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つよがりと言い訳(その2)~愛してやまない祖母の家でのこと

ふるさとはどこですかと問われたら、東京です、と答えるのだけれど、東京のどこかを問われると、なんとなくスッキリしない。
生まれたのは北区岸町の病院だけれど、幼い日をそこで育ったという印象がないので、そんなふうに思うのかも知れません。
家庭がいろいろと複雑で、3歳位で山梨県塩山市に住む父方の祖母の元に預けられ、5歳の時に母に引き取られて、北区東十条のマンションに引っ越しました。
北区岸町の家は母方の祖母の家で、小学校の5年生になった頃に東十条のマンションから引っ越して、中学生の3年間を過ごした場所でもあります。
中学を卒業してからの3年間は文京区小石川に転居して、祖母を引き取り、一緒に暮らしていました。
岸町にあった母方の祖母の家には、家庭内でトラブルが起きるとよく行っていたこともあり、子供心に「心の拠り所」のように思っている場所でもありました。
そんなこともあり、ふるさとという言葉の響きから思い出すのは祖母の家で、思春期の初めの色濃い思い出がその光景とともに思い出されます。

子ども時代に過ごした東十条の商店街

東十条で過ごしたのは、幼稚園から小学校5年生の秋までのこと。
駅前にある薬局の4階、エレベーターのない5階建てのマンションの1室、2DKの部屋に、継父と母、弟と私の4人暮らし。
子供の頃の思い出は、このマンションがあった商店街のいろいろな音やお店の様子、そこに住む友達のことと一緒に思い出されます。
立ち並ぶ八百屋さんやお肉屋さん、友達の親御さんがやっていた鰻屋さんや靴屋さん、幼稚園の時はじめて友達になってくれた子のおうちの洋品店。
みんな今どうしてるかなあ、なんて時々思います。
だいぶ前にたまたま用事があって行った時、こんなに小さな商店街だったかな?と驚いたことがあります。
子どもだった頃の自分が歩く商店街と、大人になって自分が歩く場合とでは、全然大きさが違って見えるんですね。
家から遠いと思っていた、駅の反対側の出口も、遠いようには思えなくてびっくりしました。
お茶屋さんが焙茶を炒る香ばしい匂いを通り過ぎ、レコード屋さんから聞こえるヒット曲を聞きながら、大きなキャバレーの前にいるちんどん屋さんをやり過ごし、ホッピーの貼り紙がされた居酒屋さんが並ぶ通りを過ぎる。
そこを抜けると大きな通り沿いに通っていた小学校があって、秋になると歩道は銀杏並木の落ち葉でいっぱいになるのがきれいでした。
ずっと商店街を抜けていくと王子5丁目団地があって、そこには友達の多くが住んでいたりして、よく遊びに行きました。

心の拠り所だった、岸町の祖母の家

母にとって、東十条での生活は再婚相手との新しい生活で、友達に預けていた弟のみを引き取り、当初は始める予定だったのを、親戚から私のことを聞き、このままだとまずいということで、私を引き取ることにしたと聞いています。
私を生んだ時まだ22歳と母は若く、恋多き女であったこともあり、実父との離婚を切り出した時に、母親であることも捨て去ろうとした経緯があり、紆余曲折あっての同居、という感じだったのです。
私達姉弟は、継父を本当の父親だと思って育ちました。
かわいがってくれたので、辛いと思ったことはさほどなかったけれど、一緒に暮らした7年という、それほど長くはない間に、さまざまなことがあって、子どもとしてもしんどかったというのが記憶に残っています。

東十条から見ると隣町になる岸町に、母方の祖母の家があり、時々遊びに行っていました。
岸町は水戸光圀公が開いたという、名主の滝公園という大きな公園があり、お店はほとんどないような閑静な町でした。
王子駅から大人の足で歩いて15分ほど。
名主の滝公園も、今はきれいに道が舗装されたりして整えられ、きれいになっていますが、昔は土がむき出しで、丸木橋があったりしたので、子どもにとってはアスレチック状態。
小道に出た木の根に足を取られて転んだり、丸木橋から落ちて池に落ちたりと、いつも泥だらけになって帰るので、よく怒られていました。
母と祖母の家に出かける時はたいてい、都内では大きな商店街として知られている、十条銀座商店街で買い物をしてから行っていたのを覚えています。
祖母の家は今は亡き伯母が建てた家で、祖母がひとりで、時々和裁の仕事をしながら暮らしていました。
山梨から引き取られてきてから、東十条の部屋に引っ越すまでのしばらくの間、祖母の家で過ごしたこともあり、個人的にはとても愛着のある場所でもありました。
継父と母が大きな喧嘩をすると、私達姉弟を連れて祖母の家に行くという、いわゆる「実家に帰らせていただきます」を数年に1度位のペースでやっていたこともあり、祖母の家から小学校に通うなんていうことも結構ありました。
私達が引き取られてきてから、祖母の家には伯母が買った児童文学全集が置かれ、小さな頃は夜になるとそれを出してきて、祖母が読んでくれました。
とても素敵な挿絵のある文学全集で、うっとりしながらそれを眺めていたのを覚えています。
両親が喧嘩するときの理由は、たいてい継父が仕事を突然やめてしまった時で、しかもそれが2年おきくらいに起きるので、祖母は「またそんなことをして」と呆れ顔。
そのたびに2週間位実家にいなければならなくなるので、ピアノの練習が出来ず、発表会も近いのに、というようなことがあったりして、それを母にこぼしてなぜか私が怒られるということがあったりもしました。
その頃から、なぜ親の都合で自分たちが振り回されなければならないのかについて、弟とこっそり話しをしていたのを思い出します。
自分にばかり都合のいい、親の元から早く離れたいという気持ちは、その頃から強かったように思います。

おままごとと夏休みと、お祭りと

祖母の家の隣の家には、私よりひとつ年下の女の子と、その2つ下の弟がいる家族が住んでいたので、よくその女の子と遊んだのを覚えています。
50円玉をひとつ持って、近所の畳屋さんまで行って「くださいな!」と50円玉を渡すと、畳表を分けてくれて、それに座っておままごとをしたのを思い出します。
今そんな値段で畳表を分けてくれないですよね。
レジャーシートなんてなかった昔はそうしていたんだなあと、思ったりもします。
祖母の家と公園の間には長い長い曲がりくねった坂道があり、そこを登っていくと区民プールがありました。
夏休みはそのプールに弟や母と一緒に行き、帰りに公園の入り口に出ているおでんとかき氷の屋台に立ち寄って、おでんを食べて体を温めたり、かき氷を食べて夏を満喫していました。
夏休みに祖母の家で過ごしていると、その家を建ててくれた伯母が遊びにやってきて、お小遣いをくれたりしました。
伯母はコーラが大好きで、瓶のコーラを祖母の家の縁の下にケースで保存していました。
気が向くと私達にもコーラを飲ませてくれたりして、それがとても嬉しかったのを覚えています。
当時ブームになっていたコーラの景品も、たくさん祖母の家には揃っていたのが懐かしいです。
私と弟は、伯母にもらったお小遣いを持って、小学校のある東十条の駄菓子屋さんに行って友達と遊んだり、隣の家の子と十条の方にある駄菓子屋さんに行ったりもしました。
6月の終わりになると、十条のあたりには「お富士さん」と呼ばれる大きなお祭りがあって、小学校では「お小遣いは2000円までです」とか決められて、授業も早く終わって、みんなで縁日に遊びに行きました。
色とりどりの水ヨーヨーやあんず飴、金魚すくいにくじ引きと、クラスの友達と一緒にやったのを思い出します。
冬になれば、祖母の家の近所は、初午の時に王子稲荷神社の縁日が立ち、とてもにぎやかだったのを覚えています。
初午のときには長い行列が出来る、石鍋商店のくず餅を時々買ってもらって食べたりもしていました。
子供の頃の思い出は、お祭りとともに出来ている感じがするくらい、子供の頃はお祭りも盛んでした。
最近はどうなのかなと懐かしく思ったりもします。

東十条のマンションとの別れ

祖母の家にきちんと引っ越してきたのは小学校5年生のときのこと。
継父が事業に失敗して多額の借金を抱え、借金取りが頻繁に部屋を訪れるようになってしまい、居づらくなってしまったのがその理由でした。
借金取りが来たこと自体はあんまり覚えていないのですが、小学校4年のときだったか、母が「チャイムがうるさい」と、音がならないようにしてしまったのを覚えているので、おそらくその頃からなのかなと思います。
祖母の家が近かったのは幸いでしたが、学用品以外は大してものを持ち出せず、そのままになってしまったのが今でも残念だなと思います。
小さな頃の写真などは、そんなこともあってほとんど手元に残っていません。

最後に東十条のマンションに、ひとりで荷物を取りに行った時、理由はよくわからないけれど、祖母もあそこにはいられなくなったと言ってるし、たぶんもうここには戻ってこないんだな、という思いがありました。
飼っていた金魚の水槽や、継父の大きな靴が置かれた玄関のたたきを見ながら、弟がコオロギを捕まえすぎて、うるさくて怒られてたなとか、そんなことを思い出しながら部屋に上がると、べったりと血痕があって「ああ、お父さん死のうとしたんだな」とか漠然と思ったりしました。
荷物をバッグに入れて帰ろうとした時、テーブルにメモ帳があることに気づきました。
そのメモ帳には、母が継父に宛てたメッセージが小さな字でびっしりと綴られていました。
母は継父のことを愛していたんだなと、子供心に思ったのを覚えています。
最後に、もう弾くことは出来ないであろう、ピアノに触れてから部屋を出ました。

あれから何十年も経って大人になってから、何回か東十条に行ったことがあります。
自分が育ったマンションはその頃はまだそのままで、継父がよく連れて行ってくれた、お向かいのお寿司屋さんもそのままでした。
商店街は様変わりしてしまって、当時のような賑わいがなかったけれど、当時ABBAやノーランズを流していたレコード屋さんや、友達のおうちの鰻屋さんは今も健在でした。
いつかまた、ゆっくりと遊びに行けたらなと、今は思っています。
きっといろんなことを思い出せるような気がします。

祖母の家での、濃密な5年間

それから祖母の家で、中学3年までの5年間を過ごしました。
小学校は越境通学という形で、東十条の小学校に通い続けたのですが、中学は十条の中学に通うことになりました。
当時は中学校が校内暴力などで荒れている時期で、それを心配した母が、中学受験をと言い出し、引っ越してからの2年間は塾での受験勉強漬けの日々を過ごしました。
私はぼんやりした子どもだったので、中学に公立と私立があることすら知らず、親が私立中学行こうというので、そのほうがいいのかなと、なんとなく思って同意したところがあり、なんとなく言われるがままに、塾に通って夏期講習なんかも受けていたのですが、塾に通うようになると、そこでまた普段小学校で付き合うのとは別の友達との交友が始まります。
仲良くなった友達のうち、2人は豊島団地という、王子駅から少し離れたところにある団地から塾に通っていました。
今思うとすごくおしゃまな2人で、おしゃれに関心が高く、年上の親戚と遊んでいることを聞かせてくれたり、普段聴いている音楽のことを教えてくれたりしていました。
その友達に、佐野元春いいよ、と勧められて聴いたのが小学校6年生のときのことでした。
頭をガツンと殴られたような衝撃を受けて、こんなすごい音楽があるんだなと思ったのと同時に、その歌詞に込められた強いメッセージを感じて、たちまち私は佐野元春に恋に落ちました。
その翌日、学校に通うために歩いていて、いつものように開かずの踏切で電車が通り過ぎるのを待っていた時、本当に突然、ふと思いました。
「私なんのために生きているんだろう」
勉強しているのも、私が望んでやっているわけじゃない。
今まで親に振り回されてきて、そんなのもううんざりで。
長い長い踏切の待ち時間が終わり、遮断器が開いた時、もう受験勉強をするのをやめようと思いました。
それから勉強を放棄し、成績はがっくり落ち込むことになります。


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