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カール・シュミット『政治的神学』試論①


はじめに

 以下ではカール・シュミット(Carl Schmitt, 1888-1985)の代表作である『政治的神学』(Politische Theologie, 1922)の読解を試みる。

カール・シュミット『政治的神学』

(カール・シュミット『政治的神学』初版、1992年、標題紙)

 本書は四つの章から成り立っており、最初の章は「主権性の定義」から始まる。最初に与えられた定義は、その後の論理展開の方向を決める役割を果たす。そのため、シュミットの主張が正当な評価を受け取るためには、最初に与えられた定義に問題がないかをよく吟味しておく必要がある。

主権者・例外状態・決定

Souverän ist, wer über den Ausnahmezustand entscheidet.
主権者とは、例外状態に対して決定する者である。

(Schmitt2021: 13、権左訳11頁)

我々がこの定義に従ってシュミットの主権性の概念を理解するためには、次の三つの事柄が明らかにされなければならない。 すなわち、第一に、シュミットにとって「主権者 Souverän」とは何者か、第二に、シュミットにとって「例外状態 Ausnahmezustand」とはいかなる状態か、第三に、シュミットにとって「決定する entscheidet」とはいかなる行為か。これらについて以下で検討していく。

(1)主権者

 シュミットは「主権者」についてどのように考えているのだろうか。

主権者が、極端な緊急事態は存在するのかについても決定し、緊急事態を除去するため、何をすべきかについても決定する。主権者は、通常の現行法秩序の外部に立ちながら、現行法秩序の内部に属する。というのも、彼には、憲法を全体として停止できるか否かを決定する権限があるからだ。

(権左訳13頁)

ここで「主権者」は「憲法を全体として停止できるか否かを決定する権限がある」とされているが、これは憲法を運用する権力と言い換えることができよう。この憲法を運用する力は、いわゆる憲法制定権力とは区別されねばならない。「主権者は、通常の現行法秩序の外部に立ちながら、現行法秩序の内部に属する」というのは、論理的には矛盾しているのではないか。主権者が「現行法秩序の外部に立つ」ということは、一体何を意味するのであろうか。それは、主権者が、現行法秩序を作り出しているところの憲法を、自らの対象として扱うことができ、主権者には「憲法を全体として停止できるか否かを決定する権限がある」ということを表現したものであろう。これに対して、主権者が「現行法秩序の内部に立つ」とは、一体何を意味するのだろうか。それはおそらく、主権者自身が憲法という現行法秩序の制度の枠内に存在するということであろう。だが、論理的に考えるならば、同一の者が外部に立ちながら同時に内部に立つことは不可能である。これはシュミット流のレトリックとして受け取るべきなのか、それとも憲法自身に内在する矛盾なのであろうか。

(2)例外状態

 シュミットは「例外状態」をどのような状態と考えているのだろうか。シュミットは「あらゆる非常権限が例外状態というわけではなく、あらゆる警察上の緊急措置や緊急命令が例外状態というわけではない」(権左訳20頁)と述べた上で、次のように続けている。

むしろ例外状態のためには、原理的に無制約な権限、すなわち現行秩序全体の停止が必要である。この例外状態が現れたならば、国家は存続するのに対し、法は後退するのは明らかである。例外状態とは、いつでも無政府状態や混沌とは全く別の物だから、法秩序は存在しないとしても、法学的意味では、相変わらず秩序は存在する。

(権左訳20頁)

シュミットは「例外状態」を「現行秩序全体の停止」の後に出来するものとして理解している。換言すれば、主権者が憲法を停止することによって生じる状態のことを、シュミットは「例外状態」と呼ぶのである。しかもこの「例外状態」は、「無政府状態や混沌とは全く別の物」だとされるのである。この「無政府状態や混沌」の状態を、社会契約論者が「自然状態」と呼ぶものと同一視するならば、社会状態が成立した後に自覚的に生じせしめる「例外状態」は、最初の自然状態とは異なるので、確かに「無政府状態や混沌」とは区別されねばならない。

(3)決定

 シュミットは「決定」についてどのように考えているのだろうか。

正しくない誤った決定にも法的作用が及ぶ。正しくない決定は、まさに正しくないがゆえに、全体を構成する契機を含んでいる。そもそも絶対的に宣言的な決定はありえないことが、決定の理念に含まれている。根底にある規範の内容から見れば、決定に特有のあの構成的な契機は新しい異質なものである。規範的に見れば、決定は無から生まれている。

(権左訳54頁)

シュミットは「決定」のうちに「全体を構成する契機」を見出している。規範とは、現行法秩序を生み出す憲法の存在を前提条件としているが、「決定」とはそもそもそのような前提条件を停止してしまうのであるから、停止した秩序の中で行使された「決定」には、規範そのものを問い直すことが許容されることになろう。

限界概念としての主権性概念

Diese Definition kann dem Begriff der Souveränität als einem Grenzbegriff allein gerecht werden. Denn Grenzbegriff bedeutet nicht einen konfusen Begriff, wie in der unsaubern Terminologie populärer Literatur, sondern einen Begriff der äußersten Sphäre. Dem entspricht es, daß seine Definition nicht anknüpfen kann an den Normalfall, sondern an einen Grenzfall.
この定義によってのみ、主権性の概念を限界概念として正当に評価することができる。というのは、限界概念とは、通俗的文献で使用される粗雑な用語のように、曖昧な概念ではなく、極限領域の概念を意味するからである。主権概念の定義が、通常の事例ではなく、限界事例を引き合いに出せるのは、これに対応している。

(Schmitt2021: 13、権左訳11頁)

ここでなぜシュミットが「主権性 Souveränität」の概念を「限界概念 Grenzbegriff」から捉えようとするのかといえば、概念は「限界」においてこそ明晰判明に示されるとシュミットが考えているからであろう。この場合、「限界」とは物事の境界線のことを指しているのであって、だからこそ「極限領域の概念 einen Begriff der äußersten Sphäre」だと言われているのである。
 シュミットは自らの研究が「通俗的文献 populärer Literatur」とは一線を画していることを示唆するが、この「通俗的文献」とは具体的に何を念頭に置いているのだろうか。この「通俗的」という訳語は、例えば「ドイツ通俗哲学」が「Deutsche Populärphilosophie」の訳語として通用しているように、誤りではないものの、その場合の「通俗的 populärer」とは一体何かという問題が残る。というのも、「通俗的 populärer」には「世間一般の人々にわかりやすいもの」という意味が含まれているが、しかしこの「通俗的文献」のうちに、例えば、ジャン・ボダン(Jean Bodin, 1529/30-1596)の『国家論六巻』(Les six livres de la Republique, 1576)のような著作が含まれているとすれば、はたしてボダンの著作が「通俗的」かどうか、つまり「世間一般の人々にわかりやすいもの」と言えるかどうかははなはだ疑問であるからだ。
 では、そのボダンはどのような主権性の概念を提唱しているのであろうか。

ジャン・ボダン『国家論六巻』(1576年)

主権性とは、共和国における絶対的かつ永続的な権力のことである。それをラテン語では majestas(威厳)、ギリシャ語では ἄκραν ἐξγουσὶαν(至高の権威)、κυρίαν ἁρκὴν(支配的な権力)、または κύριον πολίτευμα(支配的な政体)と呼び、イタリア語では segnoria(主権)と表現する。この言葉は個人や、共和国のあらゆる国家事務を管理する人々にも用いられる。ヘブライ語では tomadchavet(統治の力)、つまり最大の指揮権を意味する。この場で主権の定義を定める必要があるのは、法学者や政治哲学者の誰もこれを定義していないからである。主権こそが共和国論を理解する上で最も重要で必要不可欠なポイントであるにもかかわらず。

(Bodin1576: 125)

シュミットが「今日、ボダンのいつもの引用がなされない主権概念の議論はほぼ存在しない Es gibt heute kaum eine Erörterung des Souveränitätsbegriffes, in der nicht die übliche Zitierung Bodins vorkäme.」(Schmitt2021: 15、権左訳15頁)と述べているところから、ボダンの著作それ自体ではなく、ボダンの主権論を引用している文献のことをシュミットは「通俗的文献 populärer Literatur」だと述べているように思われる。そしてこの「通俗的文献」の欠陥を、シュミットは次のように指摘している。

Es gibt einige geschichtliche Darstellungen der Entwicklung des Souveränitätsbegriffes. Doch begnügen sie sich mit der Zusammenstellung der letzten abstrakten Formeln, in denen lehrbuchartig, abfragbar, die Definitionen der Souveränität enthalten sind. Keiner scheint sich die Mühe gegeben zu haben, die endlos wiederholte, völlig leere Redensart von der höchsten Macht bei den berühmten Autoren des Souveränitätsbegriffes genauer zu untersuchen. Daß dieser Begriff sich an dem kritischen, das heißt dem Ausnahmefall orientiert, tritt schon bei Bodin hervor.
主権性概念の発展の歴史的記述はいくつか存在するが、それらは、教科書式、試験形式に主権性の定義を含んでいる究極の抽象的な定式の寄せ集めで満足している。誰一人、最高権力という、果てしなく繰り返される・全く空虚な慣用句を、主権性概念についての有名な著者たちに即して厳密に研究しようと努力しなかったように思われる。この概念が、危機的事例、すなわち例外事例に対応していることは、既にボダンにおいて明らかである。

(Schmitt2021: 14-15、権左訳14頁)

ここで「有名な著者たち berühmten Autoren」は複数形であるから、そこにはボダン以外の学者も含まれるであろうが、少なくともシュミットが掲げる主権性概念の定義における「例外状態 Ausnahmezustand」という想定は、決して突飛な発想なのではなく、その議論の初めから既に常に備わっている本来的な概念だというのである。

国家の普遍的概念としての例外状態

Daß hier unter Ausnahmezustand ein allgemeiner Begriff der Staatslehre zu verstehen ist, nicht irgendeine Notverordnung oder jeder Belagerungszustand, wird sich aus dem Folgenden ergeben. Daß der Ausnahmezustand im eminenten Sinne für die juristische Definition der Souveränität geeignet ist, hat einen systematischen, rechtslogischen Grund. Die Entscheidung über die Ausnahme ist nämlich im eminenten Sinne Entscheidung. Denn eine generelle Norm, wie sie der normal geltende Rechtssatz darstellt, kann eine absolute Ausnahme niemals erfassen und daher auch die Entscheidung, daß ein echter Ausnahmefall gegeben ist, nicht restlos begründen.
ここで、例外状態とは、何らかの緊急命令や戒厳状態ではなく、国家論の普遍的概念として理解しなければならないことは、以下に述べることから明らかになるだろう。例外状態が、際立った意味で主権の法学的定義に適しているのには、体系的で法論理的な理由がある。すなわち、例外状態に対する決定は、際立った意味で決定なのだ。というのは、通常の現行法規が表明する一般的規範は、完全な例外を決して捉えることができず、したがって、真の例外事例が存在するという決定を完全に根拠付けることもできないからだ。

(Schmitt2021: 13、権左訳11〜12頁)

ここでシュミットが「例外状態とは、何らかの緊急命令や戒厳状態ではない nicht irgendeine Notverordnung oder jeder Belagerungszustand」と述べているのは、「緊急命令 Notverordnung」や「戒厳(合囲)状態 Belagerungszustand」こそが「例外状態」の代表的な事例として最も容易に想起されうるからであろう。例えば、ドイツには「戒厳(合囲)状態に関する法律 Gesetz über den Belagerungszustand」(1851)があり、これは「ドイツライヒ憲法 Die Verfassung des Deutschen Reichs」通称「ヴァイマル憲法 Weimarer Verfassung」の第48条に引き継がれたが、これは国会の事前の同意なしに大統領が緊急命令を発布することができる権限を認めていたものとされ、つまりそこには「大統領緊急令」と呼ばれる国家緊急権が規定されていた。だが、シュミットのいう「例外状態」は、そのような表象とは異なっていることになる。シュミットは「例外状態」を「際立った意味で im eminenten Sinne」の観点から説明しているが、これは先の「限界概念 Grenzbegriff」の観点から述べられたものであろう。というのは、「限界概念」が「最も外側の領域の概念 einen Begriff der äußersten Sphäre」であるがゆえに、その境界線上において曖昧ではなく最も明晰判明に示されるとシュミットが考えるからである。さらにシュミットは「ここで例外状態とは、国家論の普遍的概念として理解しなければならない」と述べているが、この「国家論の普遍的概念 allgemeiner Begriff」を「通常の現行法規が表明する一般的規範 generelle Norm」と混同してはならない。「一般的規範」から外れたものを「例外」というのだから、「通常の現行法規が表明する一般的規範は、完全な例外を決して捉えることができず、したがって、真の例外事例が存在するという決定を完全に根拠付けることもできない」というのは論理的に正しい。これに対して「国家の普遍的概念」は、それを抜きにしては「通常の現行法規が表明する一般的規範」がそもそも構成されえないような、規範に先行する土台であり前提条件である。

(続)

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