ホッブズ『リヴァイアサン』試論①
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荒川幸也「ホッブズ『リヴァイアサン』試論①」(researchmap)
はじめに
本稿では,トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588–1679)の主著『リヴァイアサン』(Leviathan, 1651)の読解を試みる.
『リヴァイアサン』初版における三つの異版
『リヴァイアサン』の初版には,三つの異版(edition)があることが知られている.一つがヘッド版,もう一つがベア版,さらに別のものがオーナメント版と呼ばれている.これらの異版について,髙野彰(1941–)は次のように述べている.
Googleで“Leviathan”と検索すると,これら三つの初版(真正版と海賊版)がそれぞれ確認できる.
ヘッド版(真正版)とその異刷
まずは真正版であるヘッド版から見ていこう.これについては,オーストリア国立図書館(Österreichische Nationalbibliothek, 以下ÖNBと略記)によって公開されているデジタルデータが利用できた.
『リヴァイアサン』のこの有名な口絵は,フランスの銅版画家アブラハム・ボス(Abraham Bosse, 1604–1676)の作品である.彼については,ニコラス・クリスタキス(Nicholas Christakis, 1962–)が次のように述べている.
口絵の解釈については他にもいくつかの研究がある(アルブレヒト2009,田中2003).Twitterでは,Poole2020の記事により,口絵にペスト医師が小さく描かれていることが少し話題になったことが記憶に新しい.
『リヴァイアサン』というそのタイトルもさることながら,それ以上に人々に視覚的な衝撃を与え,その記憶に深く刻まれることとなったのは,この口絵であろう.図像学や記憶術の観点からすれば,この口絵は「通常の規範を大きく逸脱した図像を意図的に準備することで,心を激しく揺さぶり,記憶に深く刻み付けてゆく」*1ことを目的として描かれたのかもしれない.
標題紙には「リヴァイアサン,または教会的および市民的コモン - ウェルスの質料,形相,および力」(LEVIATHAN, OR The Matter, Forme, & Power OF A COMMON-WEALTH ECCLESIASTICALL AND CIVILL)と書かれている.「質料 Matter」と「形相 Forme」に「力 Power」を並置したところに,ホッブズの妙味がある.ホッブズはしばしばアリストテレスを批判しているが,「質料」と「形相」はアリストテレスの術語として知られている.それらにホッブズが「力」を並べ加えたのは,ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei, 1564–1642)以降の自然哲学の導入がその背景にあるのではないだろうか.その限りで,「力 Power」は,政治哲学の書物としてはもっぱら「権力」として理解される概念であるが,本書の場合には同時に自然学における「力」との連関において理解される必要があるかもしれない.
ところで,ヘッド版と一括りに言っても,その中にさらに異刷(impression)があることがわかっている(川又2014).上のÖNB版はどうだろうか.1ページ目のタイトルに注目すると,ÖNB版では「THE INTRODUCTION」の文字が全てSwash italicになっていることが確認できる.
髙野によれば,もともと「THE INTRODUCTION」全体をSwash italicにする予定であったが,誤って「THE」の部分だけローマン体で組んでしまった.「THE INTRODUCTION」全体がSwash italicになるのは,それに気づいて組み直しを行った後からである.上の画像にあるÖNB版では「THE」がSwash italicになっている為,組み直した後のものであることがわかる.
ベア版(海賊版)
次に,海賊版であるベア版については,大英図書館(British Library, 以下BLと略記)が公開しているものが利用できた.ヘッド版(真正版)の表紙と比べると口絵の印刷が薄くなっている.標題紙には「熊」のイラストがある.
オーナメント版(海賊版)
最後に,こちらも海賊版であるオーナメント版については,マドリッド・コンプルテンセ大学(Universidad Complutense de Madrid,以下UCMと略記)が公開しているものが利用できた.オーナメント版の口絵は,顔の造形がヘッド版のものと明らかに異なるので,一瞥してすぐに海賊版だと判別できる.
ここまでホッブズ『リヴァイアサン』初版の三つの異版(edition)について見てきた.コロナ禍のため大学図書館が利用し難い状況にあるが,一方で自宅にいながらインターネットを通じて異版を比較することも可能な時代である.もちろん原本(オリジナル)を閲覧するのとデジタルデータを見るのとでは,デジタルデータでは実際の本の大きさや素材を体感することができないという点で大きな違いがある.筆者がかつて一橋大学大学院修士課程に在籍していた頃,一橋社会科学古典資料センターにて,『独仏年誌』(Deutsch-Französische Jahrbücher, Hrsg. von Arnold Ruge und Karl Marx, Paris, 1844)の原本を閲覧させてもらったことがある.デジタルデータとしてはGoogleブックスで何度も見たことはあったが,現物を見た感想は,頭で思っていたよりも細く小さいように感じた.「百聞は一見にしかず」とはこのことである.川又2014で紹介されている通り,『リヴァイアサン』の口絵にはユリ紋のウォーターマーク(Watermark,透かし紋様)があるとされる.だが,お札の透かし機能がデジタルデータとしては表現し難いのと同様に,透かしという材質まではデジタルデータではなかなか伝わらない.それゆえ,デジタル化によって原本(オリジナル)の存在価値が無くなることは永遠にないと思われる.だが,少なくともこうした点に留意しさえすれば,Googleブックスのようなデジタル化の恩恵をうまく利用することができるはずである.
ホッブズ『リヴァイアサン』(1651年)
ホッブズの機械論的生命観
第一に,「自然 Natur」とは一つの「技術 Art」である.それはいわば神の技術であり,神は「自然」という技術によってこの世界を作り出したという.第二に,人間の技術はこの「自然」という技術を模倣する.人間の技術によって作られたものは「人工的 Artificial」と呼ばれる.
ここでホッブズは,生命体を一つの「自動機械 Automata」のように見做している.「生命*2は四肢*3の運動にほかならず,その運動のはじまりが,内部のある主要な部分にある」という箇所には,ホッブズの機械論的生命観が読み取れる.ホッブズのこの機械論的生命観は,あまりに極端で一面的であるように見える.だが,『リヴァイアサン』初版が1651年に出版されたことを考慮すると,ホッブズは「時計 watch」に見られるような最新の科学技術を自身の政治哲学に導入し,応用したと言えるだろう.そしてその点にこそホッブズの独自性があるといえる.
ホッブズの合理的自然観
自然の所産としての「人間 Man」を模倣した「人工的人間 Artificiall Man」として,「リヴァイアサン」は創造される.この「人間」は,機械論的に把握されたものであり,心臓や神経や関節を発条や紐や歯車のような部品に置き換えることができるような運動体として理解されている「人間」である.
「自然の理性的でもっともすぐれた作品」という箇所には,「自然」のうちには粗野ではなく「理性的 Rationall」なものがあるというホッブズの「自然」観が垣間見える.自然のうちに合理性があるからこそ,それを模倣する意義がある.
近代国家概念としての「リヴァイアサン」
ホッブズのいわゆる「リヴァイアサン」とは,コモン - ウェルス,国家,キウィタスである.これらはいずれも国家概念を意味する.しかしながら,これらの概念は,古典的な意味でのそれとは区別されるべきである.すなわち,聖書の中の「レヴィアタン」や,古典古代の都市国家(ポリス)と混同しないよう注意が必要である.というのも,ホッブズの「国家」概念はマキアヴェッリ以後の政治的概念であり,ホッブズはそのような政治理論の系譜に属しているからである.この点について平子友長(1951–)は次のように述べている.
このような「ステイト」の形成を前提として,十七世紀から十八世紀の西欧においてステイトはネイション・ステイトへと変貌を遂げることとなる.
「リヴァイアサン」というメタファー
ところでホッブズはなぜ「あの偉大なリヴァイアサン」などとわざわざ『旧約聖書』に登場する怪物の名を持ち出したのであろうか.この疑問はすでに森康博によって提起されている.
森はこの問いに対する応答をエルンスト・カントーロヴィチ(Ernst Hartwig Kantorowicz, 1895–1963)の『王の二つの身体』(The King's Two Bodies, 1957)の議論を援用しつつ,ホッブズのいわゆる『法の原理』(The Elements of Law/Natural and Politic, 1640)にまで遡って探究している.しかしながら,上の問いには十分応えられていないように私には思われた.
先の疑問に対する答えはいくつか考えられうるが,さしあたり「コモン - ウェルス」「ステイト」「キウィタス」等,国家概念には複数の呼び名が与えられていたこともあり,これらを「リヴァイアサン」という一つの表象の下に統合する必要があったのではないだろうか.その表象が読者に与える印象は,個人と比較した場合のその大きさと,暴力的で威圧的な力である.
ちなみに,川出良枝(1959–)は『リヴァイアサン』の解説の中で,ホッブズが「リヴァイアサン」をメタファーとして用いていると述べている.
「リヴァイアサン」という表現に込められているのは,ホッブズの巧みな修辞学的戦略なのかもしれない.
人体構造から見た政治概念
「〔協定と信約によって〕この政治体の諸部分がはじめてつくられ,一緒にされて,統一された」という一文にホッブズの政治体の特徴が示されている.ヘーゲルのような国家有機体論者は,政治体は部分の寄せ集めによって成立するものではないと考える.換言すれば,人間の機構を真似した部品をいくら寄せ集めたところで人間のような有機体にはならないとヘーゲルは考える.これに対してホッブズの政治体はまったくもってそのような有機体論ではなくて機械論的であり,自然身体と同一の機能を代替し得る部品の集合体なのである.
この箇所では,様々な政治概念に対応する人間の機構がそれぞれ示されているわけだが,もちろんそれは前節の「リヴァイアサン」と同じように,メタファーとしてそうなのである.これらの政治概念と人間機構との一致は,ホッブズによってきわめて蓋然性の高いものへと仕上げられて入るものの,あくまでホッブズの洞察に基づくものに過ぎない.したがって,こうした一致が適切か否か,はたまたこれらの政治概念がなぜ,いかにしてその機構に対応するといえるのか,その根拠がいまだ明確に示されているわけではない.その点について詳しくは本書を読み進めていくしかないが,さしあたりそれらの政治概念が本文のどこで扱われているのかを下に示しておくことにしよう.
「主権性 Soveraignty」については,第二部で扱われるであろう*4.「財産 Riches」が力であることについては,第一部第十章「力、値うち、位階、名誉、ふさわしさについて」で扱われるであろう*5.「理性 Reason」については,第一部第五章「推理と科学について」で扱われるであろう*6.「協定 Pacts」と「信約 Covenants」については,第一部第十四章「第一と第二の自然法について、および契約について」で扱われるであろう*7.
本書の構成
ここでは「第一に」「第二に」「第三に」「さいごに」と分かれているが,この区分はまさに『リヴァイアサン』の四部構成に対応していると言える(第一部「人間について」,第二部「コモン - ウェルスについて」,第三部「キリスト教のコモン - ウェルスについて」,第四部「暗黒の王国」).
「リヴァイアサン」は「人工的人間」であるが,それが人工的に模倣されるためには,さしあたって模倣される「人間」がどういうものなのかが明らかにされなければならない.第一部「人間について」でそれが示される.
次に,第一部で模倣されるべき「人間」の機構が示されたことによって,第二部では「いかにして How」その人間を模倣するのかが課題となる.人間がどうやって生まれ,生活し,死んでいくのかという生命のプロセスと同じように,「リヴァイアサン」という生命体の発生から消滅までのプロセスが第二部で示される.
『リヴァイアサン』の副題は「教会的および市民的コモン - ウェルスの質料,形相,および力 the Matter, Forme, & Power of a Common-wealth Ecclesiastical and Civill」であるが,この副題もまた本書の構成を示している.「素材=質料 Matter」が扱われるのが第一部であるとすれば,「形式=形相 Forme」と「権力=力 Power」が扱われるのは第二部であり,この第二部で「市民的コモン - ウェルス」が扱われた後に,第三部では「教会的コモン - ウェルス」が扱われるという次第である.
人びとを読む
「第一に関しては Conderning the first」というのは,前節で見た「第一に,それの素材と製作者,それらはともに人間 Man である」という箇所に関してということであり,つまり第一部のテーマである「人間」に関して,ということであろう.
ただ書物を読むのではなく,人間を書物のように読んで知ることで賢くなれるという諺があるかどうかは寡聞にして知らない.アリババ創業者のジャック・マー(馬雲,1964–)は「人は一冊の読みごたえのある本だ.私にとって2万4000人の社員は2万4000冊の本である」(張燕2014)と述べたというが,ホッブズが引いている諺はちょうどジャック・マーのこの考えに近いといえる(最近ではプロ奢ラレヤー(@taichinakaj)さんが〈人間を書物のように読むこと〉を実践されているように思われる).上の諺は要するに,本を読んで知識を得ているだけではだめで,実際の生きた人びとに目を向けた方がよっぽど賢くなれる,ということを主張しているように思われる.
しかしながら,上の諺の見解に対してホッブズは批判的である.というのも,ある人が他人のうちに読み取ったと思い込んでいるものは,実際に読み取られたその人自身でなければそれが真実かどうか分からないからである.こうなると〈そもそも人びとを読むことは可能なのか〉という疑問が生じてくることになるだろう.そしてホッブズは〈人びと(他者)を読むことは不可能である〉という立場から,推論の出発点を自分自身のうちに向けるのである.
「汝自身を知れ」という箴言
「汝自身を知れ γνῶθι σεαυτόν」という古代ギリシアの有名な箴言がある.英語ではこれはKnow thyselfと訳されるのが一般的であるが,ホッブズはこれを「汝自身を読め Read thyself 」と訳している.先の箴言をホッブズのように訳すことによって,「書物を読んで理解すること reading of Books」と「汝自身を読んで理解する read thyself」こととの連続性が保たれている.
古代ギリシアにおける「汝自身を知れ」の意味
「汝自身を知れ」という箴言は,「デルフォイの神殿におけるアポロンの神託を受けたソクラテスの命題」(藤原2008: 133)として一般的に知られている.
この箴言は,古代ギリシアにおいてはどのような意味で受け止められていたのだろうか.この箴言の当時の理解について,中畑正志(1957-)は次のように述べている.
要するに,古代ギリシアにおいては「汝自身を知れ」という箴言は,神と共同体という二つの軸において規定された自己を概念的に把握する,という意味で理解されていたのである.したがって,自己に相対するものが神であれ共同体であれ,他者を抜きにして自己を理解することはできないということになる.
ホッブズにおける「汝自身を知れ」の意味
では,ホッブズはこの箴言をどのように捉えているのだろうか.ホッブズによれば,この箴言はもはや「身の程知らずが、身の程をわきまえよ」という意味に転じてしまったという.しかしホッブズ自身は,一人一人の人間には大きな違いがなく,各々がたがいに類似の性質を持っていると考える.だから自分自身への理解を徹底すれば,それは同時に類似の性質をもつ人間一般への理解につながることになる.
「汝自身を知れ」という箴言に対するホッブズによる新たな解釈は,先に見た古代ギリシアにおけるその意味を,その言葉の下に刷新しようとしている.すなわち他者(とりわけ共同体)との関係の中で自己を知るという古代ギリシアの思想が,ホッブズにおいては,自分自身を分析的に読み解くことによって自己の延長線上に共同体を知るという思想に変化しているのである.
(つづく)
注
*1: 「イメージには,情報を圧縮する効果のほかに,心に強くうったえかけて内容を忘れにくくする力もある.だからこそ,「賦活イメージ(imagines agentes)」と名づけられた記憶用のメンタル画像は,可能な限りヴィヴィッドで,極端なものが推奨された.美しいのであれ,醜いのであれ,とにかく通常の規範を大きく逸脱した図像を意図的に準備することで,心を激しく揺さぶり,記憶に深く刻み付けてゆくのである.」(桑木野2018: 81).
*2: 「生命」の原語は“feeing life”である.
*3: 「四肢」の原語は“Limbs”である.だが,手足が常に四つだとは限らない.したがって,“Limbs”は「手足」または「分肢」とでも訳した方がよかろう.
*4: 「この人格をになうものは,主権者とよばれ,主権者権力〔Soveraigne Power〕をもつといわれるのであり,他のすべてのものは,かれの臣民である.」(水田訳(二)34頁).
*5: 「気前のよさとむすびついた財産もまた,力〔Power〕である.」(Hobbes1651a: 41,水田訳(一)151頁).
*6: 「推理は,われわれの思考をしるしづけ〔marking〕,あらわす〔signifying〕ために同意された一般的諸名辞の連続の計算(すなわちたしひき)にほかならない.」(水田訳(一)85頁).
*7: 「さらに,契約者の一方が,かれの側では契約されたものをひきわたして,相手を,ある決定された時間ののちにかれのなすべきことを履行するまで放任し,その期間は信頼しておくということも,ありうる.そしてこのばあいは,かれにとってこの契約は,協定〔PACT〕または信約〔COVENANT〕と呼ばれる.」(水田訳(二)222頁).
文献
Poole, Thomas, 2020, Leviathan in Lockdown, in: London Review of Books, LRB blog, 2020.03.01.
アルブレヒト,デッケ=コルニル 2009「可死の神:トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』の表紙絵を読み解く」『大谷学報』第89巻第1号.
川又祐 2014「ホッブズ『リヴァイアサン』初版Head版(一六五一年)の異刷について」日本大学法学会『政経研究』第51巻第1号.
平子友長 2003「ステイト・ネイション・ナショナリズムの関係—一つの理論的整理」唯物論研究教会編『唯物論研究年誌』第8号,青木書店.
中畑正志 2013「Μηδεν αγανから離れて——自己知の原型と行方——」日本西洋古典学会編『西洋古典学研究』第61巻.
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