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マルクス『資本論』試論③
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荒川幸也「マルクス『資本論』試論③」(researchmap)
ジョン・ロックにおける「自然的価値」
マルクスは『資本論』の註で,社会契約論者の一人で『統治二論』の著者として有名な哲学者ジョン・ロック(John Locke, 1632–1704)の『利子引き下げと貨幣価値引き上げの諸結果に関する若干の諸考察』(Some Considerations of the Consequences of the Lowering of Interest, and Raising the Value of Money, 1691)から引用している.ロックは貨幣論に関しては先に見たニコラス・バーボンの論敵であるから,マルクスは『資本論』を執筆するにあたって両者の議論を追ったことが伺える.
(1)ドイツ語初版
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⁴)「ある物の自然的価値〔natural worth〕は,人間的生活の諸々の必要性を満足させるか便益に役立つかするその適性にある.」(ジョン・ロック『利子引き下げ〔と貨幣価値引き上げ〕の諸結果に関する若干の諸考察』1691年,『著作集』ロンドン,1777年,Vol. 2. p. 28)17世紀にはまだしばしばイングランドの著述家たちのあいだでは「Worth」を使用価値,「Value」を交換価値の意味に用いているのが見いだされるのであるが,それは,まったく,直接的な事柄をゲルマン語派で表現し,反省された事柄をロマンス語派で表現することを好む言語の精神にある.
(2)ドイツ語第二版
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⁴)「ある物の自然的価値〔natural worth〕は,人間的生活の諸々の必要性を満足させるか便益に役立つかするその適性にある.」(ジョン・ロック『利子引き下げ〔と貨幣価値引き上げ〕の諸結果に関する若干の諸考察』1691年,『著作集』ロンドン,1777年,Vol. 2. p. 28).17世紀にはまだしばしばイングランドの著述家たちのあいだでは「Worth」を使用価値,「Value」を交換価値の意味に用いているのが見いだされるのであるが,それは,まったく,直接的な事柄をゲルマン語派で表現し,反省された事柄をロマンス語派で表現することを好む言語の精神にある.
(3)フランス語版
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1.「ある物の自然的価値〔valeur naturelle〕は,人間的生活の諸欲求を満足させるか便益に役立つかするその特性にある.」ジョン・ロック『利子引き下げの結果の諸考察』1691年.17世紀にはまだしばしばイングランドの著述家たちのあいだでは「Worth」という言葉を使用価値,「Value」という言葉を交換価値の意味に用いているのが見いだされるのであるが,それは,直接的な事柄をゲルマン語派で,反省的な事柄をロマンス語派で表現することを好む言語の精神に倣うものである.
(4)ドイツ語第三版
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⁴)「ある物の自然的価値〔natural worth〕は,人間的生活の諸々の必要性を満足させるか便益に役立つかするその適性にある.」(ジョン・ロック『利子引き下げ〔と貨幣価値引き上げ〕の諸結果に関する若干の諸考察』1691年,『著作集』ロンドン,1777年,Vol. 2. p. 28).17世紀にはまだしばしばイングランドの著述家たちのあいだでは「Worth」を使用価値,「Value」を交換価値の意味に用いているのが見いだされるのであるが,それは,まったく,直接的な事柄をゲルマン語派で表現し,反省された事柄をロマンス語派で表現することを好む言語の精神にある.
ここでマルクスはロックの「自然的価値 natural worth」に関する一節だけを引用しているが,実は後続の一節の中でロックはもう一つの「自然的価値 natural value」についても述べている(ロックのこの論文について詳しくは種瀬1951を参照されたい).
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一,ある物の内在的,自然的価値〔intrinsick, natural worth〕は,人間生活の諸々の必要性を満足させるか便益に役立つかするその適性にある.それが我々の生存に必要であればあるほど,またそれが我々の福祉に貢献すればするほど,その事物の価値〔worth〕はいっそう大きい.しかし,
二,ある物の当該量をつねに他の事物の当該量の価値にするような,内在的,自然的に固着の価値〔intrinsick, natural settled value〕はどんな物にも存在しない.
ここでロックは二つの概念を提示している.一つが物の「内在的な,自然的な価値 worth」であり,もう一つが物の「内在的,自然的に固着の価値 value」である.マルクスの整理に従えば,前者は「使用価値」の意味で「Worth」が用いられており,後者は「交換価値」の意味で「Value」が用いられている.ドイツ語の「使用価値 Gebrauchswerth」と「交換価値 Tauschwerth」は,どちらもドイツ語では「Werth」という共通の言葉で表現されているが,ロックは「Worth」と「Value」とをそれぞれ概念上区別して用いているというわけである.その点で,フランス語版『資本論』においてロックの「The natural worth」が「la valeur naturelle」と訳出されているのは翻訳としては完全に失敗している.
なおここでマルクスは17世紀の「イングランドの著述家たち」の代表者としてロックを取り上げているが,そこにバーボンが含まれるかどうかは明らかではない.なぜなら,バーボンは「価値(Value)とは,諸物の価格(Price)と解されるべきである.つまりそれは,どんな物も売却されるほどの価値(worth)があるということである.」(ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』ロンドン,1696年)と述べているからだ.つまり,バーボンの場合は,「交換価値」に該当する「Value」を「Worth」の概念から説明している点で,両者の区別が曖昧になっているのであり,しかもマルクス自身が指摘しているようにバーボンは「使用価値」に関しては「内在的効力 intrinsick vertue」という言葉で表現しているからである.
「Worth」と「Value」の語源学——ゲルマン語派とロマンス語派
ところで「ゲルマン語派 germanisch」と「ロマンス語派 romanisch」という区別についてマルクスが述べていることを,我々は一体どのように理解したら良いのだろうか.
この点を理解すべく,以下でわれわれは「Worth」と「Value」の語源について探ってみたい(以下の語源については「Wiktionary」各国語版の記述を参考にしている).
(1)「Worth」の語源
worth の語源
中英語 worth 又は wurth < 古英語 weorþ < ゲルマン祖語 *werþaz
まず「Worth」の語源を辿ると,古くはインド・ヨーロッパ祖語(Proto‐Indo‐European, PIE)において*wert-(「向かって,転じて to turn」の意)という表記が再建され,これから派生したとされる前ゲルマン祖語(Pre-Proto-Germanic, Pre-PGmc)の*wértosが再建され,さらにこれから派生したゲルマン祖語(Proto-Germanic, PGmc)の*werþaz(形容詞「価値ある worthy, valuable」の意)が再建されている.これが低地ドイツ語ではweert(形容詞)や,ドイツ語では-wert, Wertとなったのである.一方,古英語(Old English,450年ごろから1150年ごろまで)ではweorþとなり,中英語(Middle English,1066年から15世紀後半ごろまで)でようやくworthへと至った.
(2)「Value」の語源
次に「Value」の語源を辿ると,古くはインド・ヨーロッパ祖語の*walh₂-(「強くある to be strong」の意)という表記が再建され,これからラテン語のvalere(valeoの現在能動不定詞,「強くある,価値がある to be strong, be worth」の意)となり,そこから古フランス語(ancien français, Old French)のvalue(valoirの過去分詞の女性形)となり,中英語においてvalew, valueへと至った.
(3)ロマンス語派
ロマンス語派とは何であるか.
ラテン語の口語である俗ラテン語(sermo vulgaris, Vulgar Latin)に起源を持つ言語の総称をロマンス諸語(Linguae Romanicae, Romance languages)という.
ラテン語とはインド・ヨーロッパ語族のイタリック語派に属し,最初はラチウム地方だけで話されていたがローマの発展とともにその国語としてヨーロッパとその周辺に広まった.紀元前1世紀には洗練された文章語をもつ古典ラテン語ができて中世,近世の学術語およびローマ教会の典礼用語としてヨーロッパ文化の中心的言語となった.一方で民衆が使うラテン語は俗ラテン語(Vulgar Latin)と呼ばれ,それが地方色を帯びて分岐して今日のロマンス語諸語(フランス語,イタリア語,スペイン語など)となった.
現在,ロマンス語とされるものには,国家単位として,フランス語(F)・スペイン語(S)・ポルトガル語(P)・イタリア語(I)・ルーマニア語(R)がある.これらのロマンス語は,各ロマンス語で多くの共通する点が見られるが,系統的には,イタリアにおけるラ・スペツィア=リミニ線(Linea La Spazia-Rimini)で示される北西と南東部分で二分し,北西に当たる北イタリア諸方言・フランス・スペイン・ポルトガルを西ロマンス語,南東に当たる中南イタリア諸方言・ルーマニアを東ロマンス語と大きく分けることが可能である.この西ロマンス語に属するフランス語語彙が,1066年のノルマン・コンクエスト(The Norman Conquest of England)を期に,古英語の中に大量に流入していくわけであるが,この流入したフランス語にはもともとゲルマン語起源とする語彙も含まれていることになる.
以上の点を踏まえると,ロックに代表されるような17世紀のイングランドの著述家たちが持っている「言語」観では,ゲルマン祖語をその語源とする「worth」によって「直接的な事柄」を表現し,古フランス語をその語源とする「value」によって「反省された事柄」を表現することを好んだことになる.
では「直接的な事柄 unmitterbar Sache」と「反省された事柄 reflektirte Sache」を表現するにあたって,ゲルマン語派の言葉とロマンス語派の言葉を区別して用いるということは,一体何を意味するのだろうか.これは筆者の推測に過ぎないのだが,近代にはラテン語はもはや民衆の読める文字ではなくなっていたことを思い返すと,ゲルマン語派の言葉には粗野なイメージが抱かれ,ロマンス語派の言葉は自由学芸を修めた教養ある人々や聖職者が用いる観念的な言語というイメージが抱かれていたと言えないだろうか.そしてこのことをマルクスは「それは,まったく,直接的な(目に見える)事柄を(粗野な)ゲルマン語派で表現し,反省された(観念的な)事柄を(より洗練された)ロマンス語派(教養人の用いる言語)で表現することを好む国語(英語)の精神によるものである」とアイロニックに述べたのではないだろうか.
市民社会の「擬制」
(1)ドイツ語初版
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⁵)市民社会では,各人は商品購買者として百科全書的な商品知識を有しているという擬制〔fictio juris〕が支配している.
(2)ドイツ語第二版
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⁵)市民社会では,各人は商品購買者として百科全書的な商品知識を有しているという擬制〔fictio juris〕が支配している.
(3)フランス語版
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2.市民社会では,「何人も法について無知であるとは見做されない」.——経済的擬制〔fictio juris〕のために,いかなる購買者も商品に関する百科全書的な認識を有しているとみなされている.
(4)ドイツ語第三版
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⁵)市民社会では,各人は商品購買者として百科全書的な商品知識を有しているという擬制〔fictio juris〕が支配している.
マルクスがここで暗に示しているのは,ケネス・アロー(Kenneth Joseph Arrow, 1921–2017)のいわゆる情報の非対称性(information asymmetry)という考え方ではないだろうか(Arrow1963).すなわち,購買者がその商品を購買した後でなければ決して知り得ない情報を,販売者は持っている.しかしながら,販売者と購買者がそれぞれ持ちうる情報については,あたかも両者が対等なものとして商品交換が行われている.しかし,このような商品交換は「擬制」に基づいているのだとマルクスは示唆しているのである.
この註に関して石崎悦史(1940-)は次のように解釈している.
マルクスの記述は,市民社会の全構成員が商品知識をもっていること,さらに商品知識をもっていなければならないこと,さらに商品知識をもっていなければならないこと,しかしながら完全な商品知識をもちえなくなってしまっている現実,しかし商品知識をもっていると仮定しなければ売買契約という対等の立場での契約を結べないこと,したがって,実際には商品知識をもっていなくても,商品知識をもっていると法的にも認めざるをえないこと,その結果,商品を購買してしまった後には,基本的にはすべての責任が購買者に転化されてしまうという社会が市民社会であるということを示している.
現代社会においては「すべての責任が購買者に転化されてしまう」ことはなく,商品に欠陥があることが認められた場合に製造元・販売元によって回収される制度としてリコールがあり,一定の条件のもとで契約を撤回することができるクーリングオフなどの制度がある.そしてマルクスは「すべての責任が購買者に転化されてしまう」ことまで述べていないように思われる.
現象としての「量的関係」
(1)ドイツ語初版
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交換価値は,さしあたり量的関係として,すなわちある種の使用価値が別種の使用価値と交換される割合として⁶,時間と場所によって常に変動する関係として現象する.交換価値はそのために何かある偶然的な,純粋に相対的なものであるように見え,商品に内的な,内在的な交換価値(valeur intrinsèque)というものは故に一つの形容矛盾〔contradictio in adjecto〕であるように見える⁷.我々はその事柄をより詳しく考察しよう.
(2)ドイツ語第二版
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交換価値は,さしあたり量的関係として,すなわちある種の使用価値が別種の使用価値と交換される割合として⁶,時間と場所によって常に変動する関係として現象する.交換価値はそのために何かある偶然的な,純粋に相対的なものであるように見え,商品に内的な,内在的な交換価値(valeur intrinsèque)というものは故に一つの形容矛盾〔contradictio in adjecto〕であるように見える⁷.我々はその事柄をより詳しく考察しよう.
(3)フランス語版
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交換価値は,さしあたり量的関係として,すなわちある種の使用価値が異なる別種の使用価値と相互に交換される割合として³,時間と場所によって常に変化する関係として現象する.故に交換価値は何かある任意の,純粋に相対的なものであるように見え,商品に内的な,内在的な交換価値というものは,スコラのいうような,一つの形容矛盾〔contradictio in adjecto〕であるように見える⁴.その事柄をより詳しく考察しよう.
(4)ドイツ語第三版
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交換価値は,さしあたり量的関係として,すなわちある種の使用価値が別種の使用価値と交換される割合として⁶,時間と場所によって常に変動する関係として現象する.交換価値はそのために何かある偶然的な,純粋に相対的なものであるように見え,商品に内的な,内在的な交換価値(valeur intrinsèque)なるものは故に一つの形容矛盾〔contradictio in adjecto〕であるように見える⁷.我々はその事柄をより詳しく考察しよう.
第一に,ある種の使用価値が別種の使用価値と比較されるとき,両者は質的に異なるものであるから,それらの交換比率(この比率は時と場所によって変動するにせよ)をどのようにして算出するのかが問題となるはずだ.つまり,質的に異なる二つの使用価値とを交換するためには,両者のあいだに共通する何らかの共約可能性(commensurability)が存在しなければならないはずである.そのような共通項を内在的な価値とする限りで,交換比率としての「量的関係」はそれの単なる現象に過ぎない.
第二に,このパラグラフで注意しなければならないのは,マルクスが「交換価値は何か或る偶然的で,純粋に相対的なものである」から「商品に内的な,つまり内在的な交換価値というものは一つの形容矛盾である」と述べているのではないという点である.あくまでこのことがそのように「見える scheint」ということが重要である.どういうことか.
仮象としての「内在的な交換価値」
もし交換価値が商品に「内在的な」価値であるならば,それは他のものと比較せずにも常にすでに決まっている固有の価値を有しているというように考えられる.しかし,交換価値とは,ある種の使用価値と別種の使用価値とが比較され,それらが互いに交換しあうことのできる比率を表現したものである. 交換価値を示すためには何かしらの比較対象を必要とするのだから,その商品に固有の「内在的な交換価値」というものは存在しないと考えられる.だとすれば,「商品に内的な,つまり内在的な交換価値」という言い方そのものがおかしいことになってしまう.
ここで鍵となるのは「見える sheint」という動詞である.マルクスはヘーゲルの„scheinen“の用法を援用している(ヘーゲルの「見える scheint」の用法については拙稿「ヘーゲル『精神現象学』試論」を参照されたい).そのように「見える」というあり方はいわば「仮象」であり,真実のあり方はそうではないという際に„scheinen“は用いられる.したがって,「見える scheint」という用法によってマルクスは,実は「商品に内的な,内在的な交換価値というものは,一つの形容矛盾」ではないという結論を別途用意していて,その道筋を続く考察で提示するのではないかと推論することができる.
ル・トローヌ
(1)ドイツ語初版
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⁶)「価値とは,ある物と他の物とのあいだ,ある生産物量と他のある生産物量とのあいだに成立する交換関係である.」(ル・トローヌ『社会的利益について』,デール編『重農学派』パリ,1846年,p. 889)
(2)ドイツ語第二版
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⁶)「価値とは,ある物と他の物とのあいだ, ある生産物量と他のある生産物量とのあいだに成立する交換関係である.」(ル・トローヌ『社会的利益について』,デール編『重農学派』パリ,1846年,p. 889)
(3)フランス語版
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3.「価値とは,ある物と他の物とのあいだ,ある生産物量と他のある生産物量とのあいだに成立する交換関係である.」(ル・トローヌ『社会的利益について』,デール編『重農学派』パリ,1846年,p. 889)
(4)ドイツ語第三版
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⁶)「価値とは,ある物と他の物とのあいだ,ある生産物量と他のある生産物量とのあいだに成立する交換関係である.」(ル・トローヌ『社会的利益について』,デール編『重農学派』パリ,1846年,p. 889)
マルクスは原注6で,ル・トローヌ(Guillaume-François Le Trosne, 1728–1780)の『社会的利益について』(De l’intérêt social)第1章第4節「価値の定義 Définition de la valeur」から引用している.以下に原文を掲げておく.最後の「des autres」という部分がマルクスの引用では若干異なっている.
(1)『社会的利益について』(初版,1777年)
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(2)『社会的利益について』(所収:デール編『重農学派』,1846年)
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マルクスは,ドイツ語初版ではル・トローヌの著作から引用した際に「価値」と「交換関係」に強調を加えていたが,ドイツ語第二版・第三版からは強調が消えている(ただしフランス語版には強調が残存している).
多様な表現様式とその「内実」
(1)ドイツ語初版
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ある個別の商品,例えば,一クォーターの小麦は,他の諸商品と最も多様な割合で交換される.しかしながら,その〔小麦の〕交換価値は,x量の靴墨やy量の絹,z量の金などで表現されようとも,不変のままである.したがって,その〔小麦の〕交換価値は,その〔小麦の交換価値の〕こうした〔靴墨・絹・金などの〕多様な表現様式から区別可能であるに違いない.
(2)ドイツ語第二版
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ある個別の商品,例えば,一クォーターの小麦は,他の諸商品と最も多様な割合で交換される.しかしながら,その〔小麦の〕交換価値は,x量の靴墨やy量の絹,z量の金などで表現されようとも,不変のままである.したがって,その〔小麦の〕交換価値は,その〔小麦の交換価値の〕こうした〔靴墨・絹・金などの〕多様な表現様式から区別可能なある内実を持っているに違いない.
(3)フランス語版
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ある個別の商品,例えば,一クォーターの小麦は,他の諸商品と最も多様な割合で交換される.しかしながら,その〔小麦の〕交換価値は,x量の靴墨やy量の絹,z量の金などで表現されようとも,不変のままである.したがって,その〔小麦の〕交換価値はこうした〔靴墨・絹・金等々の〕多様な表現とは区別される或る内実を持っているに違いない.
(4)ドイツ語第三版
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ある一つの商品,例えば,一クォーターの小麦は,x量の靴墨とか,y量の絹とか,z量の金とか,要するに,最も多様な割合の諸商品と交換される.したがって,小麦は多種多様な交換価値をもっているのであって,ただ一つの交換価値をもっているのではない.しかし,x量の靴墨もy量の絹もz量の金その他も,みな一クォーターの小麦の交換価値なのだから,x量の靴墨,y量の絹,z量の金等々は,相互に置換可能である,または相互に等しい大きさの諸交換価値であるに違いない.そこで,第一に,同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの同じものを表現している,ということになる.しかし,第二に,およそ交換価値は,ただ,それとは区別されるある内実の表現様式,「現象形式」でしかありえない,ということになる.
この箇所はいずれの版においても相違が見られる.ドイツ語初版と第二版の間でも若干の違いがあるものの,第三版は大幅に書き加えられていることがわかる.ドイツ語初版になく第二版で追加された「Gehalt」がフランス語版で「contenu」と翻訳されていることから,やはりフランス語版がドイツ語第二版以降の水準を反映していることがわかる.
マルクスがこのパラグラフの叙述を繰り返し改善したのは何故だろうか.「交換価値」が「表現様式」として現象するものであるがゆえに,マルクスのいわば価値の現象学(Phänomenologie des Wertes)を,読者にとって誤解のないように叙述することが,マルクス自身にとって難しかったのかもしれない.下手をすれば,読者によってマルクスの叙述した〈AがBとして現れる〉が,単なる〈AはBである〉という無理解に還元されてしまうおそれがあったのである.
ちなみにマルクスがドイツ語第二版以降に書き加えた「内実 Gehalt」については,テクストをもう少し読み進めておかないとまだ何とも言えないが,これは後述の「共通物」や「凝固物」に繋がるものだと考えて良いだろう.
文献
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