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ヨーロッパのカフェ文化の変遷と人生のゆとり
再びボルドーです。マラソン大会の翌日。
フランスのカフェ文化は、今更ですが、一応今一度体験しておきたいと思い、典型的なカフェでエスプレッソを飲んでみました。
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如何にもフランスです。席があればテラス席でゆったりと心ゆくまで、仲間がいれば語り合う。一人であれば瞑想にふける?
待てよ、私の記憶では、カフェ=エスプレッソが主体であったようですが、今はビールに変わってきているように感じます。上記写真のうちの一杯もビールでありますし💦、間違っていれば修正しますが、どうもビールに比重が高まってきているように見えてしかたがないです。夕食前の景気付けの一杯のビール、だけではないように。旅行客であれば別枠なのでしょうが、フランス市民だって間違いなく多い。汚い話ですみませんが、かなりの頻度で路上に撒き散らされた放出物に気を付ける必要があったことも頭の片隅に残ります。「ビールだけをただ飲み続ける」。ワイン主体であればもう少しバランスの取れた飲酒のような気がします。ワイン→ビールに少々移行があるのか、知っておきたいところです。
さて、少々話の強引な繋げなのかもしれませんが、例えばカフェで寛ぐフランス市民の「寛ぎ感」は正直申し上げ「うらやましさ」でもあります。「極上のゆとり」。その日は日曜日であったことから少々違うのかもしれませんが、なあに、年中不変のようにも思います。そもそもが、他国ではまずお目にかかれないようなマラソン大会の運営にも密接に繋がります。何でこういった「人生を楽しむ」スタイルを様々に組み込むことができるのでしょうね?
私の記憶でいうと、まあでもこれは少なくとも年配の大きめの組織での勤労経験があれば、大抵の共感を得ると思うのですが、いわゆる「働き盛り」的な時期においては、たぶん「ゆとり」を対外表示している時間はごく僅かではなかったか。結果では人それぞれであったとしても、基本的には「常に全力で」脇目も振れずに組織の方向性に付いていかないと、外れてしまう恐怖心に奥底では支配されていた。更に一番大きかったのはやっぱり「子供の教育」であり「老後の心配」でした。これって、やっぱり「政府への信頼」ではないですか?
例えば、北欧が端的なのでしょうが、老後への不安を、政府の政策に信頼があれば、日本のように過度に心配しなくてもいいような気がするのです。「ここまでやっておけば大丈夫です」っていった人生設計が可能。わがニッポンにおいては、年金だってたいしたことはないし年々減少していくし、先々は更に不安なのが実態です。結果、ゆとりなんて程遠い生活が過度に強いられてきた。。。そうではないでしょうかね?
一方で、マレーシアでの市民の生活を見ると、申し訳ないですが、「政府への信頼感」が強いとは思えない。しかしそれでも、一般市民の「ゆとり感」はヨーロッパ並みかそれ以上ですよ。たぶん。これって、一体どこに要因があるのでしょうかね?
今、大変失礼ながら、僅かなゆとりを何とか生み出した中で、自分ができることとして、世界を改めてジックリと見てみたいのです。これまで仕事でいろんな国に行かせてもらえましたが、それとは違った視線で。