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『源氏物語』「宿木」試論①

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荒川幸也「『源氏物語』「宿木」試論① 」(researchmap)


はじめに

 今月2024年4月より、筆者はKUNILABO(国立人文研究所)の「『源氏物語』を読む」(西原志保講師)に参加している。受講を決めた理由は三つある。一つ目の理由は、仕事が忙しくて独学する余裕がないこと。今年の2月より「『源氏物語』覚書」を書き始めたが、一人で『源氏物語』を読むといっても正直なところ限界があったからである。二つ目の理由は、筆者がドイツ語やラテン語などの西欧の言語に関しては大学でみっちり訓練を積んだものの、『源氏物語』のような日本語の、しかも古文のテキストを読む訓練は十分に受けていなかったからである。そして三つ目の理由としては、純粋に講義に参加したくなったという、筆者の意欲によるものである。実はちょうど同じく今月2024年4月より、東京外国語大学オープンアカデミーの「コプト・エジプト語初中級Ⅰ」(宮川創講師)の授業もZOOM形式で受講している。私とコプト語との出会いはアタナシウス・キルヒャーの著作からであった。およそ3年前にキルヒャーの著作についてまとめた際に、キルヒャーのコプト・エジプト語に関する著書を見つけた。それからというもの、キルヒャーを理解するにはコプト・エジプト語についていつか勉強しなければならないと思うようになった。コプト・エジプト語の講師である宮川先生はいつの日からかX(旧Twitter)でフォローしていたのであるが、ちょうど宮川先生のコプト語の授業の募集が目に入ったので受講してみることにした。これが非常に良い授業で、いわゆるナグ・ハマディ写本をコプト語で読むための手引きを兼ねてコプト語を学ぶことが出来るという、多少の受講料を払っても御釣りが来るぐらい素晴らしい内容なのである。そういうわけで、仕事をしながら夜にZOOM形式で良質な授業が受けられることに味を占めた筆者は、KUNIALBOの「『源氏物語』を読む」に参加することを決意したのである。仕事の方面ではこういう時に限って同じく2024年4月より新潟・長野の担当へ異動となったのだが、多忙の中での筆者の唯一の喜びがこれらの授業である。社会人のリスキリングにこの上ない機会を与えてくれているKUNILABOと東京外大オープンアカデミーには大いに感謝したい。

「宿木」とはどういう意味か

 さて、今回「宿木」から読み始めるのには理由がある。KUNILABOの授業に今学期から途中参加したため、授業はすでに「宇治十帖」の「宿木」の途中まで進行していたからである。進捗に追いつくためには、自分でそこまで読み進めるしかない。そこで最初に「宿木」というタイトルの意味について考えてみたい。

……木枯しの耐えがたきまで吹きとほしたるに、残る梢もなく散り敷きたる紅葉を、踏み分けける跡も見えぬを見わたして、とみにもえ出で給はず。いとけしきある深山木に宿りたる蔦の色ぞまだ残りたる、
 「こだに。」
などすこし引き取らせ給ひて、宮へとおぼしくて、持たせ給ふ。
  宿りきと思い出でずは木のもとの旅寝もいかにさびしからまし
とひとりごち給ふを聞きて、尼君、
  荒れ果つる朽木のもとを宿りきと思ひおきける程のかなしさ
あくまで古めきたれど、ゆゑなくはあらぬをぞいさゝかの慰めにはおぼしける。

(『源氏物語(八)早蕨―浮舟』「宿木45」岩波文庫、228頁)

 「宿る」という言葉には、人間の生活の中で「宿泊する」という意味のほかに、「生命が宿る」という用法がある。西欧では、そこに宿るのは精神的なもの(プシュケー)である。「木」もおよそ「生命」を表す。木をモチーフにカバラーの「生命の木」やデカルトの学問の体系などが観念された。ちなみにジェームズ・フレイザー『金枝篇』(James George Frazer, The Golden Bough, 1890-1936)の「金枝」とはヤドリギ(英名:Mistletoe, 学名:Viscum album「白い(album)宿り木(vicum)」の意)を指している。しかしながら、こうした考え方は西欧的であるから、『源氏物語』の文脈では基本的には想定されるべきものではない。「宿木」について岩波文庫では次のような解説を付している。

 宇治の八宮旧宅を訪れた薫が「深山木に宿りたる蔦」の紅葉を愛でてひとりごちた歌「宿りきと思い出でずは木のもとの旅寝もいかにさびしからまし」(二二八頁)、および弁尼の返歌「荒れ果つる朽木のもとを宿りきと思ひおきける程のかなしさ」(同)の歌による。「やどりぎ(宿木)」は蔦の異名で、この二首では「宿りき(むかし宿った)」の掛詞。底本の題は「やとり木」。 〈薫二十四歳春ー二十六歳夏〉

(『源氏物語(八)早蕨―浮舟』岩波文庫、62頁)

上の解説にある通り、「宿木」巻の作中に「宿りき」を歌で詠んでいる。「き」は過去を表すので、「むかし宿った」の意味になる。同時に「宿木」とは蔦の異名であり、蔦の表象である。実際、作中には紅葉する「蔦」も登場する。蔦には建物に絡みつくような特徴がある。秋に紅葉する(ツタ, 英名:Japanese Ivy, 学名:Parthenocissus tricuspidata)は日本、朝鮮半島、中国が原産国である。ヨーロッパや西アジアに自生している西洋木蔦(セイヨウキヅタ, 英名:Ivy, 学名:Hedera helix)は紅葉しない。その限りで、紅葉する「蔦」を表象する「宿木」という文脈は、少なくとも日本の土地が我々にそれを可能ならしめているのである。

最初期の寵愛とその後

 その比、藤壺と聞こゆるは、故左大臣殿の女御になむおはしける。まだ春宮と聞こえさせし時、人よりさきにまゐり給ひにしかば、むつましくあはれなる方の御思ひは、ことにものし給ふめれど、そのしるしと見ゆるふしもなくて年経給ふに、中宮には、宮たちさへあまた、こゝらおとなび給ふめるに、さやうの事も少なくて、たゞ女宮一所をぞ持ちたてまつり給へりける。

(『源氏物語(八)』「宿木1」岩波文庫、68頁)

ここで描かれているのは、「藤壺」と呼ばれていた彼女の華やかな経歴とは(二重に)対照をなす変遷である。というのは、「まだ春宮と聞こえさせし時、人よりさきにまゐり給ひにしかば」とあるように、彼女は今上帝が東宮であった頃から、ある意味で最も早いうちから帝に寵愛され、絶好のポジションを得ていたわけである。だが、その早さとは対照的に、「むつましくあはれなる方の御思ひは、ことにものし給ふめれど、そのしるしと見ゆるふしもなくて」、つまり精神的な豊かさに反比例してその現象としては大きな成果を得られないという、なにか不穏な雰囲気が漂う。そして「たゞ女宮一所をぞ持ちたてまつり給へりける」とあるように、今上帝と藤壺とのあいだの子どもは女二宮だけしかもうけなかったのである。これにもう一つ対照的なのが、「中宮には、宮たちさへあまた、こゝらおとなび給ふめるに」、つまり今上帝と明石中宮とのあいだに生まれた子どもたちには東宮、女一宮、中務宮、匂宮がおり、こちらの方が大いに繁栄しているように見えるのである。

藤壺による「宿世」の呪縛への抵抗

 わがいとくちをしく人におされたてまつりぬる宿世、嘆かしくおぼゆる代はりに、この宮をだにいかで行く末の心も慰むばかりにて見たてまつらむと、かしづき聞こえ給ふ事おろかならず。御かたちもいとをかしくおはすれば、みかどもらうたきものに思ひきこえさせ給へり。女一の宮を、世にたぐひなきものにかしづき聞こえさせ給ふに、大方の世のおぼえこそ及ぶべうもあらね、うち〱の御ありさまはをさ〱おとらず、父おとゞの御いきほひいかめしかりしなごりいたく衰へねば、ことに心もとなき事などなくて、さぶらふ人〱のなり、姿よりはじめ、たゆみなく、時〱につけつゝとゝのへ好み、いまめかしく、ゆゑ〱しきさまにもてなし給へり。

(『源氏物語(八)』「宿木1」岩波文庫、68〜70頁)

ここで「宿世(すくせ)」という言葉が出てくる。『源氏物語』の「宿世」についてはいくつかの論文や書籍が出ているが、数が多いのでいちいち列挙することはしない。高木和子(1964-)は「宿世」について次のように述べている。

「宿世」とは、梵語の pūrva または atīta の漢訳語とされ、本来は三世の過去世を意味する仏教語」である。平安時代の仮名文学では「前世からの因縁」と訳され、現世での幸不幸は前世から定まっている、という意味になる。この言葉は、平安中期の和文一般より『源氏物語』に突出して多く用いられている。『源氏物語』には、同時代の他の文献ではさほど注目されない言葉を多用して、新たな物語世界を開陳する例が見られるが、「宿世」の語もその一つである。

(高木2024: 15)

筆者には、藤壺が「宿世」という呪いに縛られているように見える。藤壺は自らが宮廷争いに負けたのは「宿世」によるものとして了解する。それは、藤壺にとっては望むと望まざると受け入れざるを得ない現実として受け止めてられているわけである。だが、その「宿世」に藤壺は可能な限り抵抗しているようにも見える。藤壺は我が子であり一人娘である女二宮に期待を込めて大事に育てることによって、自らの「宿世」における不幸に対して少なからぬ抵抗を試みている。そのさい、「宿世」という因果が、藤壺自身の中だけで完結しており、娘にまではその不幸が波及しないと想定されているわけである。

藤壺はなぜ物怪に煩い始めたか

 十四になり給ふ年、御裳着せ奉りたまはんとて、春よりうちはじめて、他事なくおぼしいそぎて、何事もなべてならぬさまにとおぼしまうく。いにしへより伝はりたりける宝物ども、このをりにこそはと探し出でつゝ、いみじくいとなみ給ふに、女御、夏ごろ、ものゝけにわづらひ給ひて、いとはかなく亡せ給ひぬ。言ふかひなくくちをしき事を内にもおぼし嘆く。心ばへなさけ〱しく、なつかしきところおはしつる御方なれば、殿上人どもも、
 「こよなくさう〲しかるべきわざかな。」
とをしみきこゆ。大方さるまじき際の女官などまで、しのびきこえぬはなし。

(『源氏物語(八)』「宿木2」岩波文庫、70頁)

ここで描かれているのはたんなる藤壺の死ではない。藤壺が周囲の人々にどれだけ慕われていたかという、藤壺女御その人徳が伝わってくる。藤壺は自身については不幸な「宿世」と受け止めていたが、それがかえって周囲の人々への気遣いにつながっていたのかもしれない。金賢貞によれば、「宿木」巻に出てくる「物怪」はこの一箇所のみであるという(金1996)。藤壺が「物怪」に煩って死んでしまったタイミングは、女二宮が14歳という結婚適齢期にさしかかった場面においてであった。「物怪」はここでは得体の知れない何かであって、それ以上に藤壺の死の原因を遡求することはできないが、しかし一方で「いにしへより伝はりたりける宝物ども、このをりにこそはと探し出でつゝ、いみじくいとなみ給ふ」たことが、藤壺の死と背中合わせの「宿世」であったように思われる。つまり藤壺は女二宮の結婚による幸せを目指してより一層の努力を行なった矢先に亡くなったのであり、それは彼女の不幸な宿命である「宿世」に相反するものだと彼女自身が心理的に受け止めていたからこそ、その行動が結果として藤壺が目指した幸せとは逆の方向にはたらいてはたらいてしまった描写とも理解できよう。「いにしへより伝はりたりける宝物」を藤壺が女二宮に伝授することは、自らの不幸な「宿世」をも含めて伝授することになるわけであるから、自らの不幸を相続させることにもなりかねない。そうした考えが藤壺の頭をよぎったかどうかは明らかではないが、與謝野晶子がいみじくも「物怪に煩い始めて」と訳しているように、「煩(わずら)う」という漢字は「煩悩」の「煩」であり、藤壺がフィジカルな病気を「患(わずら)って」死んだとは描かれていない点に注意すべきであろう。したがってそれは「物煩い」の類であり、何に藤壺が悩まされていたかを考慮するならば、それは「宿世」に対する心持ちに他ならないであろう。

(続)

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