見て、大人しくしている。
その様子に、先生と歯科衛生士さんが「お兄さんになったね」と目じりを下げてくださる。まるで、遠縁の親戚のようなぬくさだ。
物心つく前から通いはじめ、しかも一度も嫌な思いのしたことのない彼は、「歯医者さん」になみなみならぬ信頼があるし、歯と口の健康意識がめちゃくちゃ高い。歯みがきやフロスを嫌がるようなことはなく、フッ素配合のはみがきジェルの使用も欠かさない。
先日、ぬりえの女の子イラストの口のなかが黒く塗られていた。
これはどういうことなのかと問うと、彼は神妙な面持ちで囁いた。
「歯みがきとふろすしていなかったから、虫歯になっちゃったんだよ」
ぬりえのファンシーなイラストのなかに再現された、非情なリアルに私は爆笑した。
「歯医者さんに行って、先生に治してもらわないとね」
そうしてピカピカの歯を持つ彼は、得意満面に笑うのだった。
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