第9/準強制性交罪と抗拒不能の解釈
1 名古屋地裁岡崎支部平成31年3月26日判決
平成31年(2019年)3月に立て続けに下された性犯罪についての4つの無罪判決のうち3つについては、すでに検討を加えた。最後に取り上げたいのは、名古屋地裁岡崎支部で平成31年3月26日に下された無罪判決である。
この判決は、時期的に見ると4つのうちでは3番目に下されたものである。ただ、報道されたのは4月5日であり、最後だった。
この判決については、その後、民間の判例データベースの一部ではすでに収録され、全文を読むことができるようになっている。しかし、裁判所のサイトの裁判例データベースで公表されたワケではなく、裁判所のデータベースではいまだに見ることができない。
ここでは、まず、この判決について報道した毎日新聞の記事から見てみよう。最初に東京版では次のとおりである。
毎⽇新聞(2019年4⽉5⽇)東京朝刊
準強制性交等
⽗親に無罪、抵抗不能認めず 名古屋地裁⽀部判決
愛知県内で2017年、抵抗できない状態だった当時19歳の実の娘と性交したとして、準強制性交等罪に問われた男性被告に対し、名古屋地裁岡崎⽀部(鵜飼祐充裁判⻑)が「被害者が抵抗不能な状態だったと認定することはできない」として無罪(求刑・懲役10年)の判決を⾔い渡していた。3⽉26⽇付。
公判で検察側は「中学2年の頃から性的虐待を受け続け、専⾨学校の学費を負担させた負い⽬から⼼理的に抵抗できない状態にあった」と主張した。弁護側は「同意があり、抵抗可能だった」と反論していた。
判決は性的虐待があったとした上で「性交は意に反するもので、抵抗する意思や意欲を奪われた状態だった」と認定した。⼀⽅で被害者の置かれた状況や2⼈の関係から、抵抗不能な状態だったかどうか検討し「以前に性交を拒んだ際に受けた暴⼒は恐怖⼼を抱くようなものではなく、暴⼒を恐れ、拒めなかったとは認められない」と指摘した。抵抗を続けて拒んだり、弟らの協⼒で回避したりした経験もあったとして、「従わざるを得ないような強い⽀
配、従属関係にあったとまでは⾔い難い」と判断した。被告は17年8⽉に勤務先の会社で、9⽉にはホテルで、娘と性交したとして起訴された。
次は、同じ毎日新聞の中部版のものであるが、内容はほぼ同じである。最後の太字にした部分だけが付け加えられている。
毎⽇新聞(2019年4⽉5⽇)中部朝刊
準強制性交等
⽗に無罪判決 「強い⽀配、抵抗不能」認めず 名古屋地裁⽀部
愛知県内で2017年、抵抗できない状態だった当時19歳の実の娘と性交したとして、準強制性交等罪に問われた男性被告に対し、名古屋地裁岡崎⽀部(鵜飼祐充裁判⻑)が「被害者が抵抗不能な状態だったと認定することはできない」として無罪(求刑・懲役10年)の判決を⾔い渡していた。3⽉26⽇付。
公判で検察側は「中学2年の頃から性的虐待を受け続け、専⾨学校の学費を負担させた負い⽬から⼼理的に抵抗できない状態にあった」と主張した。弁護側は「同意があり、抵抗可能だった」と反論していた。
判決は性的虐待があったとした上で「性交は意に反するもので、抵抗する意思や意欲を奪われた状態だった」と認定した。
⼀⽅で被害者の置かれた状況や2⼈の関係から、抵抗不能な状態だったかどうか検討し「以前に性交を拒んだ際に受けた暴⼒は恐怖⼼を抱くようなものではなく、暴⼒を恐れ、拒めなかったとは認められない」と指摘した。抵抗を続けて拒んだり、弟らの協⼒で回避したりした経験もあったとして、「従わざるを得ないような強い⽀配、従属関係にあったとまでは⾔い難い」と判断した。
被告は17年8⽉に勤務先の会社で、9⽉にはホテルで、抵抗できない状態に乗じ、娘と性交したとして起訴された。弁護⼈は「疑わしきは被告⼈の利益にとする刑事裁判の原則にのっとったものだ」、名古屋地検の築雅⼦次席検事は「上級庁とも協議の上、適切に対応したい」としている。
この判決に対しては、その後、検察側が控訴しているようだ。
2 判決に対する世間の反響
この判決は、そのショッキングな事案内容とも相俟って、ネット上でも最も大きな反響を呼んだものと言ってよい。最終的には、この判決が引き金となってスタンディングなどの批判行動が起こったと言っても過言ではないだろう。裁判長の顔写真はネットでも晒され、非常識な裁判官として激しく非難された。
確かに、この新聞報道を見る限り、この判断には理解しがたいところがある。すなわち、この訴訟において、検察側は「中学2年の頃から性的虐待を受け続け、専⾨学校の学費を負担させた負い⽬から⼼理的に抵抗できない状態にあった」と主張し、裁判所も「性的虐待があった」とは認定した。
そのうえで、裁判所は、被害者にとって「性交は意に反するもの」で、被害者が「抵抗する意思や意欲を奪われた状態だった」とも認定している。
しかしその一方で「従わざるを得ないような強い⽀配、従属関係にあったとまでは⾔い難い」などと判断し、結論的には「被害者が抵抗不能な状態だったと認定することはできない」として無罪を言い渡したようなのだ。
つまり、
①被害者が被告人から性的虐待を受けていたことは事実
②性交が被害者の意に反するものであったことも事実
③被害者が抵抗する意思や意欲を奪われた状態だったことも事実
としたうえで、
④被害者は強い支配、従属関係にあったとまでは言い難い
⑤被害者が抵抗不能な状態だったと認定することはできない
と判断しているのである。
①②③と来れば、素直に考えれば「抗拒不能」が認められて「準強制性交罪が成立する」と進みそうなものなのだが、どういうわけか、④で支配・従属関係が否定され、⑤で抗拒不能が否定され、結果、無罪となっているのでる。これは、だれだって、疑問を抱くだろう。
もちろん、③から④へと至る判断には、それなりの理由があったのだろうが、記事で書かれているのは
⑥以前に性交を拒んだ際に受けた暴⼒は恐怖⼼を抱くようなものではなく、暴⼒を恐れ、拒めなかったとは認められない
⑦抵抗を続けて拒んだり、弟らの協⼒で回避したりした経験もあった
ということだけである。
しかし、これだけの記述では、なぜ本件実行行為時に抵抗が可能だったという認定になってしまったのかは、にわかには納得できないだろう。
ただ、この点が新聞記事から判決を批判する際の怖いところで、判決では当然もっと多くのことが書かれているはずなのだ。だが、記事にはこれだけしか書かれていないわけで、このわずかな情報だけを前提として判決を批判することは、とても危ないと言えるのだ。
そこで、判決文の公開が強く望まれたワケであるが、前述したとおり、裁判所のサイトの裁判例データベースでは、いまだに搭載されていない。
現在は、次のブログから見ることができる。いろいろな、裁判例が混ざっているので、探してみてほしい。「2019.05.18」の記事のところである。
3 判決文を読んでみて
判決文を読んでみた。
(1)公訴事実
この件の公訴事実は、2つある。
被告人は,同居の実子であるX女(当時19歳)が,かねてから被告人による暴力や性的虐待等により被告人に抵抗できない精神状態で生活しており,抗拒不能の状態に陥っていることに乗じて,X女と性交しようと考え,平成29年8月12日午前8時頃から同日午前9時5分頃までの間に,●県●市所在の●●会議室において,同人と性交し,もって人の抗拒不能に乗じて性交をした(平成29年11月7日付け起訴状記載の公訴事実)
被告人は,同居の実子であるX女(当時19歳)が,かねてから被告人による暴力や性的虐待等により被告人に抵抗できない精神状態で生活しており,抗拒不能の状態に陥っていることに乗じて,X女と性交しようと考え,平成29年9月11日午前11時3分頃から同日午後零時51分頃までの間に,●県●市所在のホテル●●において,同人と性交し,もって人の抗拒不能に乗じて性交をした(平成29年10月11日付け起訴状記載の公訴事実(但し,同年11月7日付け訴因変更請求書による訴因変更後のもの))
(2)争点
この事件において、公訴事実記載の各日時・場所において、被告人がX女と性交に及んだことは、被告人自身も認めており、証拠上も明らかで、争いにはなっていなかったようだ。
つまり、
・X女は、被告人の実子である。
・X女は、事件当時19歳であり、被告人と同居中だった。
・第1の公訴事実では、被告人はX女と、平成29年8月にある会議室で性交をした。
・第2の公訴事実では、被告人はX女と、平成29年9月にあるホテルで性交をした。
という事実には、争いがないのである。
問題となっていたのは、次の4点だ。
第1に、X女が事件当時、抗拒不能の状態であったか?
第2に、X女が抗拒不能であったとして、被告人はこれを認識していたか?
第3に、X女が性交に同意していなかったか?
第4に、X女が性交に同意していなかったとして、被告人はこれを認識していたか?
刑法第178条第2項が規定する「準強制性交罪」では、「人の心神喪失若しくは抗拒不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて、性交等をした」ことが構成要件である。
そこで、第1に、事件の際、Xが「抗拒不能」の状態であったという行為状況が否定されれば、被告人の行為は「抗拒不能に乗じ」たことにはならず、被告人の行為は、準強制性交罪の客観的構成要件に該当しない。
第2に、仮にこれが肯定されても、被告人には、Xが抗拒不能であったこと認識がなかったということになれば、被告人には、主観的構成要件要素である「構成要件的故意」がないので、やはり構成要件該当性が否定される。
第3に、これらのいずれもが肯定され、そのため被告人に準強制性交罪の構成要件該当性が認められたとしても、もしX女がその自由な意思決定において被告人と性交することに同意していたのであれば、違法性阻却事由である「被害者の同意」が認められ、違法性が阻却されて、やはり被告人には犯罪は成立しなくなる。
そして第4に、仮に、客観的には「被害者の同意」が認められなかったとしても、被告人が被害者の同意を誤信していたのであれば、いわゆる「違法性阻却事由の錯誤」であり、責任段階での故意(責任故意)が阻却され、やはり被告人に故意犯は成立しないことになる。そして、過失による準強制性交罪は存在しない以上、結局、犯罪は成立しない、ということになる。
つまり、①X女が当時抗拒不能で、②被告人もそのことを認識し、しかも、③X女は被告人との性交を同意しておらず、かつ、④そのことを被告人が認識しつつX女との性交に及んだのだ、ということが立証されて、はじめて被告人には、準強制性交罪が成立する、ということだ。
(3)争点に対する裁判所の判断
そして、この点に対する裁判所の判断はどうだったかと言えば、次のとおりである。
当裁判所は,本件各性交に関していずれもX女の同意は存在せず,また,本件各性交がX女にとって極めて受け入れ難い性的虐待に当たるとしても,これに際し,X女が抗拒不能の状態にあったと認定するには疑いが残ると判断したので,以下,説明する。
つまり、上記①から④までのうち、①について「認定するには疑いが残る」とした。つまり、①の「抗拒不能」が証明されていないということだ。
そして、証明されていないということになれば、「疑わしきは被告人の利益に」という刑訴法の大原則により、抗拒不能ではなかったものと扱われ、犯罪の成立が否定される。
具体的な法律の条文で言えば、刑事訴訟法第336条が規定している。
第336条 被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない。
ここに「被告事件が罪とならないとき」とは、検察官が公訴事実として主張した事実が全然犯罪ではなかったという場合であり、検察官が、刑罰法規の解釈を誤り、まったく犯罪でない行為を起訴してしまったような場合である。これに該当する場合は、比較的起こりにくい。
もう1つの「被告事件について犯罪の証明がないとき」が、多くの場合の無罪判決の場合であり、ここに規定されているとおり、「犯罪の証明がない」ときは、裁判官としては「判決で無罪の言渡をしなければならない」とされているのである。
そして、本件の裁判官たちは「抗拒不能についての証明ができていない」と判断し、よって「犯罪の証明がない」と判断したのである。
(4)なぜ「抗拒不能」が証明できていないとされたのか?
裁判所は、上記引用部分のとおり、性交に対するX女の同意がなかったことも、被告人のX女に対する各行為が性的虐待に当たることも認定した。それなのに、なぜ「抗拒不能」については否定したのだろうか?
この点が、この判決に対する最大の疑問であろう。
そして、判決文は、この疑問に答えるように「第3 前提となる事実関係等」「第4 本件各性交に関するXの同意の存否について」「第5 Xが抗拒不能であったか否かについての検討」と、かなりの分量を割いて、そのような結論に至った論理過程を説明している。
まあ、その内容をここに引用してみても仕方ないし、興味のある方は判決文のこの箇所を直に読んでみたほうがよい。ここでは、私がこれを読んで感じたことを指摘するに留めたい。
まず、この裁判体は、被告人の言い訳については、ほとんど信用していない。例えば「第3 前提となる事実関係等」における、被告人の弁解供述に関する部分では、最後に次のように締め括っている。
以上のとおり,被告人の当公判廷における供述は,信用できるX女の供述と矛盾する上,その核心部分において不合理・不自然な点を多々含むものであって,到底信用することはできない。
また「第4 本件各性交に関するXの同意の存否について」の判断においても、次のように述べられている。
そもそも,被告人は,X女にとって実の父親であり,通常はX女にとって性的関心の対象となり得る存在ではなく,X女が被告人をそのような存在としてみていたことをうかがわせる事情もない。……
……これらのことからすれば,本件各性交を含めて被告人との間の性的行為につき自分が同意した事実はない旨のX女の供述は信用でき,本件各性交以前に行われた性交を含め,被告人との性交はいずれもX女の意に反するものであったと認められる。
よって,この点に関する被告人の弁解供述は採用できない。
このように、この裁判体は、被告人の弁解供述をケチョンケチョンに否定していて、まったく信用していないのである。
その一方で「第3 前提となる事実関係等」「第4 本件各性交に関するXの同意の存否について」の認定に際しては、X女の供述が信用できるものとして採用され、ほとんどこれに沿う内容で認定されている。
つまり、この裁判体は、被害申告をしているX女の供述を、ほとんど全面的に信用し、採用しているのだ。
しかも、その内容には、X女が中学2年の冬頃から被告人がX女と性交を行うようになったこと、その頻度が高校を卒業するまでの間、週に1、2回程度であったこと、X女が高校を卒業し、平成28年4月に専門学校に進学してからも性交は継続し、しかも頻度が増加し週3、4回程度となっていたこと、その年の夏から秋ころの時期にX女は、弟たちに同じ部屋で寝てもらうなどして被告人から性交されないよう工夫していたこと、しかし、弟たちが同じ部屋で寝なくなると、被告人から再び性交等をされるようになったこと、平成29年7月後半から8月上旬ころ、X女が抵抗したことで被告人から殴る、蹴るなどの暴行を受けたこと、などが含まれていて、その事実自体、非常にショッキングなもので、X女に対する強い同情を禁じ得ない内容が認定されているのである。
この「前提となる事実関係等」だけからしても、常識的には「この父親はクズだ」と言って差し支えないレベルだと思うし、この裁判体自体も、本件の被告人に対してこのような印象を抱いていたのではないか、と思われる記述が、判決文には散見される。
そして、この裁判体がした事実認定は、非常に詳細なものであり、そのほとんどがX女自身の供述に沿うものであって、被告人を無罪とするためにあえて被害者に不利な認定をした、というような事跡は、ここには一切認められない。
つまり、事実認定自体は、X女に対して非常に同情的なものだと言える。
では、なぜ、それにもかかわらず、この裁判体は「抗拒不能」を否定したのか? その理由は「第5 Xが抗拒不能の状態であったか否かについての検討」で説明されている。
(5)「抗拒不能」の解釈
判決文では、第5の「1」において、次のように述べられている。
1 刑法178条2項は,意に反する性交の全てを準強制性交等罪として処罰しているものではなく,相手方が心神喪失又は抗拒不能の状態にあることに乗じて性交をした場合など,暴行又は脅迫を手段とする場合と同程度に相手方の性的自由を侵害した場合に限って同罪の成立を認めているところである。
そして,同項の定める抗拒不能には身体的抗拒不能と心理的抗拒不能とがあるところ,このうち心理的抗拒不能とは,行為者と相手方との関係性や性交の際の状況等を総合的に考慮し,相手方において,性交を拒否するなど,性交を承諾・認容する以外の行為を期待することが著しく困難な心理状態にあると認められる場合を指すものと解される。
したがって,本件においても,X女が本件各性交に同意していなかったとしても,このことをもって直ちに準強制性交等罪の成立が認められるものではなく,X女が置かれた状況や被告人とX女との関係性等を踏まえて,X女が上記のような心理状態に陥っていたと認められるかどうかをさらに検討する必要があり,このような検討の結果,X女の心理状態が上記の状態にまで至っていることに合理的な疑いが残る場合は,同罪の成立を認めることはできないこととなる。
この点は、まず、裁判体が、ここで行うべき判断の枠組みを示したものだ。
以前にも確認したように、準強制性交等の罪(刑法第178条第2項)の法定刑は、強制性交等の罪(第177条)と同じで「5年以上の有期懲役」とされている。
そして、このことは準強制性交等の罪の構成要件の解釈にも、当然に影響し、その適用範囲を強制性交等の罪と同程度の悪質性をもつものに限定するような解釈へとつながるものである。
強制性交等の罪の構成要件は「13歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いて性交、肛門性交又は口腔性交をした」ことであるが、これは、もう少し細かく言えば、暴行・脅迫を用いて、相手方を反抗が著しく困難な状態に陥れ、その状態を利用して性交等をした、ということである。
つまり、性交等は、相手方の反抗が著しく困難な状態という「行為状況」のもとで行われなければならない。
そして、構成要件上この「反抗が著しく困難な状態」が要求されるという解釈は、当然に、準強制性交等の罪にも引き継がれることになる。
つまり、準強制性交等の罪にいう「抗拒不能」とは、身体的(物理的)な事情や心理的な事情によって、反抗が著しく困難な状態を意味する、ということになる。
もちろん、このような解釈も、解釈の1つにすぎず、裁判所には法の解釈権があるのであるから、別の法解釈を採用することも、もちろん不可能ではない。
例えば、旧・強姦罪の「暴行」「脅迫」をめぐる解釈においても、事実「その強弱大小は問わない」という解釈を主張する学説も存在していたのだ。
しかし、上記のような解釈は、これまでの最高裁判所の確定的な解釈であり、地方裁判所がこれと異なる独自の解釈を採用し、これを前提とした判決を下したとしても、その解釈がよほどの強い論拠に支えられているのでなければ、上級審である高等裁判所や最高裁判所で覆されることは目に見えている。
しかも「抗拒不能」についての上記のような解釈は、上述したような強制性交等の罪と準強制性交等の罪との法定刑の比較だけでなく、さらには、強制性交等罪と強盗罪との構造の類似性、昏酔強盗罪と準強制性交等の罪との類似性、これらの法定刑の同一などという事情にも支えられており、かなり動かしがたい解釈となっているように思われる。
そういう意味では、この事件の裁判体が、この事件に対する処理の出発点として「抗拒不能」についての従来からの公権的解釈を前提としたこと自体は、基本的な姿勢として間違っているとは言えない。と言うか、裁判所の態度としては、ごく当たり前である。
(6)「抗拒不能」か否かの評価
では、X女が事件当時「抗拒不能」であったか否かについての評価については、どうだろう?
実は、判決文では、この点において、裁判体が非常に悩んだフシが窺われる。判決文では、抗拒不能に傾く事実や証拠、抗拒不能といえる状態にまでは至っていなかったのではないかと思わせる事実的要素などが、詳細に比較され検討されている。
私も、判決文を読んでみたが、判決文だけではどちらとも判断しかねる感じがする。
もちろん、実際の法廷に立ち会い、X女の供述態度などを観察し、その他の証拠を吟味するなどすれば、あるいは、ある一定の心証に到達することができるのかもしれないが、少なくとも、証拠に直接接することなく、判決文から提供される情報だけで「こうだ」と言い切れるほど、事態は単純ではない。
そして、裁判所は、最後に、次のように述べる。
……以上説示した事情によれば,本件各性交当時におけるX女の心理状態は,例えば,性交に応じなければ生命・身体等に重大な危害を加えられるおそれがあるという恐怖心から抵抗することができなかったような場合や,相手方の言葉を全面的に信じこれに盲従する状況にあったことから性交に応じるほかには選択肢が一切ないと思い込まされていたような場合などの心理的抗拒不能の場合とは異なり,抗拒不能の状態にまで至っていたと断定するには,なお合理的な疑いが残るというべきである。
つまり、X女の当時の心理状態について、ああだ、こうだと検討を加えた結果、「抗拒不能の状態にまで至っていたと断定するには,なお合理的な疑いが残る」という結論なのである。
これは、もう少し簡単に表現すれば「X女が当時、心理的抗拒不能の状態だった、とは断言できない」ということだ。
(7)合理的な疑いを超える程度の心証
刑事訴訟において、検察官は、犯罪事実を証明しなければならない。前述したように、これが証明できていなければ、裁判官は、判決に際して、無罪を言い渡さなければならない(刑訴法第336条)。
ここに「証明」とは、裁判官に確信を抱かせることをいう。
では「確信」とは何か?
これは「合理的な疑いを超える程度の心証」であると言われる。
では「合理的な疑い」とは何か?
裁判での事実の認定は、裁判官が直接現認しない過去の事実について、証拠を通じて推認する作業であり、それはあくまで人間のすることであるから、そこに「絶対に」とか「100%」などというものを求めることはできない。
しかし、その一方で、人に対して刑罰を科すという重大な判断をするのであるから、私たちが日常生活での行動の基礎にしている「きっとそうだろう」とか「たぶんそうに違いない」などというような生半可な心証で有罪としてよいとも考えられない。
そこで基準とされているのが「合理的な疑いを超える」ということである。
ここに「合理的な疑い」とは、何らの根拠のない不安感などではなく、一応の理由のある可能性を意味する。
私は「合理的な疑いを超える」ということの意味を、よく「ひょっとして」は無視してよい、と表現している。つまり、私たちは、証拠から過去の事実を推認するとしても、人間のすることである以上、漠然とした不安に襲われることはある。
「いや、ひょっとして事実はそうでなかったのではないか?」
という漠然とした不安である。しかし、この不安に、何らかの根拠があるかと言えば、そうではない。そして、そのような漠然とした不安は無視して差し支えない、というのがその趣旨である、と理解している。
逆に言えば、何らかの根拠のある不安が残る場合は、無視してはいけないということであり、刑事訴訟上は「証明」には至らないということになる。
そして、このような観点からみたとき、Xが事件の際に抗拒不能であったか否かについて、この裁判体はどう考えたのか?
裁判体は、その評価にあたり、X女がそこまでの状態に至っていなかったとのではないか、と思われるような事実的根拠を複数掲げているのである。
つまり「合理的な疑いが残る」ということだ。
もちろん、この裁判体だって「抗拒不能であったか、抗拒不能でなかったか、どちらのほうがありそうな事実だと思うか?」とか、「どちらのほうが真実だと思うか?」と問われれば、きっと「抗拒不能だったと思う」と答えただろう。
これを「証拠の優越」と言う。
しかし、刑事訴訟における証明は「証拠の優越」ではダメなのだ。それは「確信」でなければならないのである。
そして「確信」とは、比喩的に表現するならば「心証の針」が60%でも、70%でも、80%でもダメで、90%でもダメで、99%にまで至ってようやくOKが出る、というほどに厳しいハードルである。
なぜなら「合理的な疑い」が1つでもあったらダメだからだ。
だから「おそらく、X女は抗拒不能の状態であったろう」と裁判体が仮に判断していたとしても、それでは「抗拒不能」を認定することはできない。裁判所としては「合理的な疑いが残る」したがって「証明はできていない」との結論を導かなければならないのだ。
そうしてみると、無罪という本件に対する結論は、裁判所にとっても、いわば「苦渋の決断」だったのではないか、と思われるのである。
(8)調書作成状況
ところで、この裁判体が、X女に対して同情的である一方で、被告人に対してはまったく信用しておらず、判決文にも、被告人に対する非難めいた言葉が散見されるのであるが、この判決文を見ると、もう1人、裁判体が冷たく非難している人物がいる。
取調べを担当した検察官だ。
判決文の最後のほうで、それは登場する。少し長いが、重要な部分なので引用しよう。ここに出てくる「乙・・」とか「甲・・」とは、検察官が証拠を裁判所に提出する際に付ける記号である。
なお,関係証拠中には刑事訴訟法322条1項に基づきその全部又は一部を証拠採用決定した被告人の供述調書(乙3,乙4不同意部分,乙5,乙9から11まで及び乙16の各不同意部分。いずれも被告人の署名及び指印があるもの。)があるところ,上記各供述調書中には,被告人において,X女が,父親である被告人に逆らえず,幼い頃から被告人の言うことを聞かないと暴力を振るわれ,性的虐待を受けるようになってからは抵抗しても被告人に押さえ付けられて無理矢理性的行為をされることから,被告人に抵抗できなくなっていた事実を自認している供述部分(乙9)や,被告人から暴力を振るわれたり,性的虐待を繰り返し受けたりしたことから,逆らっても無駄だと逆らえない状態になっているとの認識を被告人が有していた事実を自認している供述部分(乙10)が存在する。
しかしながら,各供述調書に係る取調べの様子を録音録画したDVD(甲35,37,39,41,44,45)を検討すると,上記供述部分については,同供述部分に対応する被告人の供述が見当たらないか,取調べを担当した検察官が断定的に問い質した内容に対して被告人が明示的に否定しなかったことをもって被告人が供述したかのような内容として記載されていることが確認できるところであり,このような調書作成状況からすれば,本件におけるX女の心理状態及びこれに関する被告人の認識を検討するに当たり,前記乙9,10の各供述部分は判断の資料とすることはできないと考える。
これは、非常にラフな言い方をすれば、検察官が被告人の取調べをし、その結果を供述調書にまとめる際、被告人が言ってもいないことを検察官が作文したということを裁判所が非難しているのである。
こういう供述調書の作成の仕方は、むろん違法であるが、昔は結構やられていた。取調べの可視化、つまり取調べ状況の録音・録画の導入も、このような不適正な取調べを防止しようというものである。
ところが、この事件の検察官は、このような旧態依然とした取調べを、性懲りも無く続けていたということだ。しかも、それが、録音・録画によって判明してしまったということなのである。
そのため、被告人の供述調書のうち、検察官が勝手に作文をした部分は、証拠から排除されたのだ。
この事件の判決文がネット上で読めるようになって、弁護士たちがこれを読んだ際、一様に「どひゃーッ!」と驚いたのは、何よりも判決のこの部分だった。
これは、刑事弁護をやっていての実務的な肌感覚なのだが、無罪判決が出るときというのは、何らか捜査機関の側に不正や怠慢などの落ち度が見られることが多い。
つまり、日本の刑事裁判では、ほとんどの裁判官は検察官と「べったり」で、弁護側は最初からアウェー感たっぷりなのがデフォルトなのだが、そんな中でも、時々、訴訟が進行してゆくに連れて捜査側の不正や怠慢が次々と露見し、これには裁判官もさすがに呆れ、
「お前ら、何やってんだッ!(怒」
という感じになると、無罪が出る、という印象は確かにある。
いわば「可愛さ余って憎さ百倍」という感じの無罪判決である。
つまり、無罪判決には、検察官の捜査や訴訟追行に対する非難という意味が込められているという側面があり、本件でも、被告人もとんでもないヤツだが、あんな作文をしているような取調べの検察官もまたとんでもない、という印象を裁判体が抱いたのではないか、という感じがする。
そして、うがった見方をすれば、そうしたところが、この事件における無罪判決の「最後のひと押し」になったのではないか、という気がしなくもない(なお「ラスト・ストロー」という言葉は、気分が悪いので使いたくないのだが、そういうこと)。
(9)全体的な感想
以上、本件の判決文を読んでみたうえでの感想を順々に述べてきたが、全体の感想としては、この判決は、保守的で手堅い判決だという印象だ。
事実認定も詳細だし、解釈も従来の確定的な公権的解釈を前提としている。
「抗拒不能」か否かの評価にしても、合理的な疑いを超える心証に至っているかを問う刑事訴訟法の大原則に忠実な判断であるように感じられる。
ただ、そうは言っても、この事件の被害者X女は、非常に気の毒であり、また、被告人は父親として最低であって、なんとかできなかったのか、という気持ちは、正直残る。
ただ、平成29年の刑法改正で、準強制性交罪の法定刑は、下限が「3年」から「5年」の懲役になり、このような状態の下で「抗拒不能」という要件の解釈を緩和するという選択肢は考えにくいだろう。
唯一残るのは「抗拒不能」に該当するか否かの評価の点なのだが、この点は証拠を見ていないので何とも言えないが、「合理的な疑いを超える」という心証までに至っていると言えるのか、と問われれば、そうでないことを示すような事実的要素もあり、難しいのかもしれない。
本件は検察側が控訴しているようであり、控訴審では、あるいは判断がひっくり返るのかもしれない、とは思う。
4 何が悪いのか?
この事件の被害者(あえて被害者という言葉を使うが)は、中学2年生のときから、父親である被告人に不本意な性交等を強いられ、性的虐待を受けてきた。それが「抗拒不能」というところにまで至っていたかどうかはともかくとして、判決も認定しているように、不本意な性交等であったことは疑いなく、どんなにか辛い日々を送ってきたであろうことは想像に難くない。
その意味では、本件2つの公訴事実に至るまでの間に、この父親には、娘に対する多数の性的虐待の事実あり、それらは当罰性の高い行為であったと言えると思う。
これらは、当時明らかとなっていれば、児童福祉法違反などで立件することもできたであろうと思われる。
しかし、さまざまな事情から当時、被害者はこれを表沙汰にすることはできず、ようやく被害申告ができたのは、19歳になった後の、平成29年になってからだった。
ちょうど、平成29年6月には、刑法の性犯罪に関する規定が改正され、「監護者性交等の罪」が新設されたのである。この罪は、次のように規定されている。
(監護者わいせつ及び監護者性交等)
第179条 18歳未満の者に対し、その者を現に監護する者であることによる影響力があることに乗じてわいせつな行為をした者は、第176条の例による。
2 18歳未満の者に対し、その者を現に監護する者であることによる影響力があることに乗じて性交等をした者は、第177条の例による。
これによれば、まさにこの父親のように、娘に対し「現に監護する者であることによる影響力があること」に乗じて「性交等」をしたという場合、同罪によって、強制性交等の罪(第177条)と同じ「5年以上の有期懲役」という重い刑で処罰をすることが可能となった。
しかしながら、この刑法改正がなされたのは、本件の被害者がすでに19歳になった後である。新たに作られた刑罰法規は、過去に遡って適用されることはなく(刑罰法規不遡及の原則。日本国憲法第39条前段)、この「監護者性交罪」が、本件の被告人に適用されることはない。
もっとも、この罪は使えなくても、それ以前からも児童福祉法違反で処罰することは可能であった。すなわち、児童福祉法第34条第1項第6号は「児童に淫行をさせる行為」を禁止しており、これに違反した者には「10年以下の懲役若しくは300万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する」としているからである(児童福祉法第60条第1項)。
もっとも、ここにいう「児童」とは、「満18歳に満たない者」をいうから、18歳以上ではこれに当たらない。
そうすると、この父親を児童福祉法違反で処罰しようとする場合、被害者が17歳だったころの事実を特定し、公訴事実としなければならないことになる。しかし、現実問題として、被害申告から1年以上前の事実を公訴事実として特定し、証拠を集め、立証する、というのはかなり無理がある。
そこで、この事件の検察官としては、被害者の記憶も新しく、証拠の収集も可能な直近の平成29年8月と9月の事実に絞り、これを公訴事実とし、準強制性交罪として起訴したものと推察される。
しかし、結論から見れば、準強制性交罪における「抗拒不能」のハードルは予想以上に高すぎたのだ。
5 結びとして
では、最後に、結びとして、どうすればよかったのか、あるいは、これからどうすればよいのか、について考えてみたい。
(1)早期の被害申告
まずは、もっと早くに被害申告がなされていればということがある。これは何とも悔やまれることではあるが、しかし、被害者としても、17歳当時はいろいろに悩むところがあり、被害申告には至ることができなかったという事情にもうなずける。だから、悔やまれはするが、このことで被害者を責めることなどできるはずもない。
だが、本件被害者を離れ、現在、まさに実父等の監護者から性的虐待を受けている17歳以下の少年・少女であれば、とにかくいち早く被害申告をすれば、加害者は「監護者わいせつ罪」や「監護者性交等の罪」(刑法第179条)によって処罰されることになる。
だから、現在、もしそういう状況に置かれている17歳以下の人がいれば、このことはぜひ知っておいてほしいと思う。
(2)立法的解決
次には、やはり立法的解決である。実際、今回、起訴された「被害者が19歳当時の実父による性交」も、当罰性の高い行為であると思われる。しかし、現時点では、この行為を処罰する刑罰法規はない。そこで、この問題に正面から対応するのであれば、何らかの立法的な手当をするしかない、と思われる。
そして、その際の選択肢としては、次の3つがあるように思われる。
第1は、不同意性交等の罪(不同意堕胎罪型)の創設である。
第2は、恐喝性交等の罪の創設である。
この2つについては、前回、詳細に検討したところなので、ここでは繰り返さない。ただ、今回の事件でも、この2つのいずれかがあったならば、被告人は有罪となっていただろう。
第3は、現在の監護者性交等の罪の適用年齢の引上げである。
本件の被害者は、当時19歳であったが、経済的には自立しておらず、被告人らと同居していた。現在の監護者性交等の罪の対象者は「18歳未満の者」であるが、しかし、18歳以上であっても、経済的に自立していない場合、同人に対してはやはり監護者(成人していれば、正確には監護者ではないが)の影響力が大きく働くことがある。だから、これに乗じて、監護者が対象者に対して不本意な性交等を強いる場合も往々にして考えられる。それゆえ、監護者性交等罪の対象者の適用年齢を引き上げることには、合理的な理由があると思われる。
具体的には、現在の「18歳未満の者に対し、その者を現に監護する者であることによる影響力があることに乗じて性交等をした」場合に加え、
「25歳未満の同居の者に対し、その者が現に経済的に依存する者であることによる影響力があることに乗じて性交等をした」という場合をも構成要件に加えるのがよいのではないか、と考えるが、どうだろう?
もっとも、この文言だと、配偶者の一部もこれに該当してしまうことになりそうなので、文言自体は、もう少し練る必要があるかもしれない。
いずれにしても、本件を通じての経験的な学びは、たとえ18歳以上であっても、経済的に自立しておらず、実家に同居し、親等に依存しているという状態にある場合には、実父等からこのような性的虐待を受けることがあり、かつ、これに対して不本意ながらも従わざるをえないという関係性が存在するということである。そして、このような状況下において対象者を保護するための何らかの手当が是非とも必要だ、ということである。
そして私としては、上記3つの方策のうちでは、第3、あるいは第2がよいのではないか、と現時点では考えている次第である。