現代仮名遣いですが引用させていただくと
志賀がフランス語を選んだ根拠ははなはだ薄弱なのです。というより、どうでもいい感が漲っているのです。それなのになぜ国語を日本語から変えるのか?それは日本語を荒廃から守るためなのです。
ウィキペディアにはその後の発言があり
日本語が酷くなるのは使われるからであって、使われなくなればそのまま保存できるのです。ぱよぱよちーんといったネット用語も全部フランス語に押し付けるのです。この手の人たちの日本語観は平安期が頂点で、そこからどんどん悪くなっているのです。進歩史観の正反対なのです。
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「もののあはれ」は実は人類普遍なのです。アニメ映画『リズと青い鳥』のポスターの柄では
見えそうで見えないパンツのことなのです。「忍び/偲び」なので、パンツは二人の気持ちの隠喩になっており、ユリだということがわかるのです。「逢ふ心地」は陳腐な言い方では「リアリティ」や「いまここ」なのです。存在しえないパンツ…「いまここ」を作り出すのが文学のはたらきであり、「意味」はスカートに相当するのです(なのでかわいくある必要はあります)。
この絵には赤はほとんどなく、柵の錆だけなのです。床とあわせて雨を連想させますが、散らばった楽譜が床から少し浮いているので、反射しているのは水が溜まっているからではないとわかります。
みぞれがカメラ目線で見ているのは希美以外にはありえないので、この絵は希美が自分を見ている構図なのです。そうすると希美はみぞれに見られていることはわかっても気持ちが見えないし、自分の気持ちもよくわからないまま物事から目を逸らし、ありもしない遠くを見ている(という自覚がある)ことがわかるのです。みぞれがへたりこんでいるのは、意志の強さと裏腹に、気持ちを隠そうとしている(と希美には見える)のです。つまり、二人ともおたがいに何かやましい気持ちを抱いているのです。
屋上から落ちたりしないように柵があるわけですが、赤い錆が浮いていることから、長い年月とどこか危うい感じがするのです。何にせよ、飛べないのに飛ぼうとしても死ぬだけなのです。
みぞれは腕時計はしないのです。希美の腕時計は女子にしてはゴツいのですが、どうもリスカ跡を隠しているのではないかと思うのです。手首の内側を切るので、ポスター絵では隠れるのです。手を後ろに回しているのは、視点の自分と絵の自分の両方から見えないようにです。断じて胸を張っているのではないのです。絵には描かれていない腕時計は自分が買いに行ったものではなく、リスカの現場を見つけた教師にもらったと考えるのが自然なのです。リスカ跡もまた「逢ふ心地」なのです。
人物と床にフォーカスがあっているから、青い羽根はモノとして存在するならカメラの近くなのです。なのでみぞれからは見えているが、希美が見ている自分からは見えず、希美からは近すぎてわからない、となります。この羽根は希美の音楽の才能を暗示しているのです。
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世の中にはイコノロジーというものがあるのですが、これは「からごころ」なのです。
事実的主題はいいのですが、表出的主題になるともう解釈者の認知バイアスまみれなのです。またパンツのように「描かれていないもの」に全くの不注意なのです。「ありのままに見、描かれているものに意味を見出さず、描かれていないものに独りよがりではない想像力を使う」が第一歩なのです。つまり鑑賞もまた創造なのです。
現代日本では「青い鳥」は「幸福」を連想させるのです。しかし『リズと青い鳥』ではそれは薄く、「はばたく→才能」が鍵となる連想なのです。つまり「幸福」という連想を(一旦は)捨てる必要があり、むしろ最終的に芸術をもって幸福を意味づけしているのです。柵は鳥かごを連想させますが、こちらも「閉じ込めている」ではなく「大事にしている」なのです。
一流作品の元ネタは「広く知られているもの」「ググればすぐにわかるもの」ばかりなのです。なぜなら要で誰も知らないようなネタでイキるのはみっともないからなのです。
パノフスキーの解釈の是非はわかりませんが、「図像を生み出した社会や文化全体と関連づけて解釈」する、性急なからごころ野郎だとわかります。
しかし絵は「見ている者」の存在だけは疑うことができず、「MELENCOLIA I」(だけ)が正面を向いていることもまた疑えないから、先ほどのポスターなど多くの絵と同様、「見ているのは誰か?」を出発点に問うのがいいのです。たとえば「憂鬱なのは描かれている人物や動物ではなく、見ている者である」など。虹と強烈な日差しから雨上がりの蒸し暑さが連想され、ダルそうな人物や動物と合わせるとウンザリした気分にはなります。また、意味ありげな小道具から意味を読み取ろうとすると神経が衰弱しそうでもあります。
『ラス・メニーナス』もまた「見ているのは誰か?が重要なのです。
幼女様のスカートとその影の具合から、光源は向かって右上の窓明かりだとわかるのです。中央の四角は「国王夫妻が鏡に映っている」とされているのですが、光源の位置を考えると顔に光があたっているのはおかしいのです。つまりこれは「鏡ではありえない」のです。「絵」なのです。通常の肖像画と夫妻の位置が逆になっているのです。ここで絵の全体を見ると、「見るもの」描かれた国王夫妻が、「見られるもの」幼女様をあたたかく見守っていることに気がつくのです。結婚式と同じく、夫が左で妻が右なのです。そうすると鑑賞者もあたたかな気持ちになり、「鏡」に映っているのは自分自身の姿だとわかるのです。幼女様が見ているのは「両親」「未来」といったところなのです。そうすれば幼い頃の自分が両親に抱いていた気持ちも復活するのです。
描かれた夫妻からは視線が読み取れませんが、「見ているもの」「見られているもの」に注意すれば、幼女様以外にはありえないのです。もちろんこれもやまとごころなのです。両親の愛や子供そのものより大事なものはないから、巨大なキャンバスは「燻製ニシンの虚偽」なのです。
これでファイナルアンサーなのですが、ごく少数のわかっている人ははっきりとは書かないできたのです。
これらの批評家はわかっているのですが、大半の学者がやっていることはさしずめエヴァ談義なのです。ちゃんと見ると「旧劇エヴァは液モレ注意なのです!|天才🐾文学探偵犬|note」なのです。
しかし学者はからごころなので、このような問いは立てられないのです。イコノロジーは「何が描いてあるのか?」からは一歩も出られないのです。ディディ=ユベルマンはごく少数の例外かもしれません。
仏語のceは英語ではitなのです(queやquiは関係代名詞)。シェイクスピアの戯曲『As You Like It』やxvideosのit's comingなのです。これも鉄板の「逢ふ心地」なのです。
この手のものは実はわかってないコピペ野郎のほうがずっと多いのですが、「不安に満ちた不気味なものへと変えてしまうこの瞬間」はつまり「逢ふ心地」なのです。unheimlichは成語的には英語のunhomeliness相当ですが、「不気味なもの」は非常に誤解を生む訳で、「神秘的な・信じられない」といった肯定的な意味と両義的で、要するに日常体験から逸れているのです。
蓮實重彦先生も同じことを書いているのです。
蓮實先生がカギかっこつきで「フランス語」と書くときは、フランス語そのものとは連想的な関係にある別物なのです。「制度」は規範的意味のことでしょう。
これもまた「逢ふ心地」のことなのです。こういった「意味ならざるもの」は、とにかく大量に言い換えることで(正しさではなく)確信を高める必要があるのです。
ここでは規範的意味に含まれないもの、つまり「逢ふ心地」、陳腐な言い方では「いま、この瞬間に、ここにあるもの」を論じているのです。「『既知』と思われた領域の一劃に不意に不可解な陥没点を現出せしめ」は「描かれているスカート」が隠すパンツや「描かれていない腕時計」が隠すリスカ跡に気づくことなのです。
「厚顔無恥」は「からごころ」なのです。西洋ではプラトン以来、哲学=オ〇ニーなのです。この「哲学」はその意味で使われており、独りよがりではないということです。
魂は「精」のことです。「できるだけ魂(精〇)を肉体の交わりから解放する者であり」はい論破。愛するphilo-と知恵sophosから哲学philosophiaという言葉ができました。知恵とは「逢ふ心地」のことなのです。もののあはれとは「賢者タイム」のことなのです。リスカは「中がピンク色の割れ目から血を流す」ことなので、女の子の死の練習なのです。「知恵を基準にしてはじめて勇気・節制・正義などの真実の徳が生じるのであり」これは脳科学的事実なのです。
文学や美術や哲学からパクった上に直観に訴える例を自分で用意した犬っちは人類史上もっとも親切野郎だということがよくわかるのです。蓮實先生の『表層批評宣言』もこれで怖くないのです。
「不自由」=頭が不自由なのです。「普遍化された錯覚」はすなわち人類普遍の「忍びし人に逢ふ心地」なのです。
実際のところ、絵画も文学も鑑賞の仕方に違いはなく、特権的な「見る・読む自分」を排し、自分ではない仮想的な受け手をいくつも検討し、自分はその両者を同時に見なければならないのです。これがユベルマンの「『見ているもの』と『見られているもの』の時空が織り合わされること」につながるのです。
『国語問題』であれば、フランス語が国語になった100年後を想定すれば、志賀の文章は死語で書かれたものになっていることに気づくのです。そうすれば、江戸時代までの日本語や、現代から見た旧仮名遣いのように、志賀の時代の日本語もそれ以上は変わらないだろうし、日本語を読める世界各国の人にだけ自分の小説を読んでもらえればいいというのが真意だとわかるのです。つまり小説の神様はここで日本人読者のリストラをしているのです。
志賀はちゃんと「五十年、百年先の日本人」「吾々は日本人の血を信頼し」とヒントを出していますが、発言した著名人は残念ながら蓮實先生以外には「日本人の血」が通っていないようです。リスカしても血の出ないゾンビなのです。あと、大事なことですが、「感動」はからごころなのです。二流以下の作家は言葉が貧しいため、「感動」以外の表現が出てきませんが、つまりはやまとごころを失ったということなのです。
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やまとごころは現代ならこれなのです。確かに「感動」ではないのです。もちろん「全然気持ち悪くねーよ」はただのセリフではなく、作者が事実を述べているのです。
クセノポンはプラトンと同じくソクラテスの弟子ですが、彼の「饗宴」はプラトンの同名の著作に対抗して書かれたとされているのです。
新婚さんはこのあと何をするのでしょう?そう、シュンボライなのです。やまとごころは人類普遍なのです。
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志賀の文章の手掛かりは非常に薄弱な根拠と「国語問題」という題そのものであり、真意を理解できると「逢ふ心地」なのですが、文学の本流は今やアニメだということはもはや隠すこともできない事実なのです。
本居は遺言で「設定厨」が炸裂したのです(彼は「煽り厨」でもあります)。江戸時代にはメカがなかったので、冥土に旅立つための設定なのです。今なら宇宙戦艦ヤマトやガンダムや銀英伝なのです。日本のアニメは「からごころ(漢意)」、つまりイデオロギーや正義を排し、女子的な「やまとごころ(大和魂)」と男子的な「厨心」でできているのです。志賀は杞憂ではなかったが、日本語は斜めになったのです。
三島由紀夫も日本語の荒廃を嘆いていましたが
志賀のやまとごころが三島にはわからないのです。彼は小説では隠喩を駆使しているのでやればできるはずなのです。この辺が蓮實先生のお気に召さないのです。
だらだらと長くなったのでヤマトは別稿にするのです。