ようやく 目に見えない領域の「解けなかった課題」が 払拭される時代へ
「生き辛さ」に共感するのは 目に見えない「ストレス・負荷」を感じつつ 今ここに在るから
前回の投稿の反応からも「生き辛さ」に共感する人たちが ある程度居て、なんらかの「ストレス・負荷」を感じつつ今ここに在る…という状態がある、ということが分かります。
( *´ㅅ`)⁾⁾ウンウン
目に見えないものほど どんどん その人の内側に在る思念を 膨らませてしまっている
目には見えないから
よく分からずに そこに在るのか…
そういうことが分かっていて そこに居るのか…
分かっているのだとしたら
踏み込めずに居るのか…
方法・手段が分からずにあるのか…
壁のように見えてしまうのは それがなんなのか分からない状態にあって 目に見えないものほど どんどん その人の内側に在る思念を膨らませ モンスターのようにさせてしまいます。
現実を生きる時 その生き辛さは ストレス・何らかの負荷を与えるものだったろうと 察します。
ようやく目に見えない領域に対する「解けなかった課題」が払拭されていく
前回紹介したご夫婦共々「発達障害」を公表し 「隠れ発達障害を救う」…と彼らが表題を付け活動されているように
どんなに
「個人が一人で抱え込み 自分一人の内側だけで考え悩み続ける」ことの虚しさ 苦しみがあったとしても ようやく目に見えない領域に対する「わだかまり・解けなかった問題、課題のようなもの」が払拭されていく時代に入って来た…と感じられます。
負荷は なんらかの自らの能力を伸ばすために与えられている
なんらかの「ストレス・負荷」が 与えられ 人は苦悩し 暗闇を歩いている様に見えていたとしても ある程度(時間を)歩き続けると、それらの負荷は なんらかの自らの能力を伸ばすために与えられていた様に感じる人も 少なくないのではないでしょうか?
「負荷・ネガティブな事象に見えるもの」には「祝福」が隠され 現状を急速に好転させるものになりえる
アンデスシャーマンの教えの中に 「化けた祝福」の表現があるように…それら「負荷・ネガティブな事象に見えるもの」には「祝福」が隠されている。「メディスン(薬)≫現状を好転させるもの」になる。…といった考え方があります。
ある程度 人生の時間を歩み それら「負荷・ストレス」に感じてきたことは「無駄ではなかった」…と 実感出来る時は 必ずやって来るのだけれど、
それらをまだ「メディスン(薬≫現状を好転させるもの)」に変えることが出来ないでいる状態にある 特に若い人たちやその経験がまだ浅い時は
「何故 “わたし”はネガティブな現象に悩まされ、不幸なのだろう…恵まれていないのだろう…」と
「苦しみやネガティブな状態の中に居て 苦悩したままの“世界”」に 居続けてしまう。
悪循環を解き放つ
そういったことが ネガティブな感情を生み続けやすい状態にも居続ける事になってしまっています。そしてそれらが悪循環として ネガティブな現象を引き寄せる事にもなっているように感じられます。…けれど これらが生じる仕組みを知ると その仕組みを壊すなり 仕組みそのものを使わない…などで 解き放つことも可能です。
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受け入れ難いものを受け入れ、それが在る、と認められると 覚悟が備わり、次の段階へと必然に進んでいく
みうひでさん達、発達障害を公表し ご夫婦として 活動されている様子を観ていると、何らかの不具合とか特質な性質を持っていたとしても 軽快なエネルギー循環がなされている様子がハッキリと見て取れます。
何か受け入れ難いものを受け入れる、それが在ると認め、覚悟し、向き合い、前へと次の段階へ進んでいく…そういったことを 目に見える状態として実践されています。
多様に違い在る個々のまとまりの中で、共に調和しながら “自分”を活かし生きて行くために
夫婦として、パートナーとして また、身近な集団の中であっても 共に調和しながら “自分”を活かし生きて行くためには
それら 「欠点とかネガティブな状態に見えるもの」を しっかり「視覚的に また 意識的に それらを捉え、向き合うこと」が どうしても 不可欠です。
そしてそれは 「自分の考えに引き込む(同化を望む)」「誰かの考えに従わなければならない(同質を望む)」…という所からは
離れたところにあります。
すべての存在には違いがあり、それを踏まえ自覚出来て 認識し 認め合いながら共存する
目に見えないものは「無い」ので無く「ある」…と 感覚的に感じられる…と 自覚出来ると
「自ら 他者との違いを認識する」「他者は “わたし”とは“違いがある”のが当然、と認識する」「人それぞれ、個々には皆 “違いが必然にある”と認識する」…etc.と
それらを踏まえ自覚出来て 自ら認識し 認め合いながら生きることが出来ます。
※ここでいう認め合いながら共存する…とは 他者依存の共依存関係とは違います。
自ら自分を分厚い壁の囲いの中に閉じ込めた事態から脱却するために
多くの人たちは、ネガティブに見えることを「隠したがり」
それを「無いことにしたい」「表面だけ外側の求めるものに合わせていれば何とかなる」…と
時代の時々に生じる変化の流れの中、「広く認知されていない状態に在る」と、「自分が自分に向き合えない」「外の世界に助けを求められない」「どう自分を救ったらよいのが分からない」…など、
自分が 自分を大きな分厚い壁の囲いの中に閉じ込めてしまう様な事態が 多くあって、本来はしっかり観て、捉える必要があったものが隠されてしまっていたのかもしれないとも感じられます。
ネガティブな状態であっても “それらは在る”と認めると 現状を好転させるものへと 変わっていく
目に見えないものを 「観ようとする」「知ろうとする」「分かろうとする(同化とは違います)」
そして それは「ネガティブな状態にあったとしても、“それらは在る”」と認めることが「メディスン(薬≫現状を好転させるもの)」へと変換させる事になり、
その次に広がる次元の扉を開くことに繋がるヒントのように 感じられますね。
目に見えないものを“形”として捉らえやすくし、目に見えているものはそもそも“無”である…と捉えると…
目に見えないものを“形”として捉えられると 手放しやすくなり…そして目に見えているものは、実は “わたし”を惑わし 魂の向上とか 進歩 進むべき道に進むのを 遅らせているものかもしれない…と 物事を観てみると、また 形に拘る必要が無くなり、手放しやすくなります。
…とすると
目に見るものこそ実体が無く “無”なのかもしれない
目に見えているものこそほんとうは
形にするのに難しい “無”…に近く実体が無いのかもしれない…とも 観て捉えることも出来ます。