【概念集 1】本質
1.
物事の本来の性質や姿。それなしにはその物が存在し得ない性質・要素。
2.1.
哲学で、あるものをそのものとして成り立たせている、それ独自で、不変の性質。例えば、動物を動物たらしめている性質。本性。この本質を言語化したのが定義になる。英語のessenceの訳語。
2.2.
古代ギリシア哲学では、変化する現象の背後にあってそれを支えている恒常的な本体。この意味での本質は実体として形而上学的な存在と解される場合が多い。その反対が、現象。
2.2.1
この本質の「何であるか」の問いを最初に考察したのはソクラテスである。ソクラテスは人々が日常当たり前に使用している正義、友情、美、勇氣、徳、節制などといった、人間の生を形づくる倫理・価値の言葉(X)について「Xは何であるか」を問い求めた。
これを知らなければXに関して何の的確な判断もできないではないか。そしてこの問いに答えるはずの定義は、Xのあらゆる事例について妥当しなければならないこと(普遍性)と、Xの事例にのみ妥当すること(固有性=本質)を規準として要求した。そこで正義とは、勇氣とは「何であるか」と、人々と対話問答で検討し探究しようとしたのである。ただしこれは言葉の意味を辞書で調べることではない。自分がいかなる人間としてどのように生きてきたか、どのように生きたいか、と自分の生き方そのものを全体として吟味し、新しく生き直すことを巻き込む種類の探究だったからである。したがってソクラテスが求めた「何であるか」の本質の定義は、人が自分の人生をこれに乗せてよいと自分が納得できるような定義である。しかしいつも定義の試みは失敗し、問答の結果暴露されたのはわれわれ自身の根本の無知であった。
2.2.2
プラトンは事物の本質が現象界の諸事物から離れて存在するイデアであるとした。しかし、アリストテレスはこの説に反対し、個々の事物に内在しているそのものが何であるかということを定めているものが本質であるとした。
2.3.
中世のスコラ哲学では、事実上の存在や実存に対して、なんらかのものが現に存在しているという事実から離れて、そのものが「何」であるかという定義によっていわれるもの。
2.3.1
中世のトマス・アクィナスは「在ること」との関係を考慮に入れることによって本質の多様なあり方を統一的に説明している。
それぞれの存在の仕方に応じて事物の本質のあり方も異なる。万有の本質はイデアとしての神の精神のうちに先ず存在し、神による事物の創造によって固有の存在を与えられて個物として存在するにいたり、さらに人間知性によって個別的存在から抽象されることによって普遍的概念として人間精神のうちに存在すると言う。
2.4.
近代に入って、ヨーロッパの大陸合理論のスピノザも、イギリス経験論のロックも、本質とは、ある物が当のその物である、その物の内的根拠なのである、そう定義される。これはカントにおいても同様である。
カントまでの本質論において本質とは、物の根拠、原理である。存在するある物が、当のその物であるのは、もっぱらその本質によっている。その意味で、本質は存在に先立っている、と言うことができる。
だがヘーゲルが近代において、こうした本質観の転倒を試みた。それは本質とは、一定の原理として当の物に内在しているものではない。そうではなく、本質とは「生成と移行との運動」なのである。本質は現に存在している物のあり方から本質への移行の運動によってはじめてそれ自体として生成するものなのである。ここにおいては、存在と本質とが転倒している。つまり事柄として、存在が本質に先立っているのである。
2.5.
現代のフッサールの現象学では、独特な本質直観によって捉えられること。
本質直観とは、本質的なものを直観的に認識することを意味する。フッサール現象学における重要な方法概念のひとつ。
【参考図書】
・北原保雄編『明鏡国語辞典』大修館書店、2002
・松村明編『大辞林』三省堂、1988
・新村出編『広辞苑(第五版)』岩波書店、1998
・廣松渉(他)編『岩波 哲学・思想事典』岩波書店、1998
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