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『モオツァルト』 小林秀雄

5

 美は人を沈黙させるとはよく言われる事だが、この事を徹底して考えている人は、意外に少いものである。

優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬ或るものを表現していて、これに対しては学問上の言語も、実生活上の言葉も為す処を知らず、僕等は止むなく口を噤むのであるが、一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちているから、何かを語ろうとする衝動を抑え難く、而も、口を開けば嘘になるという意識を眠らせてはならぬ。

そういう沈黙を創り出すには大手腕を要し、そういう沈黙に堪えるには作品に対する痛切な愛情を必要とする。美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって、妙な言い方をするようだが、普通一般に考えられているよりも実は遥かに美しくもなく愉快でもないものである。

p21

6

十六歳で、既に、創作方法上の意識の限界に達したとは一体どういう事か。

「作曲のどんな種類でも、どんな様式でも考えられるし、真似できる」
と彼は父親に書く。併し、そういう次第になったというその事こそ、実は何にも増して辛い事だ、とは書かない。書いても無駄だからである。(中略)

 天才とは努力し得る才だ、というゲエテの有名な言葉は、殆ど理解されていない。努力は凡才でもするからである。然し、努力を要せず成功する場合には努力はしまい。彼には、いつもそうあって欲しいのである。天才は寧ろ努力を発明する。

p25

11

模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引離して了ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣できぬものに出会えようか。

僕等は、今日でもなお、モオツァルトの芸術の独創性に驚く事が出来る。そして、彼の見事な模倣術の方は陳腐としか思えないとは、不思議な事ではあるまいか。
 モオツァルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたという事であった。

p67-68

4

無用な装飾を棄て、重い衣装を脱いだところで、裸になれるとは限らない。何も彼も余り沢山なものを持ち過ぎたと気が付く人も、はじめから持っていなかったものには気が付かぬかも知れない。

p20


第8章の悪魔に喰われたスタンダアルの話も好きなのですが切り取りが難しく、全体の流れで読まないと良さが消えてしまう気がしたので省略しました。

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