芭蕉の「枯野」は「彼(かれ)野」なのです。「彼の世」なのです。「野」は『野ざらし紀行』なのです。
「あの世でも野ざらし紀行をやろう、楽しみだなあ」という歌なのです。いきいきシルバーライフを過ごせば、死ぬのは全然怖くないのです。怨念にまみれたリベラルは生きながらにして餓鬼道に落ちているのです。お迎えが近いというのに怯えている場合ではないのです。
旅に恋した芭蕉にとっては辞世の句などないのです。
『野ざらし紀行』の句なのです。
なぜ山でスミレが読まれないかというと、はえてないからなのです。
スミレは自家受粉してアリが種子を運ぶのです。近場にしかひろがらないのです。山にはえているスミレは人が植えたのです。誰が、いつ、なぜ、といったことを芭蕉は「ゆかし」と詠んだのです。江戸時代なので山道は暗く道もわかりづらいが、道標替わりのスミレを見つけると「道から外れていない」ことが確認できるのです。
芭蕉は万葉集に遡る歌の伝統にしたがっているのです。
俳人や絵描きは何かあると紙と墨壺をとりだして、さらさらと書くのです。今ならスマホなのです。