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    楽園の暇 ― もんたん亭日乗


<新連載> その1 「お見合い」の断られ方


 高みを目指して奮闘する女性の生きづらさを、史実に添って痛快に描く朝ドラ『虎に翼』を毎朝楽しみに見ている。戦後編が始まり、また新たな困難にヒロイン・寅子ともこは立ち向かっている最中だが、若き日の彼女がその優秀さゆえに見合いを断られ続けている頃、私は何十年も前の体験を思い出していた。もちろん超優秀なヒロインに自分をなぞらえているわけでは毛頭ない。

 1985年、春。24歳(!)の私は某公共放送の職員として渋谷のでかいオフィスに勤務していたが、突然、四国の実家に見合いの話が舞い込んできた。相手は神戸大卒、フルブライトでアメリカの大学に留学後、研究者となり、将来は教授になることが約束されている。年は30過ぎで、今は東京23区内で両親と暮らす。冠木門かぶきもんのある邸宅前で両親と撮った写真、研究室での白衣姿のワンショット、も同封されていた。イケメンだったかどうか、はなぜか覚えていない。

 実家の女性陣(母、祖母、伯母)はこの縁談に、どうやら大騒ぎしているようであった。朝ドラでも、母・石田ゆり子が「女はどんなに優秀でも、き遅れるのは地獄」とばかりに縁談を次から次へと勧めていたが、それまで結婚プレッシャーをかけたことのなかった我が母も、「将来は大学教授夫人になれる」という仲人の殺し文句にコロッとなったようなのだ。私はこの文句にものすごい違和感を感じていたのではあったが。

 ところで、寅子にはまるで及ばないが、小学生の時は「よーできるお子さん」だった私を、親バカの我が父は「将来は弁護士にする」と言っていた。なんでも、友人に子供のいない弁護士がいて、その後を継がせたいのだそうだ。中学時代も試験の成績は良かったので、彼の幻想は膨れる一方。自分も法学部出身で、見果てぬ夢を娘に託したかったのか、まあ、我が子を過大評価しすぎるよくある親の一人ではある。そんな父だから、女どものはしゃぎぶりをどう見ていたのかは知らないが、私と同じく「教授にしてくれるならまだしも、教授夫人?それが何か?」という思いだったかもしれない。私も、当時は好きな人もおらず、見合い、ってものを一度くらいしてみたかったのか、違和感は抱きつつもあえて断ることもせずで、話は進んでいったようだった。

 ある平日の昼下がり、仲人氏が突然、渋谷のオフィスに私を訪ねてきた。近くまで来たからちょっとご挨拶、とのことで、私は正面玄関のロビーまで降りて行った。お互い初対面である。仲人氏は近づいてきて、笑顔で挨拶されたが、その時、彼の目に不穏な光が宿ったのを私は見た。その目が私の左腕に巻かれた腕章に釘付けになっていることに気づき、私は慌てて言った。

「あ、今、闘争中なので」

 春闘の真っ只中だった。当時、たいそう力を持っていた某公共放送労組は全組合員に、闘争中は連帯を示すため、組合の略称が白く染め抜かれた赤い腕章を巻くことを求めていた。私も勤め始めて3年目、職場でそうすることは春の恒例行事だったから、その姿が他人の目にどう映るかを考えたこともなかった。

 ここからは想像でしかないが、仲人氏は、これから推そうとしている花嫁候補に、先にちょっと会っておこうと思っただけで、そこには余計な心配も不安もなかったに違いない。しかしその時、彼はあらぬものを見てしまったのかもしれない。花嫁候補が、会社では拳を突き上げている映像まで浮かび、それは深く彼の脳裏に刻まれたのかもしれない。
 二言三言、他愛のない会話を交わした後、最後に彼は、特に当たり障りのない質問のつもりだったのだろう、「ゴールデンウィークは実家に戻られるんですか」と聞いてきた。私は直近に控える連休の予定をそのまま答えた。

「あ、旅行です。北朝鮮と、ソ連と、中国への船旅です」

 その時の彼の反応を実はあまり覚えていないのだが、私の返答は、目の前の花嫁候補に疑念を持ち始めた彼にとって、トドメの一撃だったのかもしれない。それから時を置いて、先方が丁重に見合いを断ってきたそうだ。理由は「身長(156センチ)がちょっと釣り合わない」だった。私自身は、へー、そんな長身だったっけと疑いつつ、せっかくのお見合いのチャンスをふいにしたのが残念だった気はするが、傷ついた記憶も、腹を立てた記憶もない。


 それより何より、大型連休のその「ヤバそうな旅」が、抜群にエキサイティングだったからである。その後の人生を決定するくらいの重みを持つ、我が生涯で最も価値ある旅と言ってもいいくらいなのである。おかげで「会う前から見合いを断られた」ことなど、あっという間に宇宙の彼方まで飛び散ってしまったのだった。

 時は1985年、冷戦は終わっておらず、天安門事件はまだ先だ。鄧小平も金日成も生きていた。当時、日本のパスポートには「except North Korea」と記載されていて、北朝鮮には通常の旅券では行けず、その旅だけの一次旅券を作って入国した。労働組合と市民団体などの主催で、300人もの市民が大型クルーズ船で3つの社会主義国を回った。特に、行けるなんて思ってもみなかった北朝鮮での数日はあまりに興味深かったし、船旅で出会った人の中には、生涯つきあうことになる友もできた。そして何よりこの旅に行かなければ、私が小説を書く人生を選ぶことはなかった。素晴らしかった旅の詳細は別の機会に譲るが、負のおまけもあった。

 帰国後、韓国のビザ(その頃は必要だった)が一時的に下りなくなった。韓国大使館員の「あっち・・・に行った人は絶対に下りません」との忌々しげな口調を、今でも思い出すことができる。80年代とはそんな時代だった。

 ビザが下りなかった話をすると、父はたいそう面白がった。ある国から入国を拒否される重要人物に娘がなったことが、愉快でたまらないらしかった。そんな父だから、見合いがぶっ壊れたこともきっと嬉しかったに違いない。そういえば朝ドラでは、寅子の父親が瀕死の床で、娘の夫の戦死通知を隠していたことを謝るついでに、「本当は見合いが壊れて嬉しかった」などと告白し、突然動かなくなったと思ったら寝ていた、というシーンがあって、私は父のあるエピソードを思い出した。その昔、泥酔して帰宅するや発作を起こし、家族の前で(ドラマでよくあるみたいに)カクンと大きく首を折り、動かなくなってしまった。一同死を覚悟したが幸い無事で、後で尋ねると何も覚えていないと言う。私は今でもそれが迫真の演技、との疑いを捨てきれていない。そんな時でも大芝居を打ちかねない人だった。寅子の父はその後まもなく亡くなったが、私の父はそれからも長く楽しく生きた。
 その父も、母、祖母、伯母の女性陣もみな、鬼籍に入ってしまった。私はといえば、結局一度もお見合いをすることなく、一度も結婚することもなく、自分の頭の上の蠅だけを追いながら、笑って泣いて、喰って飲んで過ごしてきた。寅子たちが生きてきた、既婚でなければ女が生きづらかった時代は終わりを告げた(ホントに?)としても、いくつもの生きづらさがしぶとく残るこの国が、少しでも心地よくなればいいなと念じながら、私は毎日を楽しんで、生きて、書いていくよりほかない。父のDNAかどうかはわからないが、面白そうなら行ってみる、やってみる、の人生は、とても悠々とはいかないが、自適ではありそうだから。

*不定期(たぶん月1)掲載です。



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