判断の価値
たとえ話。
脳に異常がある人の判断、思考が論理的に整合性を持っていなかったり、存在していないものを見えると言っていた場合、
その人の判断、思考、視覚は、脳が正常な人にとって、どのような価値があるのだろうか。
「いやいや、あなたのその考えは、病気によるものですよ。その見えているものは病気による幻覚ですよ。さあ、だから落ち着いて。ゆっくり治していきましょうね。」
治しましょう。この発言は何故なされたのだろう。
そもそも、病気は何故治すものなのだろう。
ちょっとした怪我は何故治癒していくものなのだろう。
そして、心身が正常と言われる人と、心身が異常と言われる人がいるのだろう。
何故、僕はこんな二元論で語ってしまうのだろう。
これらの問いは全て、「生」に関係しているような気がする。
また、「社会」というものにも間接的に関係しているような。
話は飛んでしまうが、生きるというのは本能だ。…と思う。
本能に突き動かされて、人は生きるのだと思う。
理性に従って生きる人間はいるのだろうか。
もはや僕には、理性すら本能の奴隷にすら思えるのだが。
意志も本能に従属しているような。
そうしたら、本能すら「何か」の道具では?
まあそれはともかく、上のたとえ話に戻って。
所詮、人の判断は、生きるために好都合な判断でしかないのだということを示したかった。
心身の異常な人は、個人的な生活の範囲から、社会という範囲まで、生きるのに不都合だから、都合がよくなる水準まで治そうとする。
これは生きるということに価値を置いているから。