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「要するに、私は、」のこと。
昨日のブログでは、ぼくが日々使う
「一人称」のことばについて記したのですが。
つまり、たとえば、
「ぼく」であったり、
「おれ」であったり、
というようなことばのことを考えながら、
ふと、思い出していたのはね、
吉本隆明さんのとある講演会にて、
吉本さんがおっしゃっておられたことばのことです。
その講演とは、平成20年7月19日、
昭和女子大学人見記念講堂にて開催されました
『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』
という講演なのですが。
この講演会はね、ぼくも会場へと訪れまして、
吉本さんの講演を聴きました。
内容は、やはり、むつかしく感じられましたが、
吉本さんのお話しなされるそのお姿が、
とっても印象に残っていて、また、
講演会ののちに放映されましたテレビ番組、及び、
販売されましたDVD、そして「ほぼ日」にて
糸井重里さんによるご解説のようなことば、
などなどを観ながら、つまりは、
こういうことを言っているのかなあ?
って、当時、考えたりいたしました。
そして今回、講演のね、
「一人称」のことで思い出した場面というのが、、
昭和20年8月15日、日本の降伏において、
文学青年だった吉本さんは、それまで、
文学について、あるいは
人間の精神活動や心理的な所以について、
自分なりの判断力を持ちながら、
自分なりに心得ているつもりだったのが、
戦後、降伏の日から、
世界を知るためにはどうしたらよいのか? つまり、
世界を知るための方法を、少しも考えたこともなかったな、
ということに初めて気がついた。
と、おっしゃっているのですが。
ここのところでね、吉本さんは、、
戦後、降伏の日からその5、6年は、
結局、まあ、俺は…、
俺は、ってのはマズイかな? 要するに、私は、
世界を知るためにはどうしたらいいのか、つまり、
世界を知る方法っていうのを、少しも知らなかったな、って、
つまり、考えたことなかったな、
っていうことを、初めて気がつきました。
このことをご説明なされる場面では、
最初、「俺は、」と言われたのを、
「『俺は、』というのはマズイかな?」
とおっしゃってから、そして、
「要するに、私は、」
とのように言い換えられたんだった。
ここのところでね、
吉本さんがそうおっしゃってから、
ぼくら会場も笑って、それがさ、
なんだか、よいなあ、と感じたのよね。
つまり、講演の内容としては
むつかしい箇所もあったのですが、
でも、このような、つまり、たとえば、
お人柄と申しますか、つまり、
「俺は」を「私は」と言い換える、って、
なんだか素敵だなあ! と、そのとき、
ぼくは想ったんだった。
降伏の日、
人は、何を思うのか? という状況は、
ぼくには全く想像もつかないけれども、この
吉本隆明さんの講演『芸術言語論』を聴きながら、
そのようなことを、すこしだけ
垣間見たかのように感じたなあ。
世界を知るための方法のこと、そして、
芸術、及び、沈黙のこと。。。
令和5年2月8日