カール・シュミット『政治的神学』試論①
はじめに
以下ではカール・シュミット(Carl Schmitt, 1888-1985)の代表作である『政治的神学』(Politische Theologie, 1922)の読解を試みる。
カール・シュミット『政治的神学』
本書は四つの章から成り立っており、最初の章は「主権性の定義」から始まる。最初に与えられた定義は、その後の論理展開の方向を決める役割を果たす。そのため、シュミットの主張が正当な評価を受け取るためには、最初に与えられた定義に問題がないかをよく吟味しておく必要がある。
主権者・例外状態・決定
我々がこの定義に従ってシュミットの主権性の概念を理解するためには、次の三つの事柄が明らかにされなければならない。 すなわち、第一に、シュミットにとって「主権者 Souverän」とは何者か、第二に、シュミットにとって「例外状態 Ausnahmezustand」とはいかなる状態か、第三に、シュミットにとって「決定する entscheidet」とはいかなる行為か。これらについて以下で検討していく。
(1)主権者
シュミットは「主権者」についてどのように考えているのだろうか。
ここで「主権者」は「憲法を全体として停止できるか否かを決定する権限がある」とされているが、これは憲法を運用する権力と言い換えることができよう。この憲法を運用する力は、いわゆる憲法制定権力とは区別されねばならない。「主権者は、通常の現行法秩序の外部に立ちながら、現行法秩序の内部に属する」というのは、論理的には矛盾しているのではないか。主権者が「現行法秩序の外部に立つ」ということは、一体何を意味するのであろうか。それは、主権者が、現行法秩序を作り出しているところの憲法を、自らの対象として扱うことができ、主権者には「憲法を全体として停止できるか否かを決定する権限がある」ということを表現したものであろう。これに対して、主権者が「現行法秩序の内部に立つ」とは、一体何を意味するのだろうか。それはおそらく、主権者自身が憲法という現行法秩序の制度の枠内に存在するということであろう。だが、論理的に考えるならば、同一の者が外部に立ちながら同時に内部に立つことは不可能である。これはシュミット流のレトリックとして受け取るべきなのか、それとも憲法自身に内在する矛盾なのであろうか。
(2)例外状態
シュミットは「例外状態」をどのような状態と考えているのだろうか。シュミットは「あらゆる非常権限が例外状態というわけではなく、あらゆる警察上の緊急措置や緊急命令が例外状態というわけではない」(権左訳20頁)と述べた上で、次のように続けている。
シュミットは「例外状態」を「現行秩序全体の停止」の後に出来するものとして理解している。換言すれば、主権者が憲法を停止することによって生じる状態のことを、シュミットは「例外状態」と呼ぶのである。しかもこの「例外状態」は、「無政府状態や混沌とは全く別の物」だとされるのである。この「無政府状態や混沌」の状態を、社会契約論者が「自然状態」と呼ぶものと同一視するならば、社会状態が成立した後に自覚的に生じせしめる「例外状態」は、最初の自然状態とは異なるので、確かに「無政府状態や混沌」とは区別されねばならない。
(3)決定
シュミットは「決定」についてどのように考えているのだろうか。
シュミットは「決定」のうちに「全体を構成する契機」を見出している。規範とは、現行法秩序を生み出す憲法の存在を前提条件としているが、「決定」とはそもそもそのような前提条件を停止してしまうのであるから、停止した秩序の中で行使された「決定」には、規範そのものを問い直すことが許容されることになろう。
限界概念としての主権性概念
ここでなぜシュミットが「主権性 Souveränität」の概念を「限界概念 Grenzbegriff」から捉えようとするのかといえば、概念は「限界」においてこそ明晰判明に示されるとシュミットが考えているからであろう。この場合、「限界」とは物事の境界線のことを指しているのであって、だからこそ「極限領域の概念 einen Begriff der äußersten Sphäre」だと言われているのである。
シュミットは自らの研究が「通俗的文献 populärer Literatur」とは一線を画していることを示唆するが、この「通俗的文献」とは具体的に何を念頭に置いているのだろうか。この「通俗的」という訳語は、例えば「ドイツ通俗哲学」が「Deutsche Populärphilosophie」の訳語として通用しているように、誤りではないものの、その場合の「通俗的 populärer」とは一体何かという問題が残る。というのも、「通俗的 populärer」には「世間一般の人々にわかりやすいもの」という意味が含まれているが、しかしこの「通俗的文献」のうちに、例えば、ジャン・ボダン(Jean Bodin, 1529/30-1596)の『国家論六巻』(Les six livres de la Republique, 1576)のような著作が含まれているとすれば、はたしてボダンの著作が「通俗的」かどうか、つまり「世間一般の人々にわかりやすいもの」と言えるかどうかははなはだ疑問であるからだ。
では、そのボダンはどのような主権性の概念を提唱しているのであろうか。
シュミットが「今日、ボダンのいつもの引用がなされない主権概念の議論はほぼ存在しない Es gibt heute kaum eine Erörterung des Souveränitätsbegriffes, in der nicht die übliche Zitierung Bodins vorkäme.」(Schmitt2021: 15、権左訳15頁)と述べているところから、ボダンの著作それ自体ではなく、ボダンの主権論を引用している文献のことをシュミットは「通俗的文献 populärer Literatur」だと述べているように思われる。そしてこの「通俗的文献」の欠陥を、シュミットは次のように指摘している。
ここで「有名な著者たち berühmten Autoren」は複数形であるから、そこにはボダン以外の学者も含まれるであろうが、少なくともシュミットが掲げる主権性概念の定義における「例外状態 Ausnahmezustand」という想定は、決して突飛な発想なのではなく、その議論の初めから既に常に備わっている本来的な概念だというのである。
国家の普遍的概念としての例外状態
ここでシュミットが「例外状態とは、何らかの緊急命令や戒厳状態ではない nicht irgendeine Notverordnung oder jeder Belagerungszustand」と述べているのは、「緊急命令 Notverordnung」や「戒厳(合囲)状態 Belagerungszustand」こそが「例外状態」の代表的な事例として最も容易に想起されうるからであろう。例えば、ドイツには「戒厳(合囲)状態に関する法律 Gesetz über den Belagerungszustand」(1851)があり、これは「ドイツライヒ憲法 Die Verfassung des Deutschen Reichs」通称「ヴァイマル憲法 Weimarer Verfassung」の第48条に引き継がれたが、これは国会の事前の同意なしに大統領が緊急命令を発布することができる権限を認めていたものとされ、つまりそこには「大統領緊急令」と呼ばれる国家緊急権が規定されていた。だが、シュミットのいう「例外状態」は、そのような表象とは異なっていることになる。シュミットは「例外状態」を「際立った意味で im eminenten Sinne」の観点から説明しているが、これは先の「限界概念 Grenzbegriff」の観点から述べられたものであろう。というのは、「限界概念」が「最も外側の領域の概念 einen Begriff der äußersten Sphäre」であるがゆえに、その境界線上において曖昧ではなく最も明晰判明に示されるとシュミットが考えるからである。さらにシュミットは「ここで例外状態とは、国家論の普遍的概念として理解しなければならない」と述べているが、この「国家論の普遍的概念 allgemeiner Begriff」を「通常の現行法規が表明する一般的規範 generelle Norm」と混同してはならない。「一般的規範」から外れたものを「例外」というのだから、「通常の現行法規が表明する一般的規範は、完全な例外を決して捉えることができず、したがって、真の例外事例が存在するという決定を完全に根拠付けることもできない」というのは論理的に正しい。これに対して「国家の普遍的概念」は、それを抜きにしては「通常の現行法規が表明する一般的規範」がそもそも構成されえないような、規範に先行する土台であり前提条件である。
(続)
文献
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