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ホッブズ『リヴァイアサン』試論①

本稿のPDF版は下記リンク先からDLできます。
荒川幸也「ホッブズ『リヴァイアサン』試論①」(researchmap)


はじめに

 本稿では,トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588–1679)の主著『リヴァイアサン』(Leviathan, 1651)の読解を試みる.

『リヴァイアサン』初版における三つの異版

 『リヴァイアサン』の初版には,三つの異版(edition)があることが知られている.一つがヘッド版,もう一つがベア版,さらに別のものがオーナメント版と呼ばれている.これらの異版について,髙野彰(1941–)は次のように述べている.

二点は,海賊版と言うこともあって,書名,出版社名,刊年がそのまま示された.そのため最初の本を含めた三点は扉を飾っているオーナメントによって識別,呼称されることになる.「人間の頭」で飾った「ヘッド版」(head),枝を抱えて立っている「熊」を飾った「ベア版」(bear),「小さな図柄」を三列並べた「オーナメント版」(ornaments)である.ヘッド版が真正版,残りの二点が海賊版と言うことになる.

(髙野彰 2015「トマス・ワレン:『リヴァイアサン』(ヘッド版)の印刷者」1頁)

Googleで“Leviathan”と検索すると,これら三つの初版(真正版と海賊版)がそれぞれ確認できる.

ヘッド版(真正版)とその異刷

 まずは真正版であるヘッド版から見ていこう.これについては,オーストリア国立図書館(Österreichische Nationalbibliothek, 以下ÖNBと略記)によって公開されているデジタルデータが利用できた.

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(Hobbes1651a,ヘッド版の口絵,ÖNB所蔵)

『リヴァイアサン』のこの有名な口絵は,フランスの銅版画家アブラハム・ボス(Abraham Bosse, 1604–1676)の作品である.彼については,ニコラス・クリスタキス(Nicholas Christakis, 1962–)が次のように述べている.

実際,『リヴァイアサン』の有名な口絵は,国家(コモンウェルス)が一個の人体の姿に移し変えられた,一眼でそれとわかる視覚的な比喩だ.パリの版画家アブラハム・ボスは,ホッブズとじっくり相談したうえで,王冠を戴いた巨人が剣と司教杖を両手に風景から浮かび上がってくる姿をエッチングで描き出した.リヴァイアサンの絵の上には,ヨブ記の一節が記されている.Non est potestas Super Terram quae Comparetur ei——「地の上にはこれと並ぶ者なし」.

(ニコラス・クリスタキス『ブループリント』)

 口絵の解釈については他にもいくつかの研究がある(アルブレヒト2009田中2003).Twitterでは,Poole2020の記事により,口絵にペスト医師が小さく描かれていることが少し話題になったことが記憶に新しい.

 『リヴァイアサン』というそのタイトルもさることながら,それ以上に人々に視覚的な衝撃を与え,その記憶に深く刻まれることとなったのは,この口絵であろう.図像学や記憶術の観点からすれば,この口絵は「通常の規範を大きく逸脱した図像を意図的に準備することで,心を激しく揺さぶり,記憶に深く刻み付けてゆく」*1ことを目的として描かれたのかもしれない.

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(Hobbes1651a,ヘッド版の標題紙,ÖNB所蔵)

標題紙には「リヴァイアサン,または教会的および市民的コモン - ウェルスの質料,形相,および力」(LEVIATHAN, OR The Matter, Forme, & Power OF A COMMON-WEALTH ECCLESIASTICALL AND CIVILL)と書かれている.「質料 Matter」と「形相 Forme」に「力 Power」を並置したところに,ホッブズの妙味がある.ホッブズはしばしばアリストテレスを批判しているが,「質料」と「形相」はアリストテレスの術語として知られている.それらにホッブズが「力」を並べ加えたのは,ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei, 1564–1642)以降の自然哲学の導入がその背景にあるのではないだろうか.その限りで,「力 Power」は,政治哲学の書物としてはもっぱら「権力」として理解される概念であるが,本書の場合には同時に自然学における「力」との連関において理解される必要があるかもしれない.

 ところで,ヘッド版と一括りに言っても,その中にさらに異刷(impression)があることがわかっている(川又2014).上のÖNB版はどうだろうか.1ページ目のタイトルに注目すると,ÖNB版では「THE INTRODUCTION」の文字が全てSwash italicになっていることが確認できる.

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(Hobbes1651a: 1,ÖNB所蔵)
「THE INTRODUCTION」全体がSwash italicになっている.

髙野によれば,もともと「THE INTRODUCTION」全体をSwash italicにする予定であったが,誤って「THE」の部分だけローマン体で組んでしまった.「THE INTRODUCTION」全体がSwash italicになるのは,それに気づいて組み直しを行った後からである.上の画像にあるÖNB版では「THE」がSwash italicになっている為,組み直した後のものであることがわかる.

「THE INTRODUCTION」はSwash italicで印刷する予定であったが,植字工が「THE」をローマン体で組んでしまった(図23).そして印刷中にそのことに気付き,「THE」をSwash italicで組み直した.それが図24である.

(髙野彰 2015「トマス・ワレン:『リヴァイアサン』(ヘッド版)の印刷者」5頁)
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(髙野2015: 17)

ベア版(海賊版)

 次に,海賊版であるベア版については,大英図書館(British Library, 以下BLと略記)が公開しているものが利用できた.ヘッド版(真正版)の表紙と比べると口絵の印刷が薄くなっている.標題紙には「熊」のイラストがある.

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(Hobbes1651b,ベア版の口絵と標題紙,BL所蔵)

オーナメント版(海賊版)

 最後に,こちらも海賊版であるオーナメント版については,マドリッド・コンプルテンセ大学(Universidad Complutense de Madrid,以下UCMと略記)が公開しているものが利用できた.オーナメント版の口絵は,顔の造形がヘッド版のものと明らかに異なるので,一瞥してすぐに海賊版だと判別できる.

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(Hobbes1651c,オーナメント版の口絵と標題紙,UCM所蔵)

 ここまでホッブズ『リヴァイアサン』初版の三つの異版(edition)について見てきた.コロナ禍のため大学図書館が利用し難い状況にあるが,一方で自宅にいながらインターネットを通じて異版を比較することも可能な時代である.もちろん原本(オリジナル)を閲覧するのとデジタルデータを見るのとでは,デジタルデータでは実際の本の大きさや素材を体感することができないという点で大きな違いがある.筆者がかつて一橋大学大学院修士課程に在籍していた頃,一橋社会科学古典資料センターにて,『独仏年誌』(Deutsch-Französische Jahrbücher, Hrsg. von Arnold Ruge und Karl Marx, Paris, 1844)の原本を閲覧させてもらったことがある.デジタルデータとしてはGoogleブックスで何度も見たことはあったが,現物を見た感想は,頭で思っていたよりも細く小さいように感じた.「百聞は一見にしかず」とはこのことである.川又2014で紹介されている通り,『リヴァイアサン』の口絵にはユリ紋のウォーターマーク(Watermark,透かし紋様)があるとされる.だが,お札の透かし機能がデジタルデータとしては表現し難いのと同様に,透かしという材質まではデジタルデータではなかなか伝わらない.それゆえ,デジタル化によって原本(オリジナル)の存在価値が無くなることは永遠にないと思われる.だが,少なくともこうした点に留意しさえすれば,Googleブックスのようなデジタル化の恩恵をうまく利用することができるはずである.

ホッブズ『リヴァイアサン』(1651年)

ホッブズの機械論的生命観

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自然(神がそれによってこの世界をつくったし,それによってこの世界を統治している,その技術)は,人間の技術によって,他のおおくのものごとにおいてのように,人工的動物をつくりうるということにおいても,模倣される.すなわち,生命は四肢の運動にほかならず,その運動のはじまりが,内部のある主要な部分にある,ということをみれば,すべての自動機械〔Automata〕(時計がそうするように発条と車でみずから動く機関)が,人工の生命をもっていると,われわれがいってはいけないわけがあろうか.心臓は何かといえば,ひとつの発条にほかならず,神経はといえば,それだけの数のにほかならず,そして関節は、それだけの数のにほかならず,これらが全身体に,製作者〔Artificer〕によって意図されたとおりの運動を,与えるのではないだろうか.

(Hobbes1651a: 1,水田訳(一)37頁)

第一に,「自然 Natur」とは一つの「技術 Art」である.それはいわば神の技術であり,神は「自然」という技術によってこの世界を作り出したという.第二に,人間の技術はこの「自然」という技術を模倣する.人間の技術によって作られたものは「人工的 Artificial」と呼ばれる.

 ここでホッブズは,生命体を一つの「自動機械 Automata」のように見做している.「生命*2は四肢*3の運動にほかならず,その運動のはじまりが,内部のある主要な部分にある」という箇所には,ホッブズの機械論的生命観が読み取れる.ホッブズのこの機械論的生命観は,あまりに極端で一面的であるように見える.だが,『リヴァイアサン』初版が1651年に出版されたことを考慮すると,ホッブズは「時計 watch」に見られるような最新の科学技術を自身の政治哲学に導入し,応用したと言えるだろう.そしてその点にこそホッブズの独自性があるといえる.

ホッブズの合理的自然観

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技術はさらにすすんで,自然の理性的でもっともすぐれた作品である,人間を模倣する.すなわち,技術によって,コモン - ウェルス〔COMMON-WEALTH〕あるいは国家〔STATE〕(ラテン語ではキウィタス〔CIVITAS〕)とよばれる,あの偉大なリヴァイアサン〔LEVIATHAN〕が,創造されるのであり,それは人工的人間にほかならない.ただしそれは,自然人よりも形がおおきくて力がつよいのであって,自然人をそれが保護し防衛するようにと,意図されている.

(Hobbes1651a: 1,水田訳(一)37頁)

自然の所産としての「人間 Man」を模倣した「人工的人間 Artificiall Man」として,「リヴァイアサン」は創造される.この「人間」は,機械論的に把握されたものであり,心臓や神経や関節を発条や紐や歯車のような部品に置き換えることができるような運動体として理解されている「人間」である.

 「自然の理性的でもっともすぐれた作品」という箇所には,「自然」のうちには粗野ではなく「理性的 Rationall」なものがあるというホッブズの「自然」観が垣間見える.自然のうちに合理性があるからこそ,それを模倣する意義がある.

近代国家概念としての「リヴァイアサン」

 ホッブズのいわゆる「リヴァイアサン」とは,コモン - ウェルス,国家,キウィタスである.これらはいずれも国家概念を意味する.しかしながら,これらの概念は,古典的な意味でのそれとは区別されるべきである.すなわち,聖書の中の「レヴィアタン」や,古典古代の都市国家(ポリス)と混同しないよう注意が必要である.というのも,ホッブズの「国家」概念はマキアヴェッリ以後の政治的概念であり,ホッブズはそのような政治理論の系譜に属しているからである.この点について平子友長(1951–)は次のように述べている.

 周知のように国家=スタート stato という概念は,十六世紀初頭マキアヴェッリによって初めてヨーロッパにもたらされた全く新しい政治概念であった.
……中略……
 マキアヴェッリによって十六世紀初頭のイタリア半島の政治状況に即して構想されたスタートの思想を,精緻な政治理論として完成させた人がホッブズであった.
 『リヴァイアサン』において,国家の仕事は複数の諸個人がともに「生きること」を可能にする環境を人為的に創出することの一点に絞られた.ホッブズ自身がコモン・ウェルス Common-welath と呼んでいる政治組織は後世ステイト state と呼ばれるものである.ステイトの思想にとって核心的なことは,その構成員が抽象的な「人 man」一般であることにある.理論的には,自然状態において「各人の各人に対する戦争状態」に置かれるすべての諸個人が,民族・原語・ジェンダー・文化等の相違を一切捨象されて,同一のステイトの可能的構成員とされたのであった.彼らに要求された資質は,「死の恐怖」と「自然法」(平和を確立するために万人が同意できる諸条項)を案出する理性的能力だけであった.ステイトの構成員の抽象性に対応して,ステイトにはいかなる地理的限界もない.もちろんホッブズは,現実のステイトが複数存在することを知っていたけれども,それは理論的には自然状態の変形された継続,つまり個人を単位とした戦争状態からステイトを単位とした戦争状態への転換として了解された.

(平子友長 2003「ステイト・ネイション・ナショナリズムの関係—一つの理論的整理」)

このような「ステイト」の形成を前提として,十七世紀から十八世紀の西欧においてステイトはネイション・ステイトへと変貌を遂げることとなる.

「リヴァイアサン」というメタファー

 ところでホッブズはなぜ「あの偉大なリヴァイアサン」などとわざわざ『旧約聖書』に登場する怪物の名を持ち出したのであろうか.この疑問はすでに森康博によって提起されている.

著書『リヴァイアサン』は「コモン - ウェルス」論として展開されているのは明らかで,〈リヴァイアサン〉の語をあらたに導入する必然性はないように思える.にもかかわらず,なぜホッブズは『旧約聖書』の海獣〈リヴァイアサン〉をもち出してきたのであろうか.その意図は何であろうか.

(森康博 2003「《リヴァイアサン》とは何か」119頁)

森はこの問いに対する応答をエルンスト・カントーロヴィチ(Ernst Hartwig Kantorowicz, 1895–1963)の『王の二つの身体』(The King's Two Bodies, 1957)の議論を援用しつつ,ホッブズのいわゆる『法の原理』(The Elements of Law/Natural and Politic, 1640)にまで遡って探究している.しかしながら,上の問いには十分応えられていないように私には思われた.

 先の疑問に対する答えはいくつか考えられうるが,さしあたり「コモン - ウェルス」「ステイト」「キウィタス」等,国家概念には複数の呼び名が与えられていたこともあり,これらを「リヴァイアサン」という一つの表象の下に統合する必要があったのではないだろうか.その表象が読者に与える印象は,個人と比較した場合のその大きさと,暴力的で威圧的な力である.

 ちなみに,川出良枝(1959–)は『リヴァイアサン』の解説の中で,ホッブズが「リヴァイアサン」をメタファーとして用いていると述べている.

本書のタイトルともなったリヴァイアサンとは,旧約聖書の「ヨブ記」に登場する海の獣である.その力たるや、「剣も槍も,矢も投げ槍も彼を突き刺すことはできない」.この地上に支配者をもたず,「驕り高ぶるものすべてを見下し,誇り高い獣すべての上に君臨している」.ホッブズはこの空想上の怪物を,平和と防衛を人間に保障する絶対的な主権的権力のメタファーとして用いる.

(川出良枝 2009「主権国家への根源的問いかけ」)

「リヴァイアサン」という表現に込められているのは,ホッブズの巧みな修辞学的戦略なのかもしれない.

人体構造から見た政治概念

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そして,そのなかで,主権〔Soveraignty〕は全身体に生命と運動を与えるのだから,人工のであって,為政者たち〔Magistrates〕とその他の司法と行政の役人たちは,人工の関節である.賞罰(それによって主権の地位にむすびつけられて,それぞれの関節と四肢は,自己の義務を遂行するために動かされる)は,神経であって,自然の身体においてと,おなじことをする.すべての個々の構成員の財産は,であり,人民福祉〔Salus Populi〕(人民の安全)は,それの業務であり,それが知る必要のあるすべてのことを,それに対して提示する顧問官たちは,記憶であり,公正〔Equity〕と諸法律は,人工の理性意志であり,和合健康騒乱病気で,内乱である.さいごに,この政治体の諸部分を,はじめてつくり,あつめ,結合した協定〔Pacts〕と信約〔Convenants〕は,創造において神が宣告したあの命令〔Fiat〕すなわち人間をつくろうということばに,似ている.

(Hobbes1651a: 1,水田訳(一)37〜38頁)

「〔協定と信約によって〕この政治体の諸部分がはじめてつくられ,一緒にされて,統一された」という一文にホッブズの政治体の特徴が示されている.ヘーゲルのような国家有機体論者は,政治体は部分の寄せ集めによって成立するものではないと考える.換言すれば,人間の機構を真似した部品をいくら寄せ集めたところで人間のような有機体にはならないとヘーゲルは考える.これに対してホッブズの政治体はまったくもってそのような有機体論ではなくて機械論的であり,自然身体と同一の機能を代替し得る部品の集合体なのである.

 この箇所では,様々な政治概念に対応する人間の機構がそれぞれ示されているわけだが,もちろんそれは前節の「リヴァイアサン」と同じように,メタファーとしてそうなのである.これらの政治概念と人間機構との一致は,ホッブズによってきわめて蓋然性の高いものへと仕上げられて入るものの,あくまでホッブズの洞察に基づくものに過ぎない.したがって,こうした一致が適切か否か,はたまたこれらの政治概念がなぜ,いかにしてその機構に対応するといえるのか,その根拠がいまだ明確に示されているわけではない.その点について詳しくは本書を読み進めていくしかないが,さしあたりそれらの政治概念が本文のどこで扱われているのかを下に示しておくことにしよう.

 「主権性 Soveraignty」については,第二部で扱われるであろう*4.「財産 Riches」が力であることについては,第一部第十章「力、値うち、位階、名誉、ふさわしさについて」で扱われるであろう*5.「理性 Reason」については,第一部第五章「推理と科学について」で扱われるであろう*6.「協定 Pacts」と「信約 Covenants」については,第一部第十四章「第一と第二の自然法について、および契約について」で扱われるであろう*7.

本書の構成

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 この人工的人間の本性を叙述するために,私は,
  第一に,それの素材〔Matter〕と製作者,それらはともに人間である.
  第二に,どのようにして,どういう諸信約によって,それはつくられるか,主権者諸権利および正当な権力あるいは権威〔Authority〕とは何か,そして,何がそれを維持し解体するか.
  第三に,キリスト教的コモン - ウェルスとは何か.
  さいごに,暗黒の王国とは何か.を考察したい.

(Hobbes1651a: 2,水田訳(一)38頁)

ここでは「第一に」「第二に」「第三に」「さいごに」と分かれているが,この区分はまさに『リヴァイアサン』の四部構成に対応していると言える(第一部「人間について」,第二部「コモン - ウェルスについて」,第三部「キリスト教のコモン - ウェルスについて」,第四部「暗黒の王国」).

 「リヴァイアサン」は「人工的人間」であるが,それが人工的に模倣されるためには,さしあたって模倣される「人間」がどういうものなのかが明らかにされなければならない.第一部「人間について」でそれが示される.

 次に,第一部で模倣されるべき「人間」の機構が示されたことによって,第二部では「いかにして How」その人間を模倣するのかが課題となる.人間がどうやって生まれ,生活し,死んでいくのかという生命のプロセスと同じように,「リヴァイアサン」という生命体の発生から消滅までのプロセスが第二部で示される.

 『リヴァイアサン』の副題は「教会的および市民的コモン - ウェルスの質料,形相,および力 the Matter, Forme, & Power of a Common-wealth Ecclesiastical and Civill」であるが,この副題もまた本書の構成を示している.「素材=質料 Matter」が扱われるのが第一部であるとすれば,「形式=形相 Forme」と「権力=力 Power」が扱われるのは第二部であり,この第二部で「市民的コモン - ウェルス」が扱われた後に,第三部では「教会的コモン - ウェルス」が扱われるという次第である.

人びとを読む

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 第一に関しては,賢明さ〔Wisdome〕は,書物を読むことによってではなく,人びとを読む〔知る〕ことによって獲得されるのだという格言が,近ごろおおいに利用されている.そのけっかとして,互いに相手の背後で無慈悲に非難しあうことによって,自分が人びとのなかに読みとったとおもうことを示して,おおいによろこんでいる人びとがあり,こういう人びとは,その大部分は,そうするよりほかに,賢明であることの証拠を提出することができないのである.

(Hobbes1651a: 2,水田訳(一)38〜39頁)

「第一に関しては Conderning the first」というのは,前節で見た「第一に,それの素材製作者,それらはともに人間 Man である」という箇所に関してということであり,つまり第一部のテーマである「人間」に関して,ということであろう.

 ただ書物を読むのではなく,人間を書物のように読んで知ることで賢くなれるという諺があるかどうかは寡聞にして知らない.アリババ創業者のジャック・マー(馬雲,1964–)は「人は一冊の読みごたえのある本だ.私にとって2万4000人の社員は2万4000冊の本である」(張燕2014)と述べたというが,ホッブズが引いている諺はちょうどジャック・マーのこの考えに近いといえる(最近ではプロ奢ラレヤー@taichinakaj)さんが〈人間を書物のように読むこと〉を実践されているように思われる).上の諺は要するに,本を読んで知識を得ているだけではだめで,実際の生きた人びとに目を向けた方がよっぽど賢くなれる,ということを主張しているように思われる.

 しかしながら,上の諺の見解に対してホッブズは批判的である.というのも,ある人が他人のうちに読み取ったと思い込んでいるものは,実際に読み取られたその人自身でなければそれが真実かどうか分からないからである.こうなると〈そもそも人びとを読むことは可能なのか〉という疑問が生じてくることになるだろう.そしてホッブズは〈人びと(他者)を読むことは不可能である〉という立場から,推論の出発点を自分自身のうちに向けるのである.

「汝自身を知れ」という箴言

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しかし,近ごろでは理解されていない,もうひとつの格言があって,もし人びとがその労をとりさえしたならば,それによって,ほんとうにおたがいを読むことを,まなびえたであろう.それは,汝自身を読め〔Nosce te ipsum, Read thyself〕という格言であり,それが意味したのは,今日つかわれているように,権力をもった人びとの,その下位の人びとに対する野蛮な状態を黙認することでも,ひくい地位のものの,優越者に対する無礼なふるまいを奨励することでもなく,つぎのことをわれわれにおしえることであった.すなわち,あるひとりの人間の諸思考と諸情念が,他のひとりの人間の諸思考と諸情念に類似しているために,だれでも自分のなかをみつめて,自分が思考し判断し推理し希望し恐怖し等々するときに,何をするか,それはどういう根拠によってかを,考察するならば,かれはそうすることによって,同様なばあいにおける他のすべての人びとの諸思想と諸情念がどういうものであるかを,読み,知るであろう,ということである.

(Hobbes1651a: 2,水田訳(一)39頁)

「汝自身を知れ γνῶθι σεαυτόν」という古代ギリシアの有名な箴言がある.英語ではこれはKnow thyselfと訳されるのが一般的であるが,ホッブズはこれを「汝自身を読め Read thyself 」と訳している.先の箴言をホッブズのように訳すことによって,「書物を読んで理解すること reading of Books」と「汝自身を読んで理解する read thyself」こととの連続性が保たれている.

古代ギリシアにおける「汝自身を知れ」の意味

 「汝自身を知れ」という箴言は,「デルフォイの神殿におけるアポロンの神託を受けたソクラテスの命題」(藤原2008: 133)として一般的に知られている.

 この箴言は,古代ギリシアにおいてはどのような意味で受け止められていたのだろうか.この箴言の当時の理解について,中畑正志(1957-)は次のように述べている.

GS〔GSは「汝自身を知れ γνῶθι σ(ε)αυτόν 」の略記——引用者〕は,大方の解釈のとおり,自分の分をわきまえよ,身のほどを知れ,という意味で理解されたといってよい.そして身のほどを知る上で大切なのは,まず,神と対比された存在としての人間であることを自覚することだった((Ps,-)Aeschyl. Prom. vinct. 309).また,身のほどとは,神との関係だけでなく,共同体や他者との関係からも規定される.社会関係のなかでの自己の役割を知ることも,自分自身を知ることの重要な意味であった(Xenophon Cyr. 7.2.20-21).一見したところ対他的関係からは独立に測定できそうな自己の能力の認知についても,このような自己知の理解が妥当する.クセノポンは,ソクラテスが(デルポイの箴言としての)GSの求める自己知を〈自己の能力を知る〉こととして理解する様子を描いているが,そのような能力とは、馬の能力がその馬の用途との関連ではじめて特定されるように,社会や共同体との要請との関連で特定され,その要請を満たすことができる,ということを意味した(Mem. 4.4.24sqq.)

(中畑正志 2013「Μηδεν αγανから離れて——自己知の原型と行方——」101〜102頁)

要するに,古代ギリシアにおいては「汝自身を知れ」という箴言は,神と共同体という二つの軸において規定された自己を概念的に把握する,という意味で理解されていたのである.したがって,自己に相対するものが神であれ共同体であれ,他者を抜きにして自己を理解することはできないということになる.

ホッブズにおける「汝自身を知れ」の意味

 では,ホッブズはこの箴言をどのように捉えているのだろうか.ホッブズによれば,この箴言はもはや「身の程知らずが、身の程をわきまえよ」という意味に転じてしまったという.しかしホッブズ自身は,一人一人の人間には大きな違いがなく,各々がたがいに類似の性質を持っていると考える.だから自分自身への理解を徹底すれば,それは同時に類似の性質をもつ人間一般への理解につながることになる.

 「汝自身を知れ」という箴言に対するホッブズによる新たな解釈は,先に見た古代ギリシアにおけるその意味を,その言葉の下に刷新しようとしている.すなわち他者(とりわけ共同体)との関係の中で自己を知るという古代ギリシアの思想が,ホッブズにおいては,自分自身を分析的に読み解くことによって自己の延長線上に共同体を知るという思想に変化しているのである.

(つづく)

*1: 「イメージには,情報を圧縮する効果のほかに,心に強くうったえかけて内容を忘れにくくする力もある.だからこそ,「賦活イメージ(imagines agentes)」と名づけられた記憶用のメンタル画像は,可能な限りヴィヴィッドで,極端なものが推奨された.美しいのであれ,醜いのであれ,とにかく通常の規範を大きく逸脱した図像を意図的に準備することで,心を激しく揺さぶり,記憶に深く刻み付けてゆくのである.」(桑木野2018: 81).
*2: 「生命」の原語は“feeing life”である.
*3: 「四肢」の原語は“Limbs”である.だが,手足が常に四つだとは限らない.したがって,“Limbs”は「手足」または「分肢」とでも訳した方がよかろう.
*4: 「この人格をになうものは,主権者とよばれ,主権者権力〔Soveraigne Power〕をもつといわれるのであり,他のすべてのものは,かれの臣民である.」(水田訳(二)34頁).
*5: 「気前のよさとむすびついた財産もまた,力〔Power〕である.」(Hobbes1651a: 41,水田訳(一)151頁).
*6: 「推理は,われわれの思考をしるしづけ〔marking〕,あらわす〔signifying〕ために同意された一般的諸名辞の連続の計算(すなわちたしひき)にほかならない.」(水田訳(一)85頁).
*7: 「さらに,契約者の一方が,かれの側では契約されたものをひきわたして,相手を,ある決定された時間ののちにかれのなすべきことを履行するまで放任し,その期間は信頼しておくということも,ありうる.そしてこのばあいは,かれにとってこの契約は,協定〔PACT〕または信約〔COVENANT〕と呼ばれる.」(水田訳(二)222頁).

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