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スピノザ『神学・政治論』における聖書解釈

はじめに

 皆さんはスピノザ(Spinoza, 1632-1677)*1という哲学者をご存知でしょうか。スピノザはアムステルダムのユダヤ共同体のうちに生まれましたが、徐々にユダヤ教の教義に疑問を抱くようになり、また活発化していた反デカルト主義運動の潮流のため、ユダヤ共同体から「破門(へレム)」宣告を下されたと言われています*2。

 今回取り上げるのは、スピノザ『神学・政治論』(1670年)における聖書解釈論です。この本の扉にはハンブルクの出版社から出版されたと表記されていますが、それは架空の出版社であり、実際にはアムステルダムで出版されたといいます*3。私は、スピノザの提唱する聖書解釈の方法が、聖書のみならず他のあらゆるテクスト解釈においても通用する技法になり得るのではないかと考えています。

神学者の恣意的解釈に対抗するスピノザの聖書解釈

 ではスピノザはいかにして聖書を解釈するのでしょうか。スピノザによれば、聖書解釈の方法は、自然解釈の方法と同一だといいます。

こうした混乱を逃れ、神学上のさまざまな先入見から精神を解き放つためにも、また人間の思いつきを神の教えとして軽々しくもてはやさないためにも、わたしたちは本当の聖書解釈の方法を取り上げ、これを詳しく考察しなければならない。これを蔑ろにしては、わたしたちは聖書もしくは聖霊が説こうとしていることを、何一つ確実に知ることができないからだ。その方法をここで手短にまとめておくが、はっきり言うと、聖書を解釈する方法は自然を解釈する方法とまったく違わない。両者はむしろ完全に一致するのである。
(スピノザ 2014:304)
(Spinoza 1670:84)

「自然を解釈する方法」とはまさに自然科学だと言えるでしょうが、聖書解釈の方法がそのような自然科学的方法と同一であるならば、教義や信仰に頼ることなく、理論的に理解可能であるということになります。さらにスピノザは「自然解釈の方法」についてより詳しく次のように述べています。

自然の物語を取りまとめて、それをもとに、つまり確かなデータをもとに、さまざまな自然のものごとの規定を導き出す、というのが自然を解釈する方法のあらましである。聖書を解釈する場合もこれと同じなのだ。そこでは聖書の純正な歴史物語を取りまとめて、それをもとに、つまり確かなデータや原則をもとに、正しい帰結をたどって聖書作者たちの精神を導き出す、という作業が欠かせない。このようにすれば、誰でも(言うまでもなく、聖書を解釈しそこに含まれているものごとについて考察を進めるにあたって、聖書それ自体とその歴史的事情から取り出せないようないかなる原則もデータも認めない、という条件を守るならば、だが)誤りを犯す危険なしに進み続けられるし、わたしたちの理解力を超えることについても、自然の光によって分かることと同じくらい手堅く考察できるからである。
(スピノザ 2014:304〜305)
(Spinoza 1670:84)

「自然の物語」*4という言葉がやや引っかかる気がしますが、これは言い換えるなら、自然を観察して読み取ったことの束を表現したものと考えられます*5。

 ここでスピノザは「聖書それ自体とその歴史的事情から取り出せないようないかなる原則もデータも認めない」ことを聖書解釈の条件としていますが、これは言い換えるならば、聖書解釈とはテクストコンテクストからのみ引き出されなければならないということです。

 なぜこのようにスピノザが主張する必要があったのでしょうか。それは当時の神学者が自分たちの都合の良いように聖書を利用していたからです。

はっきり言っておこう。わたしたちの見るところでは、大部分の神学者たちは、どうすれば自分の思い込みや自分好みの考えを聖書からひねり出し、それらに神の権威をまとわせられるか腐心している。そのため彼らは他のことに従事している時にはありえないほど独断的で軽率な態度で、聖書あるいは聖霊の精神を解釈するのである。もしその際に不安材料があるとしても、それは聖霊[=聖書の精神]に何か誤ったことを読み込んで救いの道から外れることではない。彼らが恐れるのは、むしろ誤りを他人に暴かれることであり、またそれによって自分の権威を他人に踏みにじられ、軽んじられることなのだ。
(スピノザ 2014:301〜302)
(Spinoza 1670:83)

スピノザによれば、神学者たちによる聖書の誤読は、神の権威を自身の権威へと付け替えるための意図的な侵犯であり、このような誤りを犯すことに対して神学者たちは何も躊躇しなかったのだろうと思われます。スピノザが『神学・政治論』を書いたのも、まさにこのような実態を暴くためであったと言っても過言ではありません。そしてその萌芽は、すでにスピノザがユダヤ人共同体から破門された頃にあったと言われています。

おわりに

 先にみたように、スピノザの「聖書それ自体とその歴史的事情から取り出せないようないかなる原則もデータも認めない」という聖書解釈の条件を、私は「聖書解釈とはテクストとコンテクストからのみ引き出されなければならない」と理解しました。 

 しかしながら、スピノザから四世紀ほど経た現代にみられるのは、どちらかといえば脱文脈化*6という現象であり、これはとりわけTwitter上で散見されます。それは例えば、連続ツイートの一部だけを見てコメントが集まり、前後の文脈(コンテクスト)を考慮することなく自分の意見を主張し合うというような現象です。つまり、テクストとコンテクストからのみ解釈を引き出すというのは、解釈者に少しばかりの注意力と努力が必要となるのであり、そのような努力が困難な場合に我々のコミュニケーションにおいて不具合が発生するのかもしれません。

*1: スピノザの名前は「バルーフ」と「ベネディクトゥス」のどちらかで呼ばれる。「バルーフ」はヘブライ語で「祝福されたる者」という意味を持ち、「ベネディクトゥス」はラテン語で同一の意味を持つ。スピノザはユダヤ人共同体から破門される前は「バルーフ」を名乗り、破門後に「ベネディクトゥス」を名乗り始めたという(松田 2007:387)。

*2: この出来事の顛末については、ナドラー 2012を見よ。

*3:吉田量彦「訳者まえがき」(スピノザ 2014:18)。

*4: 上野修はこれを「博物学(自然史)」におけるそれとして理解している。「スピノザは自分の聖書解釈の方法が自然研究のそれと同じだと言う。なぜなら、自然現象と同様、聖書もまた自らが提示することがらの「定義」を含んでいないからである。だから聖書は「博物学(自然史)」のように、ひとつの資料体、「ヒストリア」として研究されねばならない」(上野 2014:120)。「語りの意味はいわば考古学的に復元されるべきものである。語られている内容が真理かどうかはとりあえず括弧に入れて考える。意味の復元のためには古代ヘブライ語の言語使用の規則、書き手の置かれた文化的・社会的・歴史的状況に関する実証的研究、そして語りのテーマの系統的分類、受容・編纂過程に関する資料研究、要するに博物誌でいう「ヒストリア」(実証的な研究データ)を整備しなければならない。こうしたヒストリアから導きだせないようなことはいっさい聖書の教えとして認めないこと、これが聖書解釈の一般規則である(第七章、上巻二三七頁)。実際、スピノザは『ヘブライ語文法提要』という草稿も残していて、近代的な文献学的聖書解釈の先駆けとさえ言われている」(上野 2014:43〜44)。

*5: 工藤喜作によれば、この箇所でスピノザはベーコンの帰納法を念頭に置いているという。「スピノザは右の引用文において「自然の歴史」という言葉を用いている。この「歴史」(ヒストリア)という言葉が、今日我々が用いている歴史という言葉と異なる意味をもっていることは、右の引用文から明らかである。この点、ザクはギリシア語のヒストリアと同じ意味でこの言葉が使用されていると主張する。つまりそれは「探求」、「探求されるもの」を意味しているのである。このように「歴史」という言葉をその語源から理解するならば、確かに前出の引用の「自然研究」の意味が通ってくる。このことからスピノザの考えた自然研究の方法は、探求される所与としての自然の事実から自然の諸物を定義づけて行く方法であると言える。この意味でザクは、スピノザが聖書解釈の方法と一致すると考えた自然研究の方法は、ベーコンの帰納的方法であると主張する。因みにベーコンもまた「歴史」という言葉をスピノザと同じ意味で使っているのである」(工藤 2015:36〜37)。

*6: 「脱文脈化」については一橋社会科学第7巻別冊〈特集:「脱/文脈化」を思考する〉(2015年3月)に収録された諸論文を参照せよ(例えば、大杉 2015)。

文献

Spinoza 1670, Tractatus Theologico-Politicus.
スピノザ 2014『神学・政治論(上)』吉田量彦訳、光文社(光文社古典新訳文庫).
ナドラー、スティーヴン 2012『スピノザ ある哲学者の人生』有木宏二訳、人文書館.
上野修 2014『スピノザ『神学政治論』を読む』筑摩書房(ちくま学芸文庫).
大杉高司 2015「序論 「脱/文脈化」を思考する」一橋社会科学 7(別冊)、3〜15頁.
工藤喜作 2015『スピノザ哲学研究』学樹書院.
松田克進 2007「Ⅷ スピノザ」『哲学の歴史』第5巻 デカルト革命【17世紀】、中央公論新社、375〜454頁.

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