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子どもが育ちたいように子どもを育てること―「認証」を活かした家庭療育

私のページをご訪問くださいまして、本当にありがとうございます(*^-^*)

先だってお書きした記事で申し上げていましたように、弁証法的行動療法という治療理念の根幹を成す「認証(validation)」を活かした家庭療育について、今日からお話していきたいと思います。

今日は「『認証』を活かした家庭療育」の第一話として、改めて「認証(validation)」とは何かということを説明してから、それを家庭療育に活かす上での理念について申し上げたいと思います。

それは、「子どもが育ちたいように子どもを育てるということ」です。

今日のお話では、弁証法的行動療法における「認証」と来談者中心療法の違いについて指摘してから、認証による育児について、その序論を申し上げたいと思います。

それではどうぞよろしくお願い申し上げます(*^-^*)


自分で自分のことを好きになれる子どもに育てる

もしあなたが「子育てで一番大切なことは何でしょうか?」と尋ねられたら、あなたはどのようにお考えになりますか?

勿論、人それぞれに多様なお考えがあると思いますが、私は「子育てで一番大切なことは、自分で自分のことを好きになれる子どもに育てること」ではないかと思います。

子育てで肝心なことは、子どもを投資対象として捉えてデータ化されたわが子の指標を親が見ていくことではなく、わが子がほかのお子さんと比べて優れているかどうかにとらわれて育てるのでもない。

子育てで大切なことは、子どもの愛着を確かなものとするような育児をして、子どもが大きくなったあかつきに「私はこれをつかんで生きて行けばいいんだ」という手応えのある自尊感情を持つことが出来るように親がわが子を愛育していくことではないかと私は思っているのです。

そのように子育てしていくと、子どもは「自分で自分のことを好きになれる子ども」として成長していくことができるでしょう。

子育ては親が望んだようにわが子を染め上げて親の想いのままにわが子に成長してもらうことではないと私は思うのです。

弁証法的行動療法における「認証」の意味

マーシャ・リネハン博士が唱えた「認証(validation)」は、マインドフルネスと並んで、彼女による弁証法的行動療法(DBT)の重要な概念です。

認証とは、治療者が患者さんの感情や行動に対して良いとか病的だとかの評価を下さずに、その「症状」の背景や理由を理解して、患者さんの想いを受け容れようとする治療姿勢を指します。

治療者によって認証され、その想いを共感的に理解されることによって、患者さんは自分の感情や行動がもっともなものであると感じることが出来るようになります。

すると、患者さんの自己受容が促進されるのです。自己受容とは自分を甘やかすことではなく、叩けば埃が出てくる自分をありのままに受け容れて大切に慈しむことが出来るようになることなのです。

リネハンは、認証を通じて患者さんが自分自身を深く理解して受け入れるための手助けを治療者が心がけることが、特に境界性パーソナリティ障害を持つ人の治療効果を高めると考えました。

「認証」という営みにおいては、治療者が患者さんに対して決めつけやすいジャッジメントをいったん手放して、患者さんが感じている苦痛や困難をそれはそれとして正当なものであるとして認め、そのような患者さんの感情や「症状」がどのようにして生じてきたのかを共感的に理解することが含意されているのです。

再接近期危機の幼児や思春期の子どもが訴えていること

私は、「認証」という治療的営為の理念を現代の子育てに応用することが出来るのではないかと考えているのです。

それは、イヤイヤ期辺りの再接近期危機と呼ばれる時期の幼児が境界性パーソナリティ障害とよく似た行動特性を示すからだけではなく、第二の分離個体化再接近期危機とも呼ばれる思春期が境界性パーソナリティ障害等の好発期となっている現状を鑑みてのことです。

いずれの時期の子どもたちも、その想いの中核にあるのは「お父さん、お母さんは、私のありのままを認めて受け容れてくれますか?私がこのままでも私を見捨てないで愛してくれますか?」ということではないかと思われるのです。

リネハンの「認証」と来談者中心療法の違い

リネハンの「認証」という考え方とカール・ロジャーズによる「来談者中心療法(クライエント中心療法)」とはいくつかの共通点がありますが、患者さんに対するアプローチや治療対象については明確な違いがあります。

どちらのアプローチも来談者(=クライエント、医学で言うと患者さん)の感情や経験を尊重して、それを受け容れていくことを重視していますが、その目的や具体的な技法についてははっきりとした違いがあるのです。

第一の相違点としては、治療に関する焦点の違いが挙げられます。

リネハンの「認証」は患者さんの抱える感情や行動の正当性を治療者が認めることに重点を置きますが、来談者中心療法(クライエント中心療法)はクライエントの自己成長自己実現(self-realization)を支援することに重点を置いています。

第二の相違点としては、リネハンの「認証」は境界性パーソナリティ障害を持つ人が抱えている見捨てられ抑うつ憤怒などの感情調節機能の低下といった特定の感情や行動を認めることに焦点を当てているのに対して、来談者中心療法では特に心理療法の対象を限定しないで、来談者のことをセラピストが無条件肯定しながら共感的理解を示すよう試みます。

ロジャーズ的な育児法では限界がある現代の子育て

従来の日本では、東山紘久先生(元京都大学副学長)を筆頭に、ロジャーズの唱えた共感的理解と無条件肯定の観点を子育てに取り入れていく育児法が唱道される傾向がありました。

しかし、子どもたちを取り巻く環境が子どもに対して共感的・受容的ではない非認証環境になってしまっている現代において、育児にロジャーズ的な発想ばかり取り入れていくことに関しては限界が来ているのではないでしょうか。

例えば、性を商品化している女の子や、社会不適応行動の根底に愛着障害トラウマ疾患や複雑性PTSDを潜ませている思春期の子どもに対して構造化されていない無条件肯定や共感的理解や傾聴を以てセラピストや親御さんが接していきますと、子どもたちの抱えている愛着の傷や病理が早晩溢れかえってきて収拾がつかなくなります。

そこで親御さんやセラピストが子どものことを手に負えない子だとしてしまうと、子どもは親やセラピストにまたもや見捨てられたように感じ、取り返しのつかない傷を負うことになってしまうのです。

ロジャーズの唱えた来談者中心療法を複雑性PTSDの方に用いるのは臨床的にはほとんど禁忌と言ってもいいことなのです。

私は今の思春期や青年期の方の方々が境界性パーソナリティ障害だとか愛着障害とか複雑性PTSDを患っていると申し上げているのではありません。

しかし、全人口の三割を優に超える人たちが少なくとも愛着障害を患っているとされる現代の日本においては、コロナ禍の子どもたちが抱えている孤立無援感や孤独感や絶望感に配慮した育児法も望まれるのではないかと考えているのです。

私はそれがリネハンの唱えた「認証」を子育ての中に活かすことの中にあるように思うのです。

というのは、リネハンの弁証法的行動療法はただ境界性パーソナリティ障害にのみ有効なのではなく、難病である複雑性PTSDにすら有効であると報告されるようになっているからです。

この少子化の時代にあってなお、不登校いじめの報告事例数が過去最多を記録している今、子どもたちのこころの中には大なり小なりすきま風が吹いているようです。

このような現代の世相にあっては、子どもが愛着障害などを抱えているか否かに関わらず、非認証環境を生き抜く子どもたちに対する配慮の一環として、ロジャーズ的な育児法ではなく(それはそれで有効なケースもあるとは思いますが)、リネハンの「認証」に立脚した育児法というものを模索してもいいのではないかと私は思うのです。

子どもを修正する育児は子どもの劣等感を強めていく

発達障害の子に限らず、子どもが小さい頃には、できないことのほうが親の目につきやすいですよね。

子どもに苦手な課題や教科があると、親としてはどうしてもそれを改善したり修正してやりたいという――その方が子どものためだという――思いに駆られやすいものですね。

しかし、わが子を何でもできる超人的なオールラウンダーに育てようとすることは、よく考えれば現実的ではないですよね。

子どもそれぞれに持って生まれた持ち味個性がありますので、子どもの持ち味や個性を否定するかのように子どもの弱いところを修正しようとしてばかりいますと、子どもの劣等感は募るばかりです。

親御さんとしては子どもの弱点を補強するつもりで苦手意識を取り除いてあげようとしているのかもしれませんが、発達障害の子どもは特に苦手なことはとことん苦手なものです。それは努力して何とかなるものではないのです。

発達障害の子どもに限らず、苦手なことに注目されて、それを矯正されるように親から育てられていると、子どもは否定されているというメッセージを受け取ってしまいます。

これは非認証環境を増強してしまいますので、子どもは劣等感ばかり強めたまま育ってしまいます。

子どもが育ちたいように子どもを育てる

発達障害の子は、苦手なことを親が直そうとしても苦手なままですが、得意なことに親御さんが注目してそこを伸ばしてあげますと、とてもよくできるようになります。

わが家の六歳の長女は苦手なことも多々ありますが、私たち夫婦が長女のあるがままの得手不得手を認めて、彼女の言い分についてもできるだけ認証して育児して来た結果、音楽や造形などの創作活動の分野において高度な能力を発揮し始めたようです。

来春から小学校の支援級に通うことになる長女が将来クリエイターになるのかどうかは、予言者ならざる私には分かりません。

しかし、長女が自分で自分のことを好きになれるように育児して来た結果、長女は親や世の中に対する確かな愛着を持つに至っています。

そして、自分や社会に対する基本的信頼感と健康な自尊感情(自己肯定感)を持つ長女が、世の荒波に将来揉まれることになったとしても、困った時にはひとに対して「助けてください」と言えるだけのレジリエンスと自尊感情を持つことが出来るようになってきていることは、本当に喜ばしいことだなぁと思っているのです。

子育てにおいては、いかにしてわが子の持ち味や特性を否定しないで、その方向性を活かしながら育児していくかが肝要ではないでしょうか。

それは言い換えるなら、「子どもが育ちたいように子どもを育てる」ことに他ならないと思います。

そのことは、核家族化している現代のご家庭においては言うは易く為すは難いことですよね。

だからこそ、時にはリネハンの言う「認証」という治療理念に思いを馳せながら、わが子のありのままを受け容れてその持ち味を活かしてあげるように子どもを愛育することが大切ではないかと私は思います。

わが子が確かな愛着を持って世に羽ばたけるように支援してあげることこそ最も大切な育児の作法です。

子どもをどんな進学校や一流大学に進学させるかに汲々とするよりも、「子育ては確かな愛着形成から」と思いつつ親御さんも自己認証していくことが、「育児が育自である」ことの意味合いでもあるように思うのです。

結びに代えて

今日は「認証を活かした家庭療育」の第一話として、技法的な各論を申し上げる前にお話しておく必要があった序論を申し上げました。

子どもが生きて行きたい方向性を親御さんが見抜くことは、結構難しいことです。

また、きょう私が申し上げたことは、決して我が儘放題をして荒れる子どもをそのまま受け入れる(ふりをする)ことではないことを付言しておきたいと思います。

共感ということは、たんに相手の話に相槌を打って「そうだね。分かるよ」ということではありません。

共感ということは、相手の感情や経験を深く理解して、あたかも自分がその感情を経験しているかのように感じ入って振る舞うことを意味します。

共感したふりは、子どもにはすぐに見破られますから、育児の中に共感的な認証を取り入れることは簡単なことではありません。

それでもなお、子どもに対して共感的な理解に基づいた認証を以て育児していくことは、子どもが成長して大人になるうえで「私はこれにつかまって生きて行けばいい」という自信をもたらしていきます。

今日のお話は従来あまり指摘されて来なかった観点ですが、認証を活かした家庭療育としての育児の理念についてご一考いただけたら感謝です(*^-^*)

ここまで長文お読みくださいましてありがとうございました。感謝します。

あなたの上に天の豊かな恵みと祝福が注がれますようにお祈りしつつ。

Koki Kobayashi

長女が四歳の頃です。私のシンセサイザーを弾いています(*^-^*)




サポートしていただけたら感謝の極みです。頂戴したサポートはクリエイターとしての私の活動資金に使わせて頂きますが、同時にまた、私が協同しているこども食堂への寄付にも充当させていただきます。その子ども食堂はGhana出身のトニー・ジャスティスさんが運営する「ノヴィーニェ」です!