差別は悪なのか
昨今の社会問題に、差別という大きなジャンルがある。
それについて考えたことを、ただ適当に書こうと思う。
しかし、真面目に書くつもりはない。特に興味がないからだ。
差別は悪なんかじゃないと僕は思う。
こんなことを言えるのは僕は差別されたことがないし、日本がそれほど差別大国ではないからだろう。
しかし、なぜ多くの人は差別、
例えば、男女差別、人種差別、ほかのいろんな差別を厭うのだろうか。
それは、多くの人が弱者だからじゃないだろうか?
金もなければ、モテもしない。生活水準も平均よりちょい下。
こういう人はカーストの中では一番声がでかいように思える。
そうだ、差別がなぜ問題になるのかの理由に、
そもそも差別というものが表面化しやすい時代になったということが挙げられそうだ。
時は経るが、中世、ルネサンス期。活版印刷というものが生まれた。
世紀の大発明で、それは知識人以外にも多くの人たちに知識を届けることになった。
またその後の時代でも、宗教改革などが起こり、聖書の翻訳が行われ、多くの国の人にも聖書が読めるようになった。
これらがしているのは、簡単に言ってしまえば、思想の伝達だ。
人の考え、ある一つの文化的まとまりでの思想が、周囲のはるか遠くの人にまで届くようになった。
まあ、こんなことはもっと昔にも起きていたことだろうけど。
今や、もっと活発に情報の伝達が行われる時代だ。
そうなれば、世界各地の出来事、事件が誰にでも知れ渡る。
世界各地、いやもっと身近なことでも、差別というものが目に付く。
こうして、よく問題として取り上げられやすくなる。
加えて、いまやSNSなど、ソーシャルネットな時代だ。
誰でも、たやすく発言権が得られ、こんなしょうもない僕でさえ何でも書き込めてしまう。
しかし、ここに重要な点がある。
まず、世の中をよく見てもらいたい。さっき言ったように、金もそんなになく、それでいて生活水準は平均より低いけどまあ普通、大してモテない。
そんな人はどのくらいいるだろう。
まあすぐに、この世のほとんどだと気づくだろう。
そんな世の中には、嫉妬がはびこっている。
分かりやすい例。男女差別の被差別者は、女性。
女性は代々、男より弱い存在であるとさせられていた。力の差があるからだろうか。肉体的にも、精神的にも、感情的にも、表に出るにふさわしくないのだとされてきたのだろう。
それは、半分間違っているかもしれないが、半分実は真実かもしれない。
どうでもいいが僕は女性差別主義者ではない。
アメリカの黒人差別はどうか。
黒人は昔から奴隷とされてきた。アメリカ征服の時代からだろうか。
そして奴隷には奴隷の専用の居住区が設けられていたのだろう。
うむ。男女差別の例も人種差別の例も、とてつもなく不自由だ。
人間は不自由から自由を求めるという本能があることは自明である、だろう。自由から不自由を求める人もいるが、不自由に居続ける人はそうそういない。
その不自由を打破するために、人は何をするのだろうか。
結束する。
昔は権力者から、結束の自由を奪われていた。差別に抵抗することは許されなかった。
しかし、今の時代、公共の利益を害さなければ何でもできる。
だから、弱者の声は大きくなる。嫉妬、不満、不自由の反発が、合体し巨大となり、古い価値観と対等に渡り合えるようになった。
ところで、古い価値観と言って、それは即ち悪いものだ、と勝手に捉えてはいないだろうか?
そう思い込んでしまったなら、さっさとこの記事を閉じて帰ってくるな。
あなたに読む権利は与えられない。
古い価値観は元々新しい価値観であったのではないか。
確かに時代錯誤的な側面もあるが、現代にだって通用する価値観もある。
差別。男女差別、人種差別は確かに多くの人が苦しんできた。
しかし、それは差別する側、力を行使する側からは、なんの疑いもなく善とされてきたのだ。
この事実に目を向けなければならない。
差別問題。これは一方の面からは片付けられないのだ。
かわいそうだから、苦しんでいるからと言って簡単に片方の側にはついてられない。
差別がダメな根拠を人は何と言うだろうか。
人権の尊重、平等。
そんなものだってつい最近できたものだろう?
そんなものなぜ根拠にできる?そのイデオロギーは未来永劫まで続くと、誰が保障できる?
そもそもそんなもの弱者が自己保身のために作り出したものに過ぎない。
そうだ、僕が言いたかったことはこれだ。
差別という行為に、一方が善という価値を、もう一方が悪という価値をつけているだけではないのだろうか?
、ということだ。
そして僕がここまで書いてきたことは、この疑問の解決のためのヒントだ。
これは自分のためでもあり、読んだ人のためでもある。
いくらでも見返すといい。
アニメで人は敵を殺すシーンってよくありますね。人が鬼を殺すとか。
人にとっての天敵は容赦なく殺す、殺そうとするくせに、敵に殺されそうになると、必死にもがき、逃げようとする。
逆の立場になってみるといい。敵だって人に殺されたくないし、人を殺すという本能があるはずだ。
殺すっていう行為にも、双方からの真逆の意味付けがあるはずだ。
…。いろいろ書いてたら、わけわかんなくなってきた。
まあこんなこと考えなくても、人は幸せに生きられますが。