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ヘーゲル『法の哲学』試論—「家族」篇


はじめに

 本稿ではヘーゲル『法の哲学』第三部「人倫」第一章「家族」の読解を試みる.
 家族という共同体では様々な諸問題が生じている.それは,例えば,機能不全家族,DV(ドメスティック・バイオレンス),ネグレクト,性虐待*1,アダルトチルドレン,モンスターペアレント,不倫*2,愛着障害,共依存,インセスト・タブー,ヤングケアラー*3,カサンドラ症候群*4,親ガチャ,毒親*5など,多種多様な言葉で語られている.
 以下で我々はヘーゲルの「家族」論を検討することによって,家族の様々な問題への処方箋の可能性を探究してみたい.

ヘーゲル『法の哲学』第3部「人倫」第1章「家族」

「家族」の規定としての「愛」

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 第158節
 家族は精神の直接的実体性として,精神の感じられている統一,すなわちをその規定としている.したがって,その志操は,精神の個体性の自己意識を即自的かつ対自的に存在する本質性としてのこの統一のうちにもつことであり,それによって,この自己意識は,この統一において単独の人格としてではなく,成員として存在するようになる.

(Hegel1820: 166,上妻ほか訳(下)33頁)

ヘーゲルによれば,家族が国家や市民社会の圏域から区別される,家族独特の規定とは「愛 Liebe」である.愛とは精神的な一体感のことである.みずからのうちに精神的な一体感を持つ家族の「成員 Mitglied」というあり方は,市民社会で活動する自立した一箇の「人格 Person」*6とは異なっている.
 しかしながら,「愛」と一口に言っても様々である.例えば,伊藤明は「愛」について次のように整理している.

 古くから数々の作家,哲学者,心理学者たちは,愛をいくつかのタイプに分類することによって,その非常に厳しい疑問に答えようとしてきた.一例を挙げると,フランスの作家スタンダールは,①情熱恋愛(一目惚れをはじめとする激しい恋愛),②趣味恋愛(遊び半分の恋愛),生理的恋愛(生理的欲求による強い恋愛),④虚栄的恋愛(見栄や虚栄心による恋愛)の四つに恋愛を分類している.
 ルービンという心理学者は「恋愛(愛している)」と「好意(好き)」という観点からの区別を行った.行為は相手に対する尊敬の念や高い評価といった感情が中心となっているのに対し,恋愛では「いつでも一緒にいたい」といった親和的感情や「独り占めしたい」といった排他性・独占欲求が中心になっているという.
 ハトフィールドとウォルスターという心理学者は,喜びと苦しみが入り交じった強烈な感情を伴う「情熱的な愛」と,友情と思いやり,理解といったどちらかといえば穏やかな感情を伴う「友情的な愛」に分類した.
 さらに,心理学者リーは,四〇〇〇以上にもなる恋愛に関する幾多の記述を集め,それらを六つのタイプに分類した.①ルダス(遊びの愛),②マニア(狂気的な愛),③プラグマ(実理的な愛),④エロス(美への愛),⑤ストルジュ(友情的な愛),⑥アガペ(愛他的な愛)である.

(伊藤明『恋愛依存症 苦しい恋から抜け出せない人たち』実業之日本社,2015年,195頁)

他にも「同時に複数のパートナーと「誠実」に愛の関係を築く」というポリアモリー(polyamory,複数愛)と呼ばれる愛も存在する(深海2020).
 ヘーゲルは「愛」についてどのように考えていたのだろうか.

家族の解体と市民社会への移行の見通し

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 第159節
 家族の統一を基盤として,個人に属している法,そしてさしあたりこの統一それ自身における個人の生命となっているが,規定された個別性という抽象的な契機としての法の形式に入ってゆくのは,家族が解体に移行し,家族の成員として存在するはずの者たちが,その志操においても現実性においても自立した人格として成長し,彼らが家族のなかで一定の契機としてかたちづくったものを,いまや分割されたあり方で,それゆえもっぱら外的な側面(資産,養育費,教育費など)に応じて受け取るかぎりにおいてである.

(Hegel1820: 166-167,上妻ほか訳(下)34〜35頁)

この箇所では,家族から市民社会への移行が念頭に置かれている.つまり,前節(第158節)が「家族」章の導入であり「家族」の概要であったとすれば,本節(第159節)は,「家族」から「市民社会」への移行の道筋を先取りして示しているのである.このように先の議論への道筋を示すという叙述を,ヘーゲルは『精神現象学』でもしばしば行っている.
 家族の「分肢 Glieder」というあり方は,市民社会における「自立した人格 selbständige Personen」とは異なっている.「家族の統一 Familien⹀Einheit」は,家族成員(子どもたち)の成長によって「解体 Auflösung」へと至る(第177節).
 世俗の結婚披露宴では神父による「永遠の愛を誓いますか」という問いかけがあるが,ヘーゲルは「婚姻」において永遠の愛を喧伝することはない.ヘーゲルのいう「家族 Familie」とは,子育てを目的とし,その目的を達成してしまえば即解散してしまうようなプロジェクトチームであり,そして父親(家長)はいわばそのプロジェクトマネージャー(PM)である.「婚姻」という子育てというプロジェクトのうちには,永遠の愛どころかむしろ家族の「解体」つまり離婚の契機が含まれているのである.

「家族」章の構成

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 第160節
 家族は以下の三つの面を通じて完結する.
(a)家族の直接的概念である婚姻という形態を通じて,
(b)外面的定在,つまり家族の所有物と,これらに対する配慮を通じて,
(c)子どもの教育と家族の解体を通じて.

(Hegel1820: 167,上妻ほか訳(下)36頁)

この箇所では「家族」章の構成が端的に述べられている.つまり,上の「三つの面」が,「家族」章のA「婚姻」,B「家族の資産」C「子どもの教育と家族の解体」の節にそれぞれ対応している.
 以上の三節の順番は,むやみやたらに入れ替え可能なものではなく,時系列に沿って,というよりもむしろ,家族の概念的な発展段階に即していると言える.
 A「婚姻」は,家族形成の端緒として,最初に来なければならない.その意味で「婚姻」は家族の「直接的概念」と述べられているのである.
 B「家族の資産」の議論は,実は後の「市民社会」章の「普遍的資産」(第199節・第200節ほか)の議論をするための布石となっている.さらに「配慮 Sorge」について述べておくと,これが同じく「市民社会」章のC「行政と職業団体」における「普遍的配慮」(第236節)の議論するための布石となっている.ヘーゲルは本書の構成として「家族」章の議論を先在させることによってはじめて「市民社会」を「普遍的家族」(第239節)と呼ぶことができたのである.
 C「子どもの教育と家族の解体」に関して述べておくと,上で「子どもの教育 Erziehung」の語は強調されているが,「家族の解体 Auflösung」の語は強調されていない.その点に注意を向けると.この節の中心が「子どもの教育」にあることがわかる.つまり「子どもの教育」による自立した人格の形成によって,結果的にそれが「家族の解体」に繋がるのであり,次の「市民社会」への移行という役割をも果たすのである.

婚姻における自然性と精神性

 第161節
 婚姻は,直接的な人倫的関係として,第一に自然的生命活動という契機を含んでおり,しかも実体的関係として,生命活動をその総体性において,すなわちの現実性と類の過程として含んでいる(『哲学的諸学のエンチュクロペディー』167節以下,および288節以下).しかし第二に,自己意識においては,自然的両性の,単に内面的な,あるいは即自的に存在するにすぎないがゆえにその現存在においては単に外面的でしかない統一が,精神的で,自己意識的な愛へと転化されるのである.

(Hegel1820: 168,上妻ほか訳(下)36〜37頁)

ここでヘーゲルは自然性と精神性の両側面から婚姻について述べている.
 第一に,婚姻の自然性については「類 Gattung」の観点から述べられている.ここで「類」とは,要するに,男性や女性という様々な性別をひっくるめた人類全体のことを指している.「類」の観点からみた「自然的生命性」において重要なことは,ただ単に食べて・寝て・活動するという日常的なライフサイクルではなく,子どもを産み・育て,次世代の生命をつなぐというライフステージである.
 第二に,婚姻の精神性については,叙述が少し込み入っている.「自然的性の一体性 Einheit der natürlichen Geschlechter」とは,パートナーである二つの主体の結びつきを意味しており,それぞれの主体がホモセクシュアリティかヘテロセクシュアリティかそれ以外かという区分はここでは言及されていない.むろんこれらのセクシュアリティはヘーゲルの預かり知らぬものであったと言われてしまえばそれまでなのだが,この箇所が「自然的性」(上妻精・佐藤康邦・山田忠彰訳および藤野渉・赤澤正敏訳)と訳されてしまうのはジェンダーバイアスがかかっていると言わざるを得ない.ドイツ語の複数形2格の„Geschlechter“には「諸々の性の」という意味だが,それを「両性の」と訳出する場合には,それはセクシュアリティには男か女かの二者択一しかないという性別二元論を思考枠組みとして前提としている.別にヘーゲルはここで„beide Geschlechter“とは書いていないのであるから,「両性の」という訳出は日本語訳者の側にあるジェンダーバイアスに他ならない.
 ヘーゲルが「自己意識においては」と述べていることから,ここで「諸々の性 Geschlechter」はセックス*7ではなくジェンダーの問題として捉えられるべきである.
 さて,「単に内面的なだけの nur innerliche」という場合には,「習俗規範態 Sittlichkeit」からすれば,婚姻関係を伴っていない二人の主体間のだけで成立している恋愛関係のことを指している.これを別の側面から見た場合の「即自的に存在するにすぎないがゆえにその実存においては単に外面的でしかない」というのは,二人の主体は,それぞれ別の家族に属する他人に過ぎないということである.婚姻関係がいわば対自的で「自己意識的な愛」であるとするならば,婚姻関係を伴っていない段階では二人の一体性は「即自存在」にとどまっているわけである.

婚姻の出発点

 第162節
 婚姻の主観的出発点としてしばしば現われうるのは,この関係に入る両人格の特殊な愛着,あるいは,両親などによるあらかじめの配慮と計らいであるが,しかし客観的出発点は,両人格の自由な同意,詳しくいえば,自分たちの自然的で個別的な人格性を前述の一体性において放棄して一人格を成そうとすることの同意である.この一体性は,自然的で個別的な人格性という点からすれば一つの自己制限であるが,しかし彼らはこの一体性において彼らの実体的自己意識を獲得するのであるから,まさにこのゆえにこの一体性は彼らの解放である.

(Hegel1820: 168,藤野・赤沢訳(II)40〜41頁)

ヘーゲルによれば,婚姻には主観的出発点と客観的出発点があるが,そのさい「主観的」と「客観的」を区別する要素は何であろうか.ここではむしろその「客観的」出発点から見た方がわかりやすいかもしれない.婚姻の客観的出発点は,例えば婚姻届を出したり,生計を同じくすべく住所を統一したりすることによって,それぞれ別々の家ないし家計の下で暮らしていた二人が家族として一緒になることへの同意である.こうしたお役所的な手続きは,まさしく「客観的な」ものである. これに対して婚姻の主観的出発点は,お役所的な手続きを経ずに行えることである.例えば,結婚前に二人でデートをして愛着を深めるとか,あるいは男女の出会いがなければ,両親の「配慮と計らい」によりお見合いが行われるかもしれない.こうしたことはお役所が関わること無しに,「主観的」にとり行われる.

婚姻における自己制限と解放

 ヘーゲルによれば,婚姻による統一には,「自己制限」と「解放」の二つの側面がある.婚姻による「自己制限」とは何か.両人格は,結婚前には「自然的で個別的な人格性」を持ち,すなわち恋愛によって自らのパートナーを恣意的に選択できる立場にあったが,それが可能であったのは,彼らが誰の妻でも夫でもなかったからである.こうした恋愛を可能にした「自然的で個別的な人格性」は,婚姻を通じて「自己制限」される.この「自己制限」ゆえに,浮気や不倫といった行為は社会的不正義に位置付けられることになる.したがって,婚姻による彼らの「解放 Befreyung」とは,浮気や不倫といった意味での「解放=自由化」を意味するのではない.「自然的で個別的な人格性」の放棄によって,パートナー以外の他者に対する排他性が成立し,家族としての権利を彼ら自身だけが持つことになる.家族の形成は「実体的自己意識」の核心をなすものであるから,もしそれが両親の反対により阻止されるとすれば,彼らにとっては自己実現の障害となり得る.こうした障害が取り除かれてこそ,彼らは本当の意味で「解放」されるのである.

(つづく)

*1: 「性虐待」について詳しくは信田2019を参照されたい.
*2: 「不倫」について詳しくは中野2018を参照されたい.
*3: 「家族のケア(家事,介護,年下のきょうだいの世話,感情的サポートなど)を担う子ども・若者たちを「ヤングケアラー」と呼ぶ.「ヤング」を何歳で区切るかは国によっても異なるが,20代の若者になると若者ケアラー,ヤング・アダルト・ケアラーと呼ぶことがある.」(濱島2021: 3).
*4: 「夫の共感性に問題があるために,妻がうつやストレス性の心身の障害を呈するに至ったものを「カサンドラ症候群」と呼ぶ.典型的なのは,自閉スペクトラム症(アスペルガー症候群)のために,共感性や情緒的な反応が乏しいパートナーと暮らしている人に起きるものである.配偶者,パートナーだけでなく,子どもや同僚等,その人と深いかかわりを持たざるを得ない人にも同じようなことが起こりうる./カサンドラ症候群は,医学的診断カテゴリーではないが,医学的診断よりも本質をとらえ,改善にも役立つ有用な概念だと言える.」(岡田2018: 27-28).
*5: 「毒親」という概念を初めて示したのはスーザン・フォワード(Susan Forward, 1938-)である(フォワード2021).
*6: 市民社会の「原理 Prinzip」としての「人格」について詳しくは「市民社会」章冒頭第182節を参照されたい.「具体的な人格,すなわち特殊的なものとしての自分にとっての目的である人格は,もろもろの欲求の全体として,また自然必然性と恣意との混合として,市民社会の一方の原理である.——しかし,特殊的人格は,本質的には他の同様な特殊性との関係のうちにある.したがって,各々の人格は他の人格によって,そして同時にただ,他方の原理である普遍性の形式によって媒介されたものとしてのみ,みずからを通用させ,満足をえるのである.」(Hegel1820: 187,上妻ほか訳(下)75頁).
*7: セックス,すなわちヘーゲルの解剖学的性差認識に関しては岡崎2021を参照のこと.岡崎によれば「イェナ期とベルリン期の自然哲学を比較することで,男女の性差や両性具有をめぐるヘーゲルの洞察のなかに,女性を発達の低次の段階に位置付けた上で男性をその発達型とする単線的な発達モデルから,同一の原基から女性あるは男性が形成されるという,いわば二極化モデルへの重点の移行が見られる」(岡崎2021: 89)という.

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