ふたつの始源と包み込むように。
グラフィックデザイナーの原研哉さんがご著書の中で、
「デザイン」とは何か? を考えるにあたって、
人類が道具を用いることをはじめた瞬間から
デザインがはじまったと考えるとすれば、そこには
ふたつの始源がある、とのように記されておりました。
まず、ひとつめの始源として、
かつて猿人が直立歩行をはじめたとき、その
空いた二本の手で動物の骨などを持ち、
何かを叩いたり、また、武器のように用いたこと、
つまり、棒を手にした瞬間より
人類は知恵によって世界を変容させながら、そして
映画『2001年宇宙の旅』の冒頭のシーンのごとく、
手に握られた棍棒が空高く投げ上げられ、
ゆっくりと回転するこの棒が、やがて
ふわりと巨大な宇宙船にすり替わるようにして、
現代におけるデザインへと進化した。
しかし、道具の始源とは
「棍棒」だけだったのだろうか。
と、原さんはおっしゃいます。
原さんのおっしゃるもうひとつの始源とは、
直立歩行をはじめたことによって
人類はふたつの手が自由になった、
この自由になった両の手を合わせると、
「器」ができる。
ふたつの手のひらをすぼめるように合わせたこの器で、
人類の祖先は、谷川の水をすくって飲んだのだろう。
つまり、何かを保持すべくあるからっぽの空間に
もうひとつの道具の始源がある、
とのように考えることができる。
前者の「棍棒」とは、
みずからの身体の力を増幅させ、
世界を加工・変容させる道具として進化する。
かたや、後者の「器」とは、
容器類への展開、なおかつ、衣服や住居など
その内にエンプティネスを宿しながら、
何かを受容・保持するあらゆる道具へと進化した。
そして、さらには
「棍棒系の道具」と「器系の道具」が融合して、
宇宙船やコンピュータという道具が生まれた。
(参考文献:原研哉さん著『デザインのデザイン(DESIGNING DESIGN) Special Edition』岩波書店、2007年、410-413頁)
水やコーヒーやスープやお酒などなどを飲むときにね、
コップとかカップとかジョッキとかって、
もはや当たり前の物ではあるけれども、
でも、やっぱり便利、というか、
生活に無くてはならない物だなあと思う。
しかも、たとえば、原研哉さんの言われるような
「棍棒系の道具」とは、
みずからの身体の力を増幅させるものだとすれば、
そこには、何かを傷つけたり、及び、
何かを破壊するような力をも宿すこともあるとしても、
「器系の道具」には、
何かを受容すること、つまり、
平和の象徴のようにも感じられるのよね。
以前、noteをはじめる以前のいつぞやのブログの中で
「その包丁とは、包丁であり。」
ということを考えたことがあるのですが。
包丁とは、調理に際して
無くてはならない道具とはぞんじますが、
けれども、その使い方を誤ってしまえば
何かを傷つけたり、ひいては
さらには凶器とも化すこともある。
「包丁」という道具の名称で、どうして
【包む】という漢字が使われているか?!
ってえのはぼくはぞんじないですが、
でも、なんだか、たとえば、
包み込むようにして、
包丁を使うことができたならば。
そしてまた、ぼくは今日もまたまた、
コップ一杯の水を飲み、
この身体を潤せたい。
今日も強く降る雨を想いながら、
その雨さえも、どうか、どうにか、
つつみ込むように。。。
夢に花 花に風 君には愛を そして明日を
令和5年8月9日