ヘーゲル『法の哲学』試論—「対外主権性」篇
はじめに
以下では,ヘーゲル『法の哲学』第3部「人倫」第3章「国家」A「国内法」II「対外主権性」を取り扱う.
ヘーゲル『法の哲学』第3部「人倫」第3章「国家」(承前)
対外主権性における個体性
最初の一文が「対内主権性 Souverainetät nach Innen」(第278節)の振り返りであるのに対して,「しかし Aber」以下の文章は「対外主権性」(Souverainetät gegen Aussen)*1について述べたものだといえる.「このような観念性 diese Idealität」については第276節にも詳しい.
ここでは「対-自-存在」「排他的」「個体性」といった語によって「対外主権性」が特徴づけられている.要するに,「対内主権性」では君主権や統治権や立法権などの詳細な諸々の区別が展開されていったが,「対外主権性」の場面ではそれらの区別が一括りにされて,ひとつの自立的な個として登場するのである.
さらにヘーゲルは「必然性 Nothwendigkeit」と「自由 Freiheit」という言葉を用いている.すなわち「対内主権性」は君主権や統治権や立法権といった契機は論理必然的に展開されたが,「対外主権性」は自立した個として存在するがゆえに,同様に他の自立した個として存在する他国に対して「自由」に振る舞うことができるのである.
ここで参照指示されている第279節を見ると,そこには「君主 Monarch」が登場する.したがって,上で「現実的で,直接的な個体」と呼ばれているのは具体的には「君主」のことである.「君主」が「現実的で,直接的な個体」と言われる所以は,彼が国民から恣意的に選ばれた存在ではなく,直系の継嗣として「主権者」の身分をその生まれから自然な肉体によって体現する存在であるからである.
国家関係における自立性と統合の問題
概ね前節と同様の内容であるが,前節では国家がまさに「排他的な対-自-存在としての個体性」であることが示されたのに対して,ここではそうした一つの自立した個としての国家が「他の諸国家との関係 Verhältniß zu andern Staaten」においても同様であることが示されている.
しかし,一つの国家が個体として自立しているということは,ある意味で厄介な問題を孕んでいる.というのも,それによって諸国家の統合というのは容易ならざるものとなり得るからである.この点については,同節注解で言及されている.
要するにドイツの諸邦はそれぞれに独立した中心点を持っているのだから,それらの個々に独立した中心点を捨ててひとつの全体を成そうとすれば,それは中心点を失うと同時に自立性の側面をも失ってしまうことになるのである.しかしながら,個体としての自立性なくして対外主権性もまたあり得ないのである.(ちなみにここで後半の国家の「原初の現象」すなわち国家の樹立に関する議論については,本書C「世界史」の第394節以下で詳しく述べられているので割愛する.)
坂本清子は当時のドイツの状況について次のように述べている.
ヘーゲルの時代にはドイツの諸邦はまだ統一されておらず,実際のドイツ統一が成し遂げられるのはもっと後のことであった.1870年の普仏戦争を経て,1871年のドイツ帝国の成立をゴールとするならば,ヘーゲルの時代はまだまだナショナリズム運動の黎明期に差し掛かった頃である.フィヒテの講演『ドイツ国民に告ぐ』(1807-08年)はその先駆けであり,さらに1815年に結成された学生の結社ブルシェンシャフトは自由主義とナショナリズムを主張したが,1819年にブルシェンシャフトの急進派であったカール・ザントが保守派のコッツェブーを殺害した事件により,カールスバード決議をもってブルシェンシャフトは徹底的に弾圧されることになる.こうした過激な事件のこともあるから,ヘーゲルとブルシェンシャフトとの関わりを描くことは微妙に難しいが,概ねヘーゲルはブルシェンシャフト運動には強い関心を持っていたとされる.
先の諸国家の統一の困難さについて語るヘーゲルにとって,それを目指すブルシェンシャフトは,ともすればその困難さを埋め合わせるほどの熱量を持った無視できない存在だったのではないかと思われる.
国家の自己に対する否定的連関
国家は一つの国家だけで成立しているのではなく,つねに他の諸外国との関係において存在する.これは国家関係の外部性とでも言えば良いだろうか.そして他の諸外国の動向は,一国にとっては常に偶然的な出来事として対峙しなければならない.そして戦争では国家の存亡を賭けて国民は文字通り命懸けで戦わねばならぬ時がある.そのような極限状態では,普段は国家によって保護されているような個人や集団,「生命・所有およびその権利」は「無 Nichtigkeit」に帰する.ここで「絶対的な威力」とは,要するに国民に対して「国家のために死ね」と要請できる権力のことである.このようにして国家の実体は「絶対的な威力」としては,個人や集団のような実存よりも,自立的な個体としての国家という理念的なあり方を重要視する.そのため,個体としての国家の存立が危機に瀕するような時には,個人や集団の実存は蔑ろにされてしまうのである.
ここでは国家の否定的な側面が取り上げられているが,これに対して国家の肯定的な側面については次節で述べられている.
肯定的なものとしての国家の独立性と主権性
「個々人の利益と権利が消滅する一契機として定立される」という事態は,一見すると否定的なものであるように思われるが,ヘーゲルはこの契機を弁証法的に「肯定的なもの」と見る.というのも,「個々人の利益と権利」が「消滅する」ことによって,かえって「国家の独立性と主権性」という「実体的個体性」が保持されるからである.むろん個々人が国家に対してこのように屈服するような関係に対しては個々人側からの反発を招くことが当然予測される.だが,まさに国家に対する個々人のそうした反抗的な事態をヘーゲルが想定しているからこそ,国家と個々人との関係を「承認すること Anerekennung」が個々人にとっての「実体的義務」だとヘーゲルは説くのである.本節注解で述べられるように,こうした理論の背景にあるのは戦争である.
(つづく)
注
*1: ここでヘーゲルはタイトルを„Souverainetät nach Außen“ではなく„Souverainetät gegen Außen“としている.ただし別の箇所では「対外〔主権性〕 die nach Außen s.」(第278節注解)と述べている.
文献
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?