終わりがあるから 新たに始めることが出来る
時間を生きるから 形を変え続けながら物事は成長し続けてゆくものだと思うのだけど
生があるから必ず死が訪れるように ある程度成長しきったもの、また 昨日書いたみたいに
不純なものがそこに押し込まれたままでいると 「崩壊」って形をとって 一旦「終わり」を迎える。
「崩壊」とか「死」とか「終わり」って 一見ネガティブな出来事のように見えはするが 果たしてそうなのだろうか?
人は幸せになるために生を受けている
そう、だから やり直しとか 生まれ変われる出来事が人生の中で何度も訪れる。
自分の心や意を尊重して 自分らしさを活かすためにも、人にどう見られるかを気にして何かを被り続け自分を誤魔化しながら生きるより、
自分の習慣さえ見ないようにしているのだろうから、それに気付くことが出来ればそれを変えることもできる。
自分が息をしてゆく場所は、
自分が楽に息が出来る場所を選んで良い
だから ある意味
新鮮に自分の世界をいつでも創り直したり、自分が楽で居られて自分を活かす場所と空間への移動はいつでも可能なのだと思う。
すべてはその人のその時の選択次第
なのだ。
物事に向き合わない、向き合えない状態
…があることを知る
これは なんというか…「相互理解」に関して努力してはみたものの、人によってそこに向かえない、向き合う気がない状態にある人たちも居ることを知って
それ以上 伝え続けることを辞めた判断をしたことがある。
自分の心や気持ちと向き合いどう自分が在りたいかを問い掛けながら日々表現し生きる事に慣れていないと、周りの人達にどう自分が見られるのかを気にし過ぎて
個々の魂 本来の生き方を曲げて生きることを常に、それが自分の生き方なのだと錯覚している人達も多く居る
ように感じる。
そう並木さんも話しているように、生き方を選択しているのは、個人であって、今この時はどんどん
自分自身の内側にある重たくさせているシステムに気付き手放して軽くしなければならない時期
のようだ。
気になるのは地球自身もアセッションすることを決めた…という点で 肉体を離れる準備をしなければならない時期なのだろうか…というところ。
それがどういう形になるにしろ
「今」に どう生きたいか…はその人自身が選ぶべきもの
…で、生を受けたのだからいづれ死を迎えることを知っていながら
人は今という時に 自分の想いと言葉と行動を選択し自分の時間と空間を使っていることを心の奥底では分かっているはずだろうとも思う。
幾つかの「崩壊」や「終わり」を傍らで観てきたけれど、「終了」して 世界を違え、触れ合わなくなったもの、こと、人もあれば、「新たな始まり」として、その世界を共に新しく「世界を創造」してゆくために関わり続けているものも幾つか残った。これはある意味では洗練された、というべきか。
「一旦終わりを迎えた」だけあって 一新している。
あまりにも急激な変化が色んな所で齎されていた感があったけれど
見方を変えれば それらは必然に 同時に起きたことなのだろうとも考えられる。
一掃されただけあって 濁りとか歪みが一旦無くなって そこに集う人達次第でどの様にもその世界を新しく構築できる。これはある意味 幸い。
これらの世界で得られていることは 密接に言葉や行動としなくても 濁りや歪みが取り去られたからこそ 想いや行いのやり取りがスムーズに循環している感を得られている。
違和感を感じられないからスムーズに想いを放つことが出来て行動とすることが出来る。そして 疑問や意を投じられればそこに向かい、改善だったり新たな道を生み出そうとする力が生まれている。
心の奥底に溜め込んで増大させるシステムが消失したからこそ、そこに集う人達はスムーズな循環を得ているのだろう。
新しい世界を創造するにあたって その空間で自分はどう表現しどう在りたいのか…が反映され それは世界を創る一雫になるのだから…わたしを含む全体も 同じようにその世界を創造するそれぞれが雫となっている…
「共同創造」には「相互理解」が必要で それには個々が「興味」をもって参加し 感じ取る力と想いを放つ力、そして全体を観てどんな風にその世界を存在させたいのか…そんな
自由に柔軟にそれぞれが自己表現出来ると、個々が世界全体を創っているのだから世界は全体のために働くもの、…となってゆく。
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