「学校に行けない」は可哀想なのかなぁ…
今朝、中学校の担任の先生から、こんな連絡がありました。給食のメニューで登校日を決めている娘ちゃんへ、
給食がない予定の日に給食が出ることになったので
と、メニューの連絡をいただいたんです。
給食が出ることになった理由は、テストのスケジュール変更があったから。
今回は給食のメニューだったのですが、今までやりとりをしていて少し気になることがあります。
それは、
学校へ来れないのは可哀想
みたいな空気を感じることです。
行きたいけど行けないのは、いろんな思いがあります。
親としては、子供が思うように動けない様子は、何とかできないかなとは思います。でも、
可哀想はなんか違う気がするんです。
コロナで今の子供たちは学校の活動も行事も制約があり、大変だと思います。
悲しい気持ちの子、辛い気持ちの子、いると思います。
でも、ホッとしている子、自分なりに過ごせる方が楽しい子もいると思うんです。
いろんな考えがあるので、学校に行けないという状況への捉え方もそれぞれ。だから、
学校に行けないから可哀想は、何か違うかなと。
自分以外のことは、コントロールできません。安心安全が保たれない状況で学校に行かなければいけないというのは、学びを止めないための方法ではないと思います。
それに、周りから「可哀想」って言われると、思い込まされるというか、変に凹む気もするんです。
学校行けないのが可哀想ではなく、学校に行く行かないに関わらず、その子にあった学びができない状況は可哀想だと思います。
なぜなら、理解のある大人がいないということだから。
だから、単純に学校いけないことで可哀相は、なんか、ちょっと違うかなと…。
今回のnoteは、美容室の待ち時間に書いていました。そのとき、初めて対応してくださった美容師さんからこんな言葉を聞きました。
それは、
学校に行っていたら好きなことを仕事にできなかった
というお話。
その方の話は、
勉強はできなかったけど自分が好きなことをとことんやってきた。だから、美容師という好きな仕事につけた
という内容でした。
美容師さんも私も、学校に行くことを全否定しているわけではありません。好きなことが学校での学びで得られれば、それでいいんです。
ただ、美容師さんは
「自分が好きなことを見つける方法は学校以外の場所にあったよ」
という話です。
学校へ毎日休まず行くのが好きならそれでいいと思います。
ただ、合わないタイプもいるので、そのときは、その子にあった関わりでいいですよね。
「〜しなければいけない」と自分の気持ちとは違うことを強要されるとき、心が深く傷つき、学ぶことや考えることが難しくなる。
そして、そこから回復するためには、とてつもない時間がかかり、結果、他人がいう「可哀想」という状態になるんじゃないかなと思うんです。
言葉にしなくても「可哀相」という気持ちで伝えている言葉は、違和感や気持ちが伝わります。
学校に行きたくない。または、いけない子へ言葉をかけるとき、少し振り返ってみてください。単純に学校に行けないことで可哀相と思っていないか。
可哀相と思わせてしまうことで、さらに子供が自信を失ってしまうことがないように。今いる場所でいいんだよと安心できるように。
「可哀相」じゃなくて、「大丈夫だよ」を伝えて欲しいと思っています。