ヘーゲル『法の哲学』試論—「家族」篇
はじめに
本稿ではヘーゲル『法の哲学』第三部「人倫」第一章「家族」の読解を試みる.
家族という共同体では様々な諸問題が生じている.それは,例えば,機能不全家族,DV(ドメスティック・バイオレンス),ネグレクト,性虐待*1,アダルトチルドレン,モンスターペアレント,不倫*2,愛着障害,共依存,インセスト・タブー,ヤングケアラー*3,カサンドラ症候群*4,親ガチャ,毒親*5など,多種多様な言葉で語られている.
以下で我々はヘーゲルの「家族」論を検討することによって,家族の様々な問題への処方箋の可能性を探究してみたい.
ヘーゲル『法の哲学』第3部「人倫」第1章「家族」
「家族」の規定としての「愛」
ヘーゲルによれば,家族が国家や市民社会の圏域から区別される,家族独特の規定とは「愛 Liebe」である.愛とは精神的な一体感のことである.みずからのうちに精神的な一体感を持つ家族の「成員 Mitglied」というあり方は,市民社会で活動する自立した一箇の「人格 Person」*6とは異なっている.
しかしながら,「愛」と一口に言っても様々である.例えば,伊藤明は「愛」について次のように整理している.
他にも「同時に複数のパートナーと「誠実」に愛の関係を築く」というポリアモリー(polyamory,複数愛)と呼ばれる愛も存在する(深海2020).
ヘーゲルは「愛」についてどのように考えていたのだろうか.
家族の解体と市民社会への移行の見通し
この箇所では,家族から市民社会への移行が念頭に置かれている.つまり,前節(第158節)が「家族」章の導入であり「家族」の概要であったとすれば,本節(第159節)は,「家族」から「市民社会」への移行の道筋を先取りして示しているのである.このように先の議論への道筋を示すという叙述を,ヘーゲルは『精神現象学』でもしばしば行っている.
家族の「分肢 Glieder」というあり方は,市民社会における「自立した人格 selbständige Personen」とは異なっている.「家族の統一 Familien⹀Einheit」は,家族成員(子どもたち)の成長によって「解体 Auflösung」へと至る(第177節).
世俗の結婚披露宴では神父による「永遠の愛を誓いますか」という問いかけがあるが,ヘーゲルは「婚姻」において永遠の愛を喧伝することはない.ヘーゲルのいう「家族 Familie」とは,子育てを目的とし,その目的を達成してしまえば即解散してしまうようなプロジェクトチームであり,そして父親(家長)はいわばそのプロジェクトマネージャー(PM)である.「婚姻」という子育てというプロジェクトのうちには,永遠の愛どころかむしろ家族の「解体」つまり離婚の契機が含まれているのである.
「家族」章の構成
この箇所では「家族」章の構成が端的に述べられている.つまり,上の「三つの面」が,「家族」章のA「婚姻」,B「家族の資産」C「子どもの教育と家族の解体」の節にそれぞれ対応している.
以上の三節の順番は,むやみやたらに入れ替え可能なものではなく,時系列に沿って,というよりもむしろ,家族の概念的な発展段階に即していると言える.
A「婚姻」は,家族形成の端緒として,最初に来なければならない.その意味で「婚姻」は家族の「直接的概念」と述べられているのである.
B「家族の資産」の議論は,実は後の「市民社会」章の「普遍的資産」(第199節・第200節ほか)の議論をするための布石となっている.さらに「配慮 Sorge」について述べておくと,これが同じく「市民社会」章のC「行政と職業団体」における「普遍的配慮」(第236節)の議論するための布石となっている.ヘーゲルは本書の構成として「家族」章の議論を先在させることによってはじめて「市民社会」を「普遍的家族」(第239節)と呼ぶことができたのである.
C「子どもの教育と家族の解体」に関して述べておくと,上で「子どもの教育 Erziehung」の語は強調されているが,「家族の解体 Auflösung」の語は強調されていない.その点に注意を向けると.この節の中心が「子どもの教育」にあることがわかる.つまり「子どもの教育」による自立した人格の形成によって,結果的にそれが「家族の解体」に繋がるのであり,次の「市民社会」への移行という役割をも果たすのである.
婚姻における自然性と精神性
ここでヘーゲルは自然性と精神性の両側面から婚姻について述べている.
第一に,婚姻の自然性については「類 Gattung」の観点から述べられている.ここで「類」とは,要するに,男性や女性という様々な性別をひっくるめた人類全体のことを指している.「類」の観点からみた「自然的生命性」において重要なことは,ただ単に食べて・寝て・活動するという日常的なライフサイクルではなく,子どもを産み・育て,次世代の生命をつなぐというライフステージである.
第二に,婚姻の精神性については,叙述が少し込み入っている.「自然的諸性の一体性 Einheit der natürlichen Geschlechter」とは,パートナーである二つの主体の結びつきを意味しており,それぞれの主体がホモセクシュアリティかヘテロセクシュアリティかそれ以外かという区分はここでは言及されていない.むろんこれらのセクシュアリティはヘーゲルの預かり知らぬものであったと言われてしまえばそれまでなのだが,この箇所が「自然的両性」(上妻精・佐藤康邦・山田忠彰訳および藤野渉・赤澤正敏訳)と訳されてしまうのはジェンダーバイアスがかかっていると言わざるを得ない.ドイツ語の複数形2格の„Geschlechter“には「諸々の性の」という意味だが,それを「両性の」と訳出する場合には,それはセクシュアリティには男か女かの二者択一しかないという性別二元論を思考枠組みとして前提としている.別にヘーゲルはここで„beide Geschlechter“とは書いていないのであるから,「両性の」という訳出は日本語訳者の側にあるジェンダーバイアスに他ならない.
ヘーゲルが「自己意識においては」と述べていることから,ここで「諸々の性 Geschlechter」はセックス*7ではなくジェンダーの問題として捉えられるべきである.
さて,「単に内面的なだけの nur innerliche」という場合には,「習俗規範態 Sittlichkeit」からすれば,婚姻関係を伴っていない二人の主体間のだけで成立している恋愛関係のことを指している.これを別の側面から見た場合の「即自的に存在するにすぎないがゆえにその実存においては単に外面的でしかない」というのは,二人の主体は,それぞれ別の家族に属する他人に過ぎないということである.婚姻関係がいわば対自的で「自己意識的な愛」であるとするならば,婚姻関係を伴っていない段階では二人の一体性は「即自存在」にとどまっているわけである.
婚姻の出発点
ヘーゲルによれば,婚姻には主観的出発点と客観的出発点があるが,そのさい「主観的」と「客観的」を区別する要素は何であろうか.ここではむしろその「客観的」出発点から見た方がわかりやすいかもしれない.婚姻の客観的出発点は,例えば婚姻届を出したり,生計を同じくすべく住所を統一したりすることによって,それぞれ別々の家ないし家計の下で暮らしていた二人が家族として一緒になることへの同意である.こうしたお役所的な手続きは,まさしく「客観的な」ものである. これに対して婚姻の主観的出発点は,お役所的な手続きを経ずに行えることである.例えば,結婚前に二人でデートをして愛着を深めるとか,あるいは男女の出会いがなければ,両親の「配慮と計らい」によりお見合いが行われるかもしれない.こうしたことはお役所が関わること無しに,「主観的」にとり行われる.
婚姻における自己制限と解放
ヘーゲルによれば,婚姻による統一には,「自己制限」と「解放」の二つの側面がある.婚姻による「自己制限」とは何か.両人格は,結婚前には「自然的で個別的な人格性」を持ち,すなわち恋愛によって自らのパートナーを恣意的に選択できる立場にあったが,それが可能であったのは,彼らが誰の妻でも夫でもなかったからである.こうした恋愛を可能にした「自然的で個別的な人格性」は,婚姻を通じて「自己制限」される.この「自己制限」ゆえに,浮気や不倫といった行為は社会的不正義に位置付けられることになる.したがって,婚姻による彼らの「解放 Befreyung」とは,浮気や不倫といった意味での「解放=自由化」を意味するのではない.「自然的で個別的な人格性」の放棄によって,パートナー以外の他者に対する排他性が成立し,家族としての権利を彼ら自身だけが持つことになる.家族の形成は「実体的自己意識」の核心をなすものであるから,もしそれが両親の反対により阻止されるとすれば,彼らにとっては自己実現の障害となり得る.こうした障害が取り除かれてこそ,彼らは本当の意味で「解放」されるのである.
(つづく)
注
*1: 「性虐待」について詳しくは信田2019を参照されたい.
*2: 「不倫」について詳しくは中野2018を参照されたい.
*3: 「家族のケア(家事,介護,年下のきょうだいの世話,感情的サポートなど)を担う子ども・若者たちを「ヤングケアラー」と呼ぶ.「ヤング」を何歳で区切るかは国によっても異なるが,20代の若者になると若者ケアラー,ヤング・アダルト・ケアラーと呼ぶことがある.」(濱島2021: 3).
*4: 「夫の共感性に問題があるために,妻がうつやストレス性の心身の障害を呈するに至ったものを「カサンドラ症候群」と呼ぶ.典型的なのは,自閉スペクトラム症(アスペルガー症候群)のために,共感性や情緒的な反応が乏しいパートナーと暮らしている人に起きるものである.配偶者,パートナーだけでなく,子どもや同僚等,その人と深いかかわりを持たざるを得ない人にも同じようなことが起こりうる./カサンドラ症候群は,医学的診断カテゴリーではないが,医学的診断よりも本質をとらえ,改善にも役立つ有用な概念だと言える.」(岡田2018: 27-28).
*5: 「毒親」という概念を初めて示したのはスーザン・フォワード(Susan Forward, 1938-)である(フォワード2021).
*6: 市民社会の「原理 Prinzip」としての「人格」について詳しくは「市民社会」章冒頭第182節を参照されたい.「具体的な人格,すなわち特殊的なものとしての自分にとっての目的である人格は,もろもろの欲求の全体として,また自然必然性と恣意との混合として,市民社会の一方の原理である.——しかし,特殊的人格は,本質的には他の同様な特殊性との関係のうちにある.したがって,各々の人格は他の人格によって,そして同時にただ,他方の原理である普遍性の形式によって媒介されたものとしてのみ,みずからを通用させ,満足をえるのである.」(Hegel1820: 187,上妻ほか訳(下)75頁).
*7: セックス,すなわちヘーゲルの解剖学的性差認識に関しては岡崎2021を参照のこと.岡崎によれば「イェナ期とベルリン期の自然哲学を比較することで,男女の性差や両性具有をめぐるヘーゲルの洞察のなかに,女性を発達の低次の段階に位置付けた上で男性をその発達型とする単線的な発達モデルから,同一の原基から女性あるは男性が形成されるという,いわば二極化モデルへの重点の移行が見られる」(岡崎2021: 89)という.
文献
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