保守を定義することの浅ましさ

「保守思想や保守主義の定義や概念にこだわり始めたのは, 左翼過激派から保守陣営に転向してきた西部邁からであると言える. 西部こそ, 保守や保守主義の定義にこだわった最初の人と言うべきであろう」(山崎行太郎『保守論壇亡国論』K&Kプレス, 24ページ)

「西部にとって, 保守とか保守思想というものは, 意識して実践しなければならない思想であった. 自然に, 無意識のうちに身についている思想ではないからこそ, 彼は保守思想や保守主義の定義や概念にこだわるのだ. /また, 西部は, 保守陣営の主導権を奪取するためにも, 保守の定義や概念を論ずる必要があったのだろう. つまり, 「保守であるもの」と「保守でないもの」を概念的に区別することによって, 保守論壇をイデオロギー的に差異化し, そこに自分の座るべき場所を確保しようとしたのである」(同上, 25ページ, /は段落の変わり目を示す.)

1 西部邁という人物について

西部邁という人物を聞いて, どういうことをこの記事の読者は想像されるだろうか? 保守という言葉について語った人物という想像だろうか? 知り合いを巻き込んで, その知り合いを自殺幇助という罪に加担させてしまった耄碌した爺さんという想像だろうか? 「表現者クライテリオン」という雑誌の前身であった「表現者」という雑誌に関わっていた中心人物という想像だろうか? 

これらの想像の中には, しかしながら, 西部邁という人物を語るには不足している事柄がある. それは, 西部邁はその若き時代において「左翼」であったということだ. それも何にも実践を行わない左翼ではなくて, 活動家的な「左翼」であったのだ. では, そんな経歴を持つ西部邁について, 冒頭の2つの引用を行った本をもとに, 簡単に紹介する.

「西部は一九三九年に北海道に生まれ, 高等学校卒業後, 一年間の浪人生活を経て東京大学に入学している. 在学中, 東大自治会委員長・都学連副委員長・全学連中央執行委員として六〇年安保闘争に参加しているが, この輝かしい学生運動の闘士という姿に, 思想家よりも, 活動家や煽動家の体質を見ることは容易であろう」(同上, 101ページ)

「西部は六〇年安保闘争で逮捕・起訴された後, 多くの仲間たちを残してあっさりと転向し, 大学院へ進む. そこではマルクス経済学ではなく, 近代経済学を専攻し, 同大学大学院経済学研究科理論経済学専攻修士課程を修了した後, 横浜国立大学助教授, 東大教養学部助教授を経て東大教授へと出世していく. その後, 渡米し, 帰国後, つまり八〇年代から保守論客として活躍し始める」(同上, 101-102ページ)

なんとも軽やかなムーブメントである. いや, 軽やかな踊りである. 少なくとも, 比較する人物としてはぶが悪すぎるかもしれないが, マルクスや宇野弘蔵におきた事変に比べれば, 軽やかにすぎるのである. 左翼活動家として活躍していた西部は, 逮捕や起訴「程度」のことで易々と, 左翼活動をやめ, 学生として「近代経済学」を学び, 大学教員として出世していったのである.

「マルクスは若き日に先輩研究者であるブルーノ・バウアーが大学の職を追われたのを見て, バウアー以上にラディカルな主張をする自らを振り返り, アカデミックなポストを得ることを断念した. だがその精神は, どの教授先生よりも圧倒的にアカデミックである. 読者を慮って程よく妥協などしない. やる時は徹底的に, 調べるべきはとことん調べ, 論証するべきは反論の余地がなくなるまで行う. 医者にそれ以上勉強すると死ぬと警告されても, マルクス自身の表現で言えば, 「本の虫」であることを止めなかった」(田上孝一『マルクス哲学入門』社会評論社, 11ページ)

「論文や著書からみると無理もない話であるが, 私はしばしば『資本論』学者のように思われているようである. しかし, 決して自分ではそうは思っていない. 生れつき物覚えが悪い方で, 『資本論』にどういうことがどういう風に書かれているかはいちいち覚えていない. しかし何分私の経済学はすべて『資本論』に学んだものであって, そんなことをいうのはおかしいが, 『資本論』から学んだことを自分の主張として述べるといろいろな人から批評されるので, 何べんも『資本論』のその場所を読んでいるうちに, だんだんと自分の考えを明確にしてきたのである」(宇野弘蔵『『資本論』と私』御茶の水書房, 334ページ)

では, 左翼活動家としての西部が, どうして保守論客として活動を始めることができたのであろうか? 山崎はその理由を二つ挙げている.

「一つは, 西部は左翼学生運動の闘士としては有名だったが, それはもうかなり昔の話であり, しかも論文や著作がほとんどなかったこと. もう一つは, 西部が, 福田恆存をはじめとして, 田中美知太郎や江頭淳など, 当時の保守論客を次から次へと直接訪問したり対談したりして, 人間関係を築き, 籠絡していったこと, である」(山崎行太郎『保守論壇亡国論』K&Kプレス, 102ページ)

確かに西部邁は, 佐藤健志, 中野剛志, 藤井聡......などなど, 『表現者』に関わりをもっている, あるいは関わりをもっていた人物を中心に, さまざまな人物を輩出してきたと言っても良いかもしれない. そういうことができた要因の一つには, 西部の思想が深いとか西部の冷徹さが鋭いとか, そのようなラディカルさが西部に存在しなかったこと, 言い換えるとすれば,  自らがデマゴーグとなって, 西部にとっての若き人々を集めていたということが, 挙げられるかもしれない.

2 保守を過剰に語りたがる西部邁

「保守のイデオロギー化, 保守の理論化, 保守の概念化を進めたのは, 左翼から保守への転向組である. つまり「遅れてやってきた保守」である. たとえば, 西部邁や小林よしのり, 藤岡信勝などである. 彼らは左翼仕込みの手法を使って, 保守論壇の「左翼化」を推し進めた. その結果, 保守の定義をお題目のように唱和するだけで, 保守として振舞えるようになったのである」(同上, 28ページ)

人間にとって, 自分にとってあまりにも当たり前にすぎること, あまりにも自然に馴染んでいること, あまりにも分かりきっていることについて, 考えたり書こうとしたりすることは, 意外と多くない. 考えたいことや書きたいことというものは, 自分にとってよくわからないものであったり, 自分にとって自然でないことであったりすることが多い.

以下に, 保守について述べた三人の言説を書き記す(全て山崎の本からの孫引きとなってしまうが, そこはご容赦いただきたい). その三人とは, 西部邁, 福田恆存, 江藤淳である.

まず西部邁の言説からである.

「保守思想はエンシュージアズムつまり熱狂を嫌う. なぜならそうした心性はラディカリズム(つまり急進主義)に特有のものだからである. 急進主義者は人間社会をいわば幾何学的に単純化し, そして過度な単純化という犠牲を払ってたどりついた自分の明晰さにみずから感動して, さっそくその幼稚な知識を実地に応用するのに熱狂する. 革命だの維新だの改革だのを声高に唱えるものはたしかにそうした部類に入る. (中略)保守思想は人間も社会も複雑かつ微妙であることをよくわきまえている. その厄介さは社会科学などとよばれるちゃちな代物ではとうてい把握できない水準に達している. そうみなすからには, 保守思想はすべての改革を漸進的にのみ進めようとするのである. 急進的に改革してしまったとき, 取り返しのつかない錯誤にはまったと後悔することほぼ必定だからだ」(西部邁『思想の英雄たちー保守の源流をたずねて』)

次に福田恆存の言説である.

「私の生き方ないし考え方の根本は保守的であるが, 自分を保守主義者とは考えない. 革新派が改革主義を掲げるようには, 保守派は保守主義を奉じるべきではないと思うからだ. 私の言いたいことはそれに尽きる. 普通, 最初に保守主義というものがあって, それに対抗するものとして改革主義が生じたように思われがちだが, それは間違っている」(福田恆存「私の保守主義観」)

最後に江藤淳の言説である.

「さて, そこで問題になってくるのは, それではいったい保守とは何なのか, 保守主義とはいかなるものか, ということです, 保守主義というと, 社会主義, あるいは共産主義という主義があるように, 保守主義という一つのイデオロギーがあたかも存在するかのように聞こえます. しかし, 保守主義にイデオロギーはありません. イデオロギーがないーこれが実は保守主義の要諦なのです(中略)保守主義を英語で言えばコンサーヴァティズムです. しかしイズムがついたコンサーヴー保守が果してありうるのか. 保守主義とは一言でいえば感覚なのです. 更に言えばエスタブリッシュメントの感覚です」(江藤淳「保守とはなにか」)

この三者の言説を比べてわかることの一つは, 西部だけが「保守思想」というものについてあれこれ肯定文で語っているのに対し, 福田と江藤は「保守主義」というものに対して肯定的に語ることはないということである. もっと言えば, 江藤はまだ, 保守主義という言葉について, 感覚である, と一言で言っているが, 福田に至っては, 保守という言葉の意味について何にも語っていない, 少なくとも肯定文では語っていないのである. 福田や江藤が言っていることを山崎は, 次のように解釈している.

「福田恆存や江藤淳が言っていることは, 煎じ詰めれば「保守の定義不可能性」ということである. 彼らにとって, 保守とは「生き方」や「考え方」のスタイルであって, 定義や概念が先にあるわけではなかった. つまり, 保守や保守主義というものの定義や概念が先に決定されており, その基準にかなうものを保守派ないしは保守主義者と呼ぶ, というわけではないということである」(山崎行太郎『保守論壇亡国論』K&Kプレス, 21ページ)

一方で, 西部の言説に対して山崎は次のように述べている.

「西部は異常に保守や保守思想, 保守主義の定義や概念にこだわっている. それは何故か. やはり彼が, 根っからの保守ではなく, 遅れてやってきた「転向保守」であることと深く関係しているように思われる」(同上, 25ページ)

なお, 西部については山崎は, 次のようなことも述べている.

「柄谷の愚直とも言うべき思想的な生き方に対して, 西部は時代状況の変化を鋭く読み取りながら, 実に要領よく生きてきた, と思わないわけにはいかない. したがって, 転向後の西部が, どれだけ力強く, そして頻繁に保守や保守思想について語ろうとも, 私には西部的生き方への不信と疑念を拭い去ることができない」(同上, 127ページ)

3 右翼の没落には左翼の没落が先行する

「左翼論壇の思想的劣化と知的退廃という現実があったからこそ, 保守論壇の思想的劣化と知的退廃は始まったのである. 明確な目的や理想を掲げる「左翼的構築主義」は保守思想に先行し, 保守思想はあくまでも, そのアンチテーゼとして存在する. 左翼が劣化すれば, 必然的に右翼も劣化してしまうのである」(同上, 30ページ)

「浅田彰と蓮實重彦が, 「ポスト・モダン思想」の流行とともに, 一世を風靡したのは, 政治的問題という「大きな問題」に目をつむり, 趣味や娯楽のような「小さな問題」に固執するという方法を確立したからである. 左翼過激派の学生運動家たちは, 浅田彰的な, あるいは蓮實重彦的なポスト・モダン思想に逃げ込むことで, 生き延びる. 「大きな物語」や「大きな物語」としての政治問題や革命論を放棄することで, 学者や思想家としての生きる道が開けたのである」(山崎行太郎『ネット右翼亡国論』春吉書房, 70ページ)

真っ当な保守, 右翼というものを仮に欲するのであれば, それを仮に自分のものにしたいと思うのであれば, まずは真っ当な革新, 左翼になりたまえ. そうでなければ, 右翼の復興を果たすことは一生叶わない. 飛行機は両翼がしっかり揃っているからこそ, 安全に起動するのである. 一方でも崩れれば, 途端にその安定性をある程度は失うこととなる.

「自由とは何か。
革新グループにあっては保守の態度をとり、保守グループにあっては革新の態度をとることである。

ヘッドホン」

どんな集団も新陳代謝を失えば腐っていくのみである. 自らを保守主義者と規定するものには, 革新思想との戦いが与えられよう. 自らを革新主義者と規定するものには, 保守であることを体現しているものの言説との戦いが与えられよう. 自らを自由主義者と規定するものは, 徹底的な服従との戦いが与えられよう.




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