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ことばが主人公なんだ。
さくじつのブログでは、ぼくは、
文章を書くことが好きとは言えない、でも、
ことばが好き、と申しますか、
ことばに興味がある、と申しますか、つまり、
ことばとはどういうふうになっているんだろう?
って思う、というのをしるしたのですが。
そもそも、どうして、
この世界にはことばが存在するのか?
ということもわからないね。
たとえば、ぼくの生まれる前から
ことばは存在して、かつ、
ぼくの両親が生まれる前からも
ことばは存在していて、なおかつ、
ぼくの祖父母が生まれる前からだっても
ことばは存在していたのだから、ならば、
ことばの起源もわかるわけもない。
つまり、
ぼくとことばで比べるならば、
ことばのほうが圧倒的に先輩であって、
ぼくはちっぽけな後輩である。
いわば、吾輩は若輩者である。
だからこそ、そんな
若輩者であるぼくが、
大先輩であることばのことを
好きだ、と、申しあげるのも
おこがましいとも思われるし、
ましてや、そのようなことばを
まるで道具みたいにして扱うかのごとく、
文章を書くということを
好きだ、と、申しあげるのも
ことばに対して失礼のようにも感じられる。
そんなことばのことを、及び、
文章を書くことについて、
ぼくはどう考えたらよいのでしょうか?
先日、愛知県清須市の清須市はるひ美術館にて
展覧会『谷川俊太郎 絵本★百貨展』を鑑賞いたしました。
この展覧会のWEBページでは、展覧会について
谷川さんのご感想のコメントが掲載されておりまして。
この谷川さんのメッセージの中では、、
今回の展覧会は絵本を立体化しているけれども、二次的に発展させていくことは「連詩」みたいだと思った。大勢の作り手たちと新たにコラボレーションして、こうして広がっていくのは、作者としてはとてもうれしい。
そもそも自分が作者だという意識が、あまりない。日本語が主体であり、言語が主人公なんだと、常々そう考えているから。展覧会の様子をみて、日本語が醸し出すイメージや言葉はいくらでも広がっていくんだなと、自分の想像力が広がった。
‥‥とのようにおっしゃられていて。
とくに、この
【そもそも自分が作者だという意識が、あまりない。
日本語が主体であり、言語が主人公なんだと、
常々そう考えているから。】
の箇所は、ぼくはきちんとした解釈を
できてないとも思うのですが、
でも、なんだか、
日本語ということばが主体であり、
ことばを記す作者は主人公ではなく、
ことばが主人公なんだ、とおっしゃるのは
良いなあ、素敵だなあ、と思いました。
そしてまた、ぼくがこのうえで申しました
「そんなことばのことを、及び、
文章を書くことについて、
ぼくはどう考えたらよいのでしょうか?」
についてのヒントになっているやもしらないなあ。
つまり、谷川さんの言われますように、
ことばを記そうとするぼくが主体ではなくって、
ことばが主体及び主人公である、と考えること。
もしもそうすることができるならば、
若輩者であるぼくもまた、
ことばに対して失礼も無礼もなく、
ことばを記すことができるのでしょうか。
日本語が醸し出すイメージやことば、
及び、想像力が、さらにさらに
広がってゆきますように。
令和5年11月15日