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続々 心の風景 音楽

目の前に起こっていることは時間が経つことで忘れ去られることがほとんどだが、本質的にはその経験が心の奥にとどまってその価値を失うことはないような気がする。草や木や土や水、またそこに棲む生き物たちが五感に働きかけてくる。その移り変わりは日ごとに変わる。
都会では、行き交う人たちの装いや、店先の広告が季節の移り変わりを知らせてくれたりして、意外にもそこにリアリティーがある。特に田舎暮らしをする私のような半袖長袖、薄着か厚着かでしか服装を考えないずぼらな人間が街で見かける色とりどりの街の風景を見るとそれだけで季節を感じてしまったりする。

苦しい時、辛い時、悲しい時、音楽は人の心を癒してくれる。悲しい時だから元気の出る明るい音楽を聴く人もいれば、悲しいからこそ悲しい音楽で、悲しみを共有する人もいる。
私は悲しい時に音楽を聴きたいと思った事がない。明るい音楽を聴いていても元気になれなかったし悲しい歌を聴いても何も共有できなかった。
苦しい時、悲しい時。音楽を聴いても、本を読んでも絵を描いていても、テレビを見ていても誰かといても、悲しい時はずっと悲しい。何も癒されたことはない。
ただ悲しい気持ちのまま、苦しい気持ちのまま、時間が経つのを待つしかなかった。時間が経って自然に癒えるまでやり過ごすしかない。
一晩寝れば癒えるものもあれば、何年もの間悲しみに付きまとわれることもある。それでも長い間悲しみや苦しみに付きまとわれている間でもどこかで笑う瞬間というのがあるもので、これはどの人間にも備わっている防衛本能ってやつだ。ちゃんと然るべきタイミングでガス抜きをしてくれるようにプログラムされているらしい。一旦ガスを抜いて又「じゃぁ、またさっきの続きを」的な感じで悲しみの続きを始められるようにできているのだろうか。それを繰り返すことで体の中から湧き上がる悲しみを枯渇させられるようにできているのかもしれない。
と、時々思ったりする。
コロナ過で外出が極端に減った分、自宅で独り音楽を聴く機会が増えた。これまで気にも留めなかった楽章の魅力に気付くことが多くなった。好きな曲の好きな楽章ばかり飛ばし聴きしていたのが、本来の楽章の繋がりの面白さに気づけたことは大きな収穫だった。



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